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《海の道 自転車紀行》 1996年 夏

  美津島

 対馬に来て2日目。大船越の民宿を拠点に鴨居瀬の住吉神社や景勝地・上見坂公園などを訪れました。


     鴨居瀬の住吉神社

 対馬・大船越の民宿で朝を迎え、8時過ぎにを出発。今夜もここに泊まることにしたので、荷物は軽い。空は薄曇り。
 まずは昨日行けなかった鴨居瀬の住吉神社を訪ねるべく、のた打ち回る大蛇のような国道を北へ戻る。まだ、昨日の疲労が残っているのか、最初から身体が重い。

 ところで、住吉神社のことである。わざわざ引き返してまで訪ねる理由は何か。
 そもそも僕が対馬へ行ってみたいという漠然とした思いを抱くようになったきっかけはハッキリしないのだが、その対馬についての具体的なイメージを最初に与えてくれた文章はよく覚えている。数年前に図書館で手にした歴史家の故橋川文三氏の著作集でたまたま見つけた「対馬幻想行」という小さな紀行。1967年に書かれたこの文章は、故郷の対馬を数十年ぶりに訪れた橋川氏の遥か遠い日の記憶の糸をたぐるような旅のエッセイである。
 かつての対馬での島内交通は険しい陸路よりもむしろ海路が盛んで、このエッセイの中にも幼い橋川少年がどこへ行くとも知れぬ小舟に揺られながら目にした光景について、次のような回想がある。

 「どこか、きわめて美しい潮の流れに乗って舟は走っていた。それはまるで清冽な峡谷の流れのように、清らかな浅い川底の上を、すべるように流れていた。紫か、青かの光が水底にゆらめき、迫った両岸の緑の樹かげが水面にてり映えて、子供心にこの世のものとも思えない美しい景色であった。そして何か超自然の力に引かれるように、音もなく迅速に潮は流れていた。
 しかし、この夢のような記憶の焦点をなしているものは、その水路がふとひろびろと開けたとき、忽然と眼の前にあらわれたもう一つの光景の神々しいまでの美しさだった。青く澄んだ水の向こうに、純白の砂の渚があらわれ、その中央に、こんもりと茂った緑の森が見える。そして、森の中に、輝くばかりに美しいお宮が鎮まっている。おそらく、ながいながい舟路に疲れはて、半ば朦朧とした気分になっていたにちがいない。私はお伽噺の竜宮の幻影をそこに見たのである」
(『橋川文三著作集8』、筑摩書房、1986年)

 夢みるように美しい描写である。お陰で、長らく僕の心の中の対馬は神話的で幻想的なイメージを纏うことになった。そして、今回の旅立ち前にも久しぶりに再読して、この場所だけはぜひとも訪ねてみたいと思わずにはいられなかったのである。この美しいお宮こそが住吉神社であることは言うまでもない。
 しかし、橋川氏もこの夢のような記憶の中の光景が一体どこであるのか、あるいはそれが現実の光景であったのかも定かでないまま対馬を訪れ、ようやくそれが住吉神社であることを突き止めたようである。氏が引いている『対馬の古跡』(永留久恵著)という文献をここでも借用してみよう。

「鴨居瀬と沖島の間の狭い水道を住吉瀬戸また紫瀬戸という。…紫瀬戸というのは、この水道に紫色の藻が自生するからで、住吉の山の緑を映した水面に、紫色の模様が浮き出て、不思議な神秘感をもりあげる。古来、多くの文人墨客がここを訪れた」

 伝説によれば、海神の娘、豊玉姫が御子を出産した場所であるとか、あるいは神功皇后が三韓征伐の帰途、ここに行宮を建てて海神を祭り、応神天皇を生みたもうたとか、さまざまな神話の舞台にもなっているようである。もっとも似たような伝説はあちこちにあるので、特にこの住吉神社だけが格別の存在というわけではない。

 この住吉神社のある鴨居瀬は大船越から国道を北へ12、3キロ走り、右折してさらに2キロ余りのアップダウンを越えたところにある。鴨居瀬漁港を見下ろす丘の上から漁港とは反対側への急坂を下ると、めざす住吉神社があるが、それより先に民宿の案内板が見つかった。昨日は神社参拝よりは宿探しが先だと考えて鴨居瀬を無視してしまったが、まさかこんなところに民宿が隠れているとは思わなかった。
住吉瀬戸住吉瀬戸は紫瀬戸ともいう。右が沖島

 それはさておき、住吉瀬戸である。対岸の沖島との間の峡谷のような水路に今は短い橋が架かっていた。橋の上から覗き込むと、水面は雲の多い空を映して揺らめき、両岸近くの緑の影の部分だけ水底まで見透かすことができる。澄んだ青緑色の中にわずかに濃い紫色が凝集しているが、あれが藻なのかどうかは判然としない。いずれにしても、水の清らかなことだけは確かである。
鳥居の先は海住吉神社。右側が住吉瀬戸。 その瀬戸が開けたところに小さな住吉神社は佇んでいた。鳥居の下の石段はそのまま海中に没し、ここが海神を祭っているのだということが分かる。境内はコンクリートで塗り固められ、また周囲の森もだいぶ乏しくなったようで、神社そのものは幾らか味気ないもののように感じられた。恐らく、それは曇天で海や周囲の緑が輝きを失ったせいでもあったろう。しかし、境内の縁に腰を下ろして、美しく澄んだ緑色の海の中を覗き込むと、そこには無数の生命が輝いていた。アワビ、ウニ、ヤドカリ、フグ、カワハギ、ベラの仲間、その他名前の分からない大小さまざまな魚たち。確かにここには海の神様がいるらしかった。

     あそうベイパーク

 再び国道へ出て大船越へ戻る途中、休耕田にヒマワリが咲き競う中を右へ折れる道がある。「あそうベイパーク」の案内板があり、何があるのかとあまり期待もせずに立ち寄ってみた。
 例によってひと山越えると、眼下に浅茅(あそう)湾の入江が例によってすっかり周囲を緑に囲まれた高原の湖のような姿を現わす。そこにちょっとした公園、ベンチ、トイレ、水道などがあり、さらに急勾配を下っていくと、静かな海岸に出て、キャンプ場が整備されていた。ただし、人影は全くない。人のいないレジャー施設ほど寂しく空しいものはない。対馬の夏はもう終わったのだろうか。

新旧の万関橋     万関橋

 万関瀬戸の手前で見つけた「やすらぎ」という喫茶店でしばしの休息の後、眼下の美しい海に目をやりながら高さ28メートル、全長82メートルの万関橋を渡る。とはいえ、橋の幅が狭く、すぐ脇を車が通るので、橋の真ん中で立ち止まってゆっくり風景を眺めるだけのゆとりはない。その点、隣で開通を待つピカピカの新万関橋は中央部に展望所が設けられ、観光客への配慮もバッチリ。生意気な若造を横目に最後のお勤めを果たす老朽橋に惜別の念を込めて、ペダルを漕いだ。

     トンネルの向こう側は別世界

 さて、大船越瀬戸に架かる橋を渡って、今度はもう少し南の方へも行ってみる。
PAL21 国道を厳原方面へ2キロほど行くと293メートルの美津島トンネル。これを抜けると、世界が変わった。すぐに対馬空港への入口があったかと思えば、ビジネスホテルや民宿、そして、ついにはPAL21などという大型ショッピングセンターまでが広大な駐車場とともに現われた。さらに、その斜向かいにも同様のショッピングセンターがあるではないか。こんなことになっているとは思わなかった。これまで走ってきた対馬と同じ島とは思えないほどの風景の変貌ぶりである。

 吸い寄せられるようにPAL21に入ってみる。店内の大半を占めるのはビッグマートというスーパーマーケット。さまざまな商品が山積みになり、東京ではこんな光景は珍しくもないのに、妙に心が浮き立つようだ。昨日は売れ残った賞味期限切れのパンでも十分に満足していたのに、目の前に美味しそうなパンが大量にあると、急に贅沢な気分になり、浪費の誘惑に駆られる。
 カーニバルというスナックコーナーでは焼きそばとかお好み焼きとかソフトクリームとか色とりどりのかき氷やドリンクが売られ、子どもたちが群がっている。カーニバルという名前が象徴するように、店全体が魅惑的なハレの空間として豊かな消費生活のイメージを演出し、客もみんなこの場の雰囲気そのものを楽しんでいるようである。駐車場の片隅にはイベント用のステージまであって、その周囲にも子どもたちがたむろしている。
 PAL21の看板に“We present you a new life style cordination.”というメッセージが添えられている通り、この圧倒的な大量消費社会の殿堂はその魔力によって対馬の人々の生活を根本から変えていくのだろう。

 ビッグマートで買った弁当を、これも国道沿いの山を削って造成されたグリーンパークという閑散とした公園のベンチで食べる。

     上見坂

 さて、午後は上見坂公園へ登るつもりである。美津島町と厳原町を分ける峠の頂上にある公園で、浅茅湾を一望できる景勝地らしい。ただし、標高が380メートルほどもあり、自転車で登るのはムチャクチャ辛いに違いない。でも、まぁ、全行程押して歩くつもりなら、なんとかなるだろう。
 PAL21から少し南へ行くと、美津島町の中心、鶏知(けち)の集落がある。その鶏知のパールタウンという昔ながらの商店街の西はずれに「上見坂5.2キロ」の標識があった。その矢印に従って鶏知川を渡り、対馬では珍しい田園地帯を縁どる山裾の道を緩やかに上っていく。
 初めのうちは楽に走れたが、2キロ近く行ったあたりから急激に勾配がきつくなった。こうなればもう自転車を押して歩くしかない。
 朝のうち雲の多かった空もいつの間にか、すっかり晴れ上がり、夏の陽射しが真上からジリジリと照りつける。風はほとんど感じない。じっとりと身体にまとわりつくような暑さである。額から出る汗が流れ込んで目はしみるし、口の中はしょっぱい。
 カーブの連続する急坂は白く照り返し、その熱気で体力がどんどん奪われていく。日射病で倒れるのではないか。そんな不安が心をよぎる。
 とにかく、直射日光から逃れたくて、木陰を見つけては、その下で一服。水分を補給。ひと息つくと、また次の木陰を求めて炎天下の坂道を上る。その足取りは非常に重い。ぐったりとハンドルにもたれると、その重みで自転車がゆるゆると前へ進み、それに引きずられるように一歩一歩足を運ぶといった具合である。唯一の励みは目的地までの距離が分かっていること。メーターを見ながら、あと2キロ、あと1.5キロ、あと1キロと自分に言い聞かせるが、最後は100メートル進むのもやっとの状態になった。
 それでも、必死の思いでつづら折りの急坂を一歩ずつ上っていくと、本当に鶏知の登り口から5.2キロで上見坂公園が見えてきた。
 着いたぁ! なんという解放感だろう。肉体的にはへろへろだけど、非常に嬉しい。

     上見坂公園

 駐車場には先客の車が1台だけあった。展望台の下の日陰のベンチにカップルの姿が見える。あそこは眺めも良さそうで、ベストポジションなのだが、仕方がない。こちらは少し離れた木陰のベンチにリュックを下ろし、汗を拭き、ペットボトルのスポーツドリンクを飲む。しばらくは放心状態で、何もする気にならない。たちまち大きなアブが寄ってきて、僕の周りをぶんぶん飛び回る。それを振り払って、ようやく立ち上がり、展望台に上がると、眼前に対馬の大パノラマが開けた。
朝鮮海峡と浅茅湾浅茅湾対馬空港と対馬海峡

 複雑な風景である。西には原生林の中に白い岩塊が天を突く白嶽を主峰とする険しい山々が屏風のように連なり、その彼方には薄青い朝鮮海峡が広がっている。その水が山また山の対馬の内陸深くにまで侵入して、森の中に密やかに水面を見え隠れさせている。それが浅茅湾。風光明媚というに相応しいその風景を水平に刃物で切り裂いた傷のように見えるのが対馬空港の滑走路。昭和50年に開港した山の上の空港である。さらに東には対馬海峡に面した大船越から鴨居瀬方面まで見渡せ、また、万関瀬戸にかかる赤い橋も山と山の間にちらりと見える。
 こういう風景はいつまで眺めていても飽きないが、なにせ直射日光のお陰で死ぬほど暑い。この展望台の真下のベンチだけが陽射しを避けて、なおかつ眺望も楽しめる場所なのだが、まだカップルが居座っている。見ると、女性の方が赤ちゃんを抱いていて、どうやら観光客というより近所の若夫婦が夏の午後のひとときを公園でのんびり過ごしているといった風情である。ダンナの方は文庫本など読んでいる。ということは、当分占拠が続きそうだ。
 仕方なく、こちらは見晴らしの悪い林の中のベンチに退却。タオルでアブを追い払いつつ、汗を拭いていると、何組かの観光客が次々とやってきた。みんな展望台からの風景を眺め、記念写真を撮っては帰っていく。車だとここまで来るのに何の苦労もいらないから、実にあっさりしたものである。しかし、多大な労力を費やして上ってきた者としては、そんなにすぐに引き返すのはもったいない。上見坂の風景を徹底的に味わい尽くしてやるという意気込みである。

 ツクツクボウシの声が降りしきる雑木林の中にも遊歩道が整備されていたので、歩いてみると、ここは元は日本軍の要塞地帯だったらしく、砲台や兵舎がそのまま残っていた。じっとりと澱んだ空気の匂いの中にこの場所で戦時を過ごした若者たちの心の奥底の不安までが保存されているような奇妙な感じがした。

 結局、上見坂で1時間ぐらい過ごして、14時50分頃に出発。ここから南へ下れば厳原であるが、僕はまた北側の鶏知へ戻る。帰りは延々5キロの下り坂。重力に任せると、軽く時速50キロを超えてしまうが、急カーブが連続するし、いつ対向車が来るかも分からないので、結構恐怖感もある。速度は抑え気味でも鶏知の集落まではあっという間だった。下り坂なら何時間でも続いて欲しいのだけれど。

     太田浦海水浴場

 あとの時間は対馬海峡に面した太田浦海水浴場の美しい浜辺で過ごす。対馬では珍しい砂浜であるが、実は人工海浜である。美津島町が観光客誘致のためにあれこれやっている開発事業の一環らしいが、実際に来ているのは地元の人が多いようだった。

     大船越
大船越瀬戸
 さて、太陽が西に傾いて、大船越に帰る。この大船越についても少し触れておこう。
 そもそも大船越は浅茅湾南奥部の入江が丘陵を隔てて対馬海峡と接する地峡部にあたり、古来、浅茅湾と対馬海峡を往来する船はここで積荷を下ろし、船を引いて丘を越えていた。大船越の地名もここに由来している。
 この対馬の東西交通の隘路を解消するため、寛文12(1671)年に対馬藩主・宗義真によって開削された水路が大船越瀬戸である。今でこそ万関瀬戸の方が有名であるが、大船越瀬戸はそれより200年以上も古いのである。つまり、元は全島地続きだった対馬は2つの人工の瀬戸によって3分割されているのだった。大船越瀬戸はその後、拡張され、現在は延長240メートル、幅50メートルとのこと。

 大船越の史跡といえば、ほかに松村安五郎と吉野数之助の碑というのが瀬戸に面した山麓に立っている。説明板によれば、これは幕末の話。
 文久元(1861)年2月、ロシア軍艦ポサドニック号が浅茅湾に来航し、滞留すること半年に及び、当時対馬では藩を挙げての大騒動となった。4月12日、ロシアの兵士たちが番所を無視してボートでこの大船越瀬戸を強引に通過しようとしたため、松村安五郎はこれを阻止しようと村人の先頭に立って奮闘したが、ロシア兵の銃弾を受けて即死。また、番所の吉野数之助は奮戦して傷つきながら海に入ったが、ロシア艇に捕らえられた。その屈辱に堪えず舌を噛み自害しようとしたが果たせず、釈放後も生きることを望まず、傷の手当ても拒んで、ついに寂しく死亡した。その後、2人は明治政府により戦没者の待遇で靖国神社に合祀されたのだという。

火の神 さらに道端に祭られた火の神など素朴な民間信仰の名残に触れて、瀬戸に面した宿に帰る。その途中、向こうから茶色い犬がやってきて、すれ違う際にちょこんと頭を下げていった。今のは挨拶されたのだろうか。今日の走行距離は64.2キロ。

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