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《海の道 自転車紀行》 1996年 夏
  対馬縦走

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     対馬上陸

 前夜22時40分に小倉を出港した「フェリーあがた」の対馬・比多勝到着は未明の4時35分。玄界灘は穏やかだったのか、ほとんど揺れを感じないまま、よく眠った。
 到着の15分前に客室の電灯がつき、アナウンスが流れる。外はまだ真っ暗で夜と変わらない。
 こんな時間に起こされるのは辛いが、時刻表には「比多勝での下船は入港直後、または7時になります」との注記がある。放送でもそう言っていた。船内にとどまる場合は6時45分まで下船できないとのこと。4時半というのは早すぎるが、7時近くまで船内に閉じ込められるのも困る。まぁ、行くか。
 デッキへ出てみると、闇の彼方にわずかな灯が揺れている。ぼんやりした意識の中で、あぁ、対馬へやってきたんだな、と思う。島の沖合には漁火が浮かび、それが幻想的なぶん、こちらの意識は覚醒してきた。頭上には星が瞬き、天気はよさそうだ。ということは、今日も暑くなるということか…。

 船はほぼ定刻に比多勝港に着岸した。対馬北東部に深く切れ込んだ湾の最奥、まさに天然の良港である。といっても、これは地図上の知識で、実際にはまだ真っ暗だから、一体どんなところなのか判然としないが、山のシルエットが町の背後に迫っているのは微かに見える。やっぱり山ばかりの島なのだ、と気持ちが引き締まる。

 とにかく、まずは海の彼方に韓国を眺めたい。対馬は九州本土よりも朝鮮半島にずっと近く、その距離はわずか53キロだという。小倉で入手した観光地図によれば最北端の鰐浦という集落の近くに「韓国連山展望台」というのがある。そこへ行ってみよう。

     対馬北端サイクリング

 いまだ夜が明ける兆しは全くないが、比多勝港をあとに北へ走り出す。街灯はほとんどない。しかし、ジュースの自動販売機が点在し、その奇妙に明るい光が街灯の代わりになっている。
 闇の奥で囁き合うエンマコオロギの声を耳にしながら、しばらくは平坦な道を走っていくと、前方から鬼火のような灯がゆらゆらと近づいてきた。何だろうと速度を落としてすれ違う。懐中電灯を手にしたお婆さんであった。こんな時刻に散歩だろうか。まぁ、僕が怪しむ筋合いではない。正体不明の不審者はこっちの方だ。

 西泊という集落で海沿いの道は絶えた。ここからいよいよ山道に入る。街灯はなく、もう自販機の明かりもない。暗闇に紛れて墓地の卒塔婆が見える。
 まもなくロラン局の入口を通過。ロラン(LORAN,Long Range Navigation)は電波を使って船舶や航空機に位置や航路を知らせる施設だそうである。対馬は世界有数の電波基地でもあって、こうした施設がこの周辺には幾つかある。

 比多勝から3キロほどで殿崎。日露戦争の日本海海戦で沈没したロシアの戦艦ウラジミル・モノマフ号の乗員がボートで上陸したところだそうで、東郷平八郎揮毫による戦勝記念碑があるという。「壱岐対馬国定公園・殿崎・長崎県」の看板を見て、対馬が長崎県であることに改めて気づいた。

 ようやく東の空が仄かな暗紅色に染まり始めた。水平線上には漁火がひとつ一等星より明るく輝きながらゆっくりと移動している。夜の闇が青く透き通ってきたようだ。
 殿崎を過ぎて改修工事中のガタガタ道を下っていくと三宇田浜という静かな浜辺に出た。水洗トイレやシャワーなども完備した海水浴場で、近くにはキャンプ場もあるらしい。このささやかで美しい無人の浜辺で対馬にきて最初の御来光を拝もう。

 闇は逃げるように去っていった。藍色の空はいつしか色褪せ、淡いオレンジ色が広がっていく。高空を薄く覆う雲は真珠色に輝き、その下を薄墨色のちぎれ雲の群れがゆっくりと流れてゆく。永遠に繰り返される静かな波音の合間に小鳥のさえずりが聞こえ、上空ではトンビがピーヒョロヒョロとのどかに鳴きながら、ゆっくりと大きな輪を描いている。日の出間近。主役の登場を待ちわびるように空と海の色が輝きを増すと、まるで頃合を見計らっていたかのように太陽がおもむろに水平線から顔をのぞかせ、ふわりと宙に浮かび上がった。

 水道で洗面を済ませ、再び走り出す。
 エッチラオッチラ坂を上り、ひと山越えて、ビューンと下ると泉という集落。ようやく目覚めたばかりの静かな漁村で、野良猫が徘徊し、上空をトンビがたくさん舞っている。
 集落を抜けると再び山越え。対馬の海岸線は複雑に入り組んだリアス式海岸なので、海辺へ出たかと思えばすぐにまた山の中に入る。その繰り返し。
 次の集落は豊(とよ)。道端にホウセンカの花が咲き競い、集落の中心には祝福の横断幕がかかっている。地元の高校生が砲丸投げで全国大会に出場するそうだ。広場では子どもたちが10人ほど集まってラジオ体操をやっている。ちょうど最後の深呼吸のところ。時刻は6時35分過ぎ。
 いよいよ最北端が近づいてきた。短いトンネルを抜けて、ひっそりとした入江に出る。餌を漁っていたアオサギが人影に驚き、首をすくめて飛び立った。 
 「鰐浦2㎞」の標識に勇気づけられて急な坂道を上っていくと韓国展望台の入口。小高い丘の上の草地。7時前にようやく辿りついた。簡素な木造の展望台。それに木のテーブルとベンチがあるだけで、もちろん誰もいない。赤とんぼが飛び交い、草むらで秋の虫がすだくばかり。
 薄青い空を映す鏡のように静かな朝鮮海峡の彼方は茫洋と霞んで、残念ながら韓国の山並みは見えなかった。目と鼻の先には海栗島が横たわり、航空自衛隊のレーダー基地がある。やはりここは国境の海なのだ。

 その海を見下ろすように立つのは「朝鮮訳官使殉難碑」。江戸時代の鎖国体制下において日本が唯一正式な外交関係を維持したのが朝鮮であり、当時の対馬藩は幕府から日本側の窓口として外交と貿易に関する権限を特権的に委ねられていた。朝鮮からは外交使節として江戸へ派遣された朝鮮通信使が知られているが、それとは別に対馬の厳原まで往復したのが訳官使で、来航回数は記録に残っているだけで51回にのぼるという。そのうち、1703年に第5代藩主・宗義方の襲封を祝賀するため厳原へ向かっていた使節団の一行108名が鰐浦入港寸前に嵐に遭い、船は沈没、島民の懸命の救助作業にもかかわらず全員が死亡したということだ。
 日韓友好の理念に殉じて嵐の海に消えた彼らの魂を慰める殉難碑の側には日本語とハングルで書かれた碑文とともに韓国国花のムクゲと上対馬町の花ヒトツバタゴの若木が植樹されている。ヒトツバタゴはこの辺に自生する落葉高木で5月頃に白い花を咲かせるそうだ。満開の花が海に映って海面が白く輝くように見えるので「海照らし」とも呼ばれているという。今は時季はずれだが、その隣で今が盛りのムクゲの紅紫色の花が潮風に揺れていた。

 昨日小倉で調達したパンの朝食を済ませ、7時半に出発。急カーブの坂道を下ると赤茶色の瓦屋根の鰐浦集落。山間に隠れた慎ましい漁村であるが、『日本書紀』にも登場する古くから知られた湊で、近世においても貿易港として栄えたという。今は寂れて昔の面影はない。ひっそりとした家並みを抜けて岸壁に立つと、海は底まで透けて、係留された小舟の下を小魚の群れがひらひら泳いでいくのが見えた。

 さて、山に囲まれた鰐浦から出るには、どちらへ行くにも険しい山道を越えなくてはならない。そう覚悟していたが、鰐浦をあとにさらに進むと、曲がりくねった峠道に代わって、真新しい2車線のトンネルが建設されていて、呆気なく山向こうへ抜けてしまった。交通量も少ない過疎地には立派すぎる道路だが、産業の乏しい土地では土木工事そのものが主要産業なのだろう。 
 車もほとんど通らないので、思い切りスピードを出して坂を下っていくと、前方には再び鏡のような水面が広がってきた。地図によれば、西海岸から深く切れ込んだ大河内湾である。湾は細長く、しかも屈曲しているので湾口は見えず、まるで山奥の湖水を思わせる幽邃さである。
 湾の一番奥の大浦集落でぶつかる道路は国道382号線。右へ行けば対馬を縦断して厳原へ通じ、左へ行けば比多勝である。とりあえず、比多勝へ戻る。

 途中に低い峠があったが、ここも新トンネルのおかげでさほど苦もなく越えて8時15分頃に比多勝に帰り着いた。小さな寒村ばかり巡ってきたから、街路樹にムクゲが植えられた国道沿いの町並みに出会うと、まるで都会に戻ってきたかのような錯覚に陥る。とにかく、これで対馬最北部を反時計回りで一周してきたわけだ。走行距離は25キロ。大して難儀することもなく、これなら対馬縦走もなんとか行けるのではないか、と多少自信が湧いてきた。

     対馬の概要

 「フェリーあがた」が朝日を浴びて出航を待つ港に戻り、さて、これからどうするか。案はふたつ。対馬の西海岸寄りを貫く国道を走るか。東海岸沿いの県道ルートを選ぶか。その前にここで対馬の概要をまとめておこう。

 対馬は東西約18キロ、南北約82キロの細長い島で、その9割近くが山林である。島は中央部が細くくびれた地峡をなし、ここに瀬戸が開削されて上島と下島に分断されている。行政区画は北から上対馬町、上県町、峰町、豊玉町、美津島町、厳原町の6町で、総人口は4万6千人。これは減少が続いている(注*対馬の6町は2004年に合併して対馬市となりました)。上島では上対馬町の比多勝を唯一の例外として、上県、峰、豊玉の各町の中心集落はすべて朝鮮海峡から深く入り込んだ湾に面している。恐らく半島との交易を通じて発展したのであろう。国道が西海岸寄りを通っているのもそのためである。一方の東海岸は対馬を縦断する分水嶺が東に偏しているため地形が険しく、人口も少ない。
 となれば、西海岸の国道を選ぶのが自然であろう。比多勝と厳原を結ぶ路線バスもこのルート(約92㎞)を2時間45分かけて走っている。しかし、実際には国道が海岸へ出るのはほんの数ヶ所だけで、ほとんどが島とは思えないほどの山岳地帯を行くらしい。むしろ、東海岸の方が海沿いで走りやすいのではないか、というのが僕の判断である。まぁ、どちらを選んでも峠越えの連続で大変であることに変わりはない。上りが多いということは楽な下りも多いということだし、上り坂は自転車を押して歩く覚悟なら、なんとかなるのではないか。
 初心者ならではの無知に基づく楽観論で自分を励まし、まずは水などを買い入れ、出発の準備をしていると、どこからかサイクリングウェア姿で万全のツーリング装備をした兄さんがやってきた。軽く会釈しただけだが、ほかにも対馬を走ろうという人がいるのだと少し安心する。自転車の性能も装備もこちらはずっと劣っているので、多少引け目を感じたのも確かだが…。

     鳴滝

 比多勝出発は8時半。
 町並みを抜けて国道から左へ折れ、県道に入ると、いきなり急な上り。しかし、ここはなんとかクリア。途中で追い抜かれたタクシーの後部座席に看護婦の白い帽子が見えた。この先で急病人でも出たのだろうか。
 ダラダラと下っていくと「鳴滝」の看板があった。対馬随一の滝というので寄ってみる。愛車を残し、シイタケ栽培用のほだ木が並ぶ山林の奥へ分け入ると渓流に出会い、遊歩道を下ると、流れは小さな滝となって落下していた。水量が少なく、迫力はない。誰もいないし、何もない。周囲は鬱蒼として、独りでいると心細くなる。足元にお菓子の袋が捨ててあり、憤りを感じる一方で、人恋しい気分にもなった。

     舟志

 再び県道に戻ると、まもなく海が見え、一気に下ったところが浜久須集落。海は舟志湾。ここもまた複雑に入り組んだ湾で、周囲を取り巻く山々が静かな水面にくっきりと影を映す眺めは山間の湖の風情である。
 その舟志湾に突き出た半島に聳えるのがオメガ塔。世界8局で地球全体をカバーする電波灯台で、高さは東京タワーを遥かにしのぐ455メートル。東洋一の建造物だという。対馬にこんなものがあるとは知らなかった。(注*GPSの発達により現在は廃止されたそうです。)

 その半島の基部を横切り、カーブの多い海沿いの道を行くと、比多勝行きのバスとすれ違い、まもなく舟志集落にさしかかる。ここには川が流れ込み、土地も開けて、わずかながら田んぼもある。道端には「守ろう大切な人とヤマネコすむ環境」と書かれた看板が立っていた。対馬といえば、天然記念物のツシマヤマネコであるが、絶滅が心配され、人前にもほとんど姿を見せないという。山の中でひょっこり出てこないかと期待しているのだが。

 さて、道は海辺を離れ、急流の舟志川に導かれて山の中へ入っていく。再び沿道にシイタケ栽培のほだ木が目立ってくるが、民家はない。もとより地形が険しくて、人が住むような場所でもない。とはいえ、川沿いだから勾配は比較的緩やかで、ただ、それがどこまでもダラダラと続く。まだこのくらいの坂なら平気である。

 車も滅多に通らない無人の山中を黙々と走っていると、突然、川から黒い大きなものが現われた。犬である。びしょ濡れで、ブルブルと身震いしている。獰猛そうな印象なので、噛みつかれないよう遠巻きに走り過ぎた。

 舟志から5キロ以上も上ると休憩所があった。あずまやとトイレがあるだけの簡素なもので、まだ新しい。もちろん誰もいない。ここで休憩。トイレで用を足していると、突然、外でドタドタドタと物凄い音がした。山から猿の大群でも下りてきたか。咄嗟にそんな光景が思い浮かんだ(対馬に猿はいないそうです)。いささか動転しながら、恐る恐る外を覗くと何もいない。なおも警戒を緩めずにトイレを出ると、不思議なことに、あずまやのベンチに置いた僕の荷物の周囲の床が濡れている。一体何があったというのだ。頭の中ではまだ「!」と「?」がぐるぐる飛び回っている。
 その時、背後である気配を感じて振り向くと、犬だった。しかも今度は3匹に増えている。一匹は黒い犬で、たぶんさっきの奴だ。あとの二匹は茶褐色で、いずれもかなりの大型犬。首輪はないから野犬だろうか。飼い犬のように吠えるわけでもなく、ただじっとこちらを見つめている。それぞれの眼の奥にどのような意思が秘められているのか読めないが、すべての視線が僕ひとりに集中しているところがなんだか怖い。とにかく眼の力で負けないように視線を合わせたまま、リュックを背負い、自転車に跨ると、意外にあっさり踵を返して坂道をスタスタと上っていってしまった。とりあえず、ホッとして、でも油断はせずに、犬の後を追うように走り出す。

     琴の大イチョウ

 結局、犬どもはそれきり姿を見せなかった。舟志から10キロほどで、ようやく山間を抜けると琴集落である。「こと」かと思ったら「きん」と読むのだという。ここにはイチョウの巨樹があるそうで、地図にも載っている。
 そのイチョウはすぐに見つかった。樹齢1,500年という古木で、長崎県の天然記念物。幹周り12.5メートルは日本第2位だそうだ(1位の木は岩手県にあるという)。落雷で焼けたり、台風で折れたりといった災難をくぐりぬけてきた老樹は何本もの支柱に支えられながら今も元気に葉を茂らせている。
 その木陰で水を飲んでいると、おじさんが通りかかった。「こんにちは」と挨拶すると、訝る風でもなく「暑いですねぇ」と自然な言葉が返ってきた。この土地との間に小さな繋がりができたような気がした。

    小鹿

 5分ほど休憩して出発。何気なく振り返ると、比多勝で見かけたサイクリストがやってきて、やはり大イチョウを見上げている。こちらは先を急ぐ。同じルートを辿っているのかと思うと、妙に対抗意識が燃え上がってきた。

 再び山越え。次の芦見まで4キロの標識。単純計算で2キロの上りか。今度は結構勾配がきつくて、これまで使わずに温存していた一番軽いギアを初めて使う。それでもついに力尽きて、途中から自転車を押して歩いた。
 ようやく坂を上りきると、左に原生林の岬を洗うエメラルドグリーンの海が広がった。あまりにも美しく穢れのない自然がなんだか寂しくなるほど心に染みる。

 坂を下ると芦見。まるで世界から孤立したかのようにちっぽけな漁村。照りつける夏の陽射しに海がキラキラ輝き、上空をゆっくりとトンビが旋回している。
 一瞬の安らぎの後にまた上り。さすがにバテてきた。再び自転車を押して岬を乗り越えると1キロほどで一重(ひとえ)。ここも山に囲まれ海に面した小集落。
 漁港を過ぎると、すぐにまた山。次の小鹿まで2キロ余りで、途中には延長380メートルの琵琶坂トンネルというのがあって、思ったよりも楽に山の反対側に抜けられた。しかし、もう汗だくの脱水状態で、いくら水を飲んでも全然足りない。喉が渇くというより全身が水分を要求し、走ろうという意識に対して反乱を起こしている。敵は坂道よりも暑さであった。しかも、この後には最大の難所と思われる茶屋隈峠が待っているのだ。地図を見れば標高は270メートル程度かと思うが、それでも都会の超高層ビル並みの高さ。しかも、海岸から登るわけだから、これは正味の標高差である。

 とりあえずは休憩。ちょうど小鹿バス停の丸太小屋風の待合所があったので、そこのベンチに座り込む。とにかく暑くて、もうグッタリ。陽射しからだけでも逃れたい。
 壁に貼られた郵便局のポスターの中で大塚寧々や牧瀬里穂が微笑んでいる。彼女たちはこんな辺境の地でもやっぱり有名人なのだ。日本は広くもあり、狭くもある。ぼんやりとそんなことを考えた。
 降りしきるセミしぐれとトンビの声を聞きながら、白く照り返すアスファルトの向こうに広がる青い海を眺めていると、先ほどのサイクリストが走り過ぎていった。ついに追い抜かれたか。あの人は一体どこまで行くのだろう。
 ようやくまた走り出す。海沿いのカーブを曲がると、小鹿の集落が思ったより大きいことが分かってきた。小さな旅館もある。そろそろ昼が近いので、何か食べたいが、このルート沿いには食堂とかドライブインの類はあまりないようだ。唯一のオアシスは集落ごとにある昔ながらのよろず屋。小鹿でも漁港の前にあった。赤ちゃんを膝に抱いたおじさんが店番をしていたので「こんにちは」と声をかける。都会では店に入るのにいちいち挨拶などしないが、田舎を旅していると自然にこうなる。変化の乏しい平穏な村の日常への闖入者であるという自覚があるせいである。
「パンはもうしばらくしないと来ませんよ」
 パンの棚をのぞいていると、おじさんはそう言ったが、辛うじて菓子パンが2個残っていた。ただし賞味期限は昨日で切れている。しかし、ほかにめぼしい物もないし、まぁ、いいか。ついでにキャンディやお茶、スポーツドリンクなど買い、むずかる孫をあやすのに忙しいおじさんに代わって袋詰めも自分でやって、冷房の効いた店内に未練を残しつつ、また炎天下へ出た。

 さて、小鹿から道は二つに分かれる。一方は新しくて立派な道路。もう一方は古い細道で、「佐賀・志多賀方面」と書いた矢印はこっちを指している。僕が行きたいのはそちらである。佐賀も志多賀も茶屋隈峠の向こうの集落で、途中の峠道は相当に険しそうだ。新しいほうの道路はたぶん峠の下をトンネルで抜けるバイパスに違いない。行く手に待ち構える苦難を思うと、旧道は避けてバイパスを通りたいのだが、矢印は確かに旧道の方を指している。新道もこの辺はすでに完成しているが、途中に未開通の区間があるのだろうか。そう考えていると、道路際の民家の窓から女の人に声をかけられた。
「お兄さん、どこから来たの?」
「比多勝からです」
「あら、お兄さん、比多勝の人?」
「いやいや、東京から…」
 ここで少しは驚かれるかと思ったが、そんな様子は見えない。
「どこまで行くの?」
「志多賀の方へ…」
「それなら下の道よ。そっちは途中で行き止まりだから…」
 言うまでもなく「下の道」とは旧道であり、「そっち」というのは新しい道のことである。やっぱりそうなのか。ちょっと気落ちしたが、最初から覚悟していたことではある。
 礼を言って走り出すと、すぐに郵便局があり、軒先がちょうどいい日陰にになっていたので、そこで賞味期限切れのパンで昼食。ひどく貧乏くさい旅になってきたが、これはこれで結構楽しくもある。そこへ郵便配達のおじさんがバイクで戻ってきた。こっちは郵便局の前で勝手に座り込んでパンなど食っているわけだから、どんな眼で見られるかと思ったら、会釈された。ありがたいことである。

     茶屋隈峠

 さぁ、行こうか。志多賀まで11キロ。道はくねくねとカーブを繰り返して距離を稼ぎながら徐々に高度を上げていく。最初のうちは頑張ってペダルを漕いでいたが、勾配が急になるとたちまち限界がやってくる。自転車を降りてしまえば、もはや風も感じない。夏の太陽が真上から容赦なくジリジリと照りつける。ハンドルにもたれるようにして、のろのろと重い足取りで少しずつ進んでいく。
 見上げれば、ずっと上のほうに白いガードレールが続いている。まだあんなに上るのか…。自転車を押して歩くつもりならどんな山道も怖くない、などと考えていたが、甘かった、と今さらながら気がついた。
 つづら折りの坂をあえぎつつ上っていくと、道路の補修工事中で、作業員たちが木陰で弁当を食べていた。その前を自転車を押して通るのはいかにも情けないので、そこだけは自転車に乗って、最後の体力を振り絞って一気に走り過ぎる。作業員たちの視界から逃れるとまた降りて歩く。ふぇ〜。
 こんな山道でもこの区間では今のところ唯一の交通路であるから、たまには車も通る。すれ違ったり抜かれたりするたびに、車内からの視線が気になる。どうせ「物好きな奴がいるもんだ」とでも思われているのだろう。実際、こんな山ばかりの島を自転車で走るなどというのは相当な物好きか変わり者というほかないのだが、そうすることによって少しでも旅の原点に近づきたいという気持ちもあるにはある。便利で速い移動手段を利用するということは、旅のプロセスを省略することでもある。それはやっぱり味気ない。
 ようやく峠が近づいてきたようだ。眼下に広がる緑の谷沿いに自分が辿ってきた白い道が見え隠れして、彼方には昼下がりの海が薄青く霞んでいる。いくら物好きとはいえ、こんなところまで上ってきたかと思うと、我ながら健気に思う。 さらにしばらく上ると、海側の視界は遮られ、反対側に鬱蒼とした原生林の山並みが広がった。何の表示も見当たらないが、ここが茶屋隈峠らしい。上対馬町と峰町の境界でもある。
 ここからはもう下る一方。ペダルの重みから解放されてグングン加速。全身で風を受けて、右へ左へカーブを切りながら、気持ちよく、どんどん下っていく。もちろん、対向車に気をつけながら、ではあるけれど。

     志多賀

 峠から5キロ。山間に黄金色の田園が広がってくると、新しい道路と再び合流して、まもなく志多賀。これまたのどかな海辺の集落で、漁港にはおばさんたちが集まって、揚がったばかりのタチウオを分けているところのようだ。どれだけの漁獲高があるのか知らないが、いかにも零細な感じである。このあたりはイカ漁が中心だそうで、電球をたくさんつけた漁船が係留されている。夜になると沖合に幻想的な漁火が浮かぶのだろう。港にもイカがたくさん干してある。岸壁のすぐ下にもアジらしき魚の群れが泳ぎ回っている。今夜はどこかの民宿で美味い魚が食べたいなぁ、と思う。
 それにしても疲れた。走るのをやめると途端に汗が吹き出してくる。船を舫う杭に腰掛けて汗を拭いていると、マウンテンバイクに乗った中学生ぐらいの地元少年が通りかかった。
「旅ですか。頑張ってください」
 応援されるほど立派なことをしているわけではないが、やっぱり嬉しい。「観光」でも「旅行」でもなく、「旅」というところがまたよい。
 思わぬ声援を送られ、再び走り始める。次に挑むのは地蔵峠である。といっても、今度は新しいトンネルが開通しているようなので、峠のてっぺんまで登る必要はない。
 幅広の新しい道路をエッチラオッチラ上っていくと、前方からジョギングのおじさんが汗だくになって走ってきた。当然ながらお互いに目と目が合う。ある種の共感を抱きつつ挨拶を交わして、すれ違った。
 1キロほどで早くもトンネル口が見えてきた。志多賀トンネル(216m)。いったん下って、また上ると、今度は地蔵トンネル(280m)。呆気ないものである。古い峠道はもはや廃れてしまったのだろう。茶屋隈峠も近い将来、トンネルで簡単に抜けられるようになり、あの峠道も忘れられてしまうのかもしれない。そう考えると、ひとつぐらい険しい山道を地形に忠実に越えておいてよかったと思う。

     佐賀

 比多勝以来久しぶりに町らしい町が見えてくると佐賀(さか)である。峰町の中心集落は西海岸の三根であるが、佐賀は東海岸の拠点になっているようである。中対馬総合開発センターという立派な建物があったので、そこの玄関先で休憩。なかは閑散としているが、冷房が効いていそうで羨ましい。
 この佐賀には旅館や民宿が3軒ばかりあることも分かった。この辺で今日のサイクリングは終わりにして、のんびりしようかとも思ったが、まだ13時を過ぎたばかり。もう少し先へ進もう。見知らぬ人々の日常空間に迷い込んで、異邦人としての孤独感を味わうよりも、むしろ自転車に乗って風のように通り過ぎてしまう方が気分的に楽でもある。
 というわけで、またも山越え。道路の起伏の激しさはどこまで行っても変わらない。上っては下り、下っては上る。その繰り返しである。陽射しは相変わらず強く、暑さは厳しい。汗は止めどなく流れ、身体は絶えず水分を渇望している。しかし、休憩するようなお店は見当たらない。どこまで走ればいいのか見当もつかないまま、ひたすらカーブの連続する坂道を上っては下り、下っては上る。

     豊玉町

 いつしか峰町から豊玉町に入り、小さな集落を通りかかる。「曽」というのがその土地の名前であった。対馬には漢字1字の地名が多いが、平仮名でも1字の地名は珍しい。郵便局があったので立ち寄って、貯金を下ろす。こんな辺地でもオンラインで全国と繋がり、カード一枚でお金を引き出せるという当たり前の事実がとても不思議なことのように思われた。
 その曽集落のはずれの橋の袂の古びた雑貨屋の前で自動販売機を見つけ、橋の下の清流で小学生の女の子がふたり気持ちよさそうに泳いでいるのを眺めながら、缶ジュースで喉を潤し、再び鬱蒼とした山の中に分け入る。

  ひと山越えるとまた入江が見えてきて、千尋藻(ちろも)というバス停があった。バス停といっても、やってくるのはスクールバスだけのようだが、とにかく粗末な待合小屋でも今やオアシス。ガラガラと扉を開けて、中のベンチにガックリと座り込むと、たちまちモワッとした熱気に包まれる。灼熱の太陽に晒された小屋の内部は凄まじい高温で、50度ぐらいあるのではないかと思うほどだった。慌てて逃げ出し、また重いペダルを踏んで、次の山越えにかかる。
 とにかく、早く宿を見つけて落ち着きたい。しかし、観光ルートからはずれているので、簡単には宿など見つかりそうにない。やっぱり佐賀で今日はやめておけばよかったか。といっても、今さら戻るわけにもいかない。あぁ、疲れた。

 左手に静かな湾が広がった。久しぶりに起伏のない道がしばらく続く。とはいえ、疲労困憊で、もはや快走とはいかない。美しい風景ももう心の慰めにはならない。
 その海辺を離れ、浦底という土地で別の道路とぶつかった。そこを右に折れて、2キロ余り走ったところで、道を誤ったのではないかと不安になり、地図を出して確かめると、いま走っているのは比多勝の町はずれで別れて以来の国道382号線であることが判明。しかも、僕は厳原方面に向かっているつもりで、実は逆に比多勝方面へと走っていたのだった。
 当然、そこで引き返したわけだが、あとで考えれば引き返すべきではなかった。というのは、そのまま3キロほど比多勝方面に行けば、豊玉町の中心集落の仁位に着き、そこにはビジネスホテルや民宿があったからである。しかし、比多勝から厳原方面へ向かって走るという基本線からはずれてしまったことへの焦りが先行して、冷静さを欠いていたのだろう。地図を見ていても、全くそのことに気づかなかった。結局、さらに今宵の宿を求めて走り続けることになった。

     美津島町

 というわけで、浦底まで引き返し、さらに国道382号線を厳原方面へのろのろと走り出す。ここからは美津島町。ちょうど対馬の上島と下島を繋ぐ地峡部にさしかかり、これまで左側にだけ見えていた海がこれからは右側にも見えてくるはずである。起伏の激しさは相変わらず。国道だから交通量だけはいくらか増えたようだ。 
 それにしても、一体どこまで走ればいいのだろう。だんだん坂を上る体力がなくなってきて、ちょっとした上りでも自転車を押して歩くようになった。遠くに確かな目的がある場合には目の前の坂を克服するのは意外に楽なものである。ところが、同じ坂道でも、明確な目標が見えてこないと、辛い気持ちだけが意識を占領し、ペダルはますます重くなる。そして、ヨレヨレ状態で坂を上りきると、下り坂の向こうに次の上り坂が見えて、げんなり。快適なはずの下り坂の喜びも失せる。今さら気づいても遅いのだが、駆け出しの自転車旅行者には対馬はちょっとレベルが高すぎた。

 とにかく、浦底から5キロほど行くと、芦浦という漁港が左手に見えてくる。ここにも宿などありそうにない。そのまま通り過ぎようとすると、カサカサカサと微かな物音が聞こえた。何だろうと音の方向に視線を走らせると、芦浦に注ぐ細流の岸辺で動くものを発見。よく見ると、イタチのような獣である。光沢のある黒茶色の毛並みが美しい。対馬には国の天然記念物のツシマテンが生息しているはず。それだろうか。もしかしたら貴重な発見なのではないか、という軽い興奮を覚える。しばらく足を止めて、その動きを目で追っていると、そいつは流れに沿って藪の中を走り抜け、やがて茂みの奥に姿を消してしまった。イタチかテンか正体は不明ながら、一時だけでも疲れを忘れさせてくれた。

 まもなく、鴨居瀬方面へ通じる道の分岐点に出た。鴨居瀬には住吉神社という美しいお宮があるそうで、ぜひ訪ねてみたいと思っている。しかし、今は神社参拝より宿探しが先である。今日のところは先へ進む(実は鴨居瀬に民宿があるのを発見したのは翌日のことである)。
 さらに国道を下ると、すぐにまた左側に小船越の入江が見えてきた。集落の中を走ってみたが、旅人には縁のない静かな漁村であった。結局、厳原まで行くことになるのだろうか。だとすると、あと30キロ近くはありそうだ。夜明け前から走り始めて、すでに時計の針は16時を回り、太陽は西に傾いている。走行距離も100キロを超えた。わずかに残った体力を最後の一滴までしぼり尽くすつもりで、再び坂を上る。もう前を見るのも嫌になって、ただ足元だけを見つめて、ひたすら自転車を押し続ける。時折、バッタやトカゲが出てきたり、ネズミやヘビが死んでいたりするが、もはや心が動くこともない。

     万関瀬戸

 小船越から5キロほど山を縫って進むと、今度は右手に山奥の湖沼のような静かな水面が広がった。島の中央部の西側をざっくりと抉り取ったような浅茅湾の奥のそのまた奥の部分である。このあたりは山々が沈降し、山襞の奥にまで海水が入り込んだ結果、大小無数の入江と半島や島が複雑怪奇としか言い様のない海岸線を形成している。こういう地形を「溺れ谷」と呼ぶそうで、海に溺れずに残った山脈の頂上部分が地峡となって対馬の上島と下島を辛うじて繋いでいるのである。
 その地峡がついに途切れるところが万関瀬戸。もともと対馬は全島が地続きであったが、明治33年に日本海軍が浅茅湾から日本海へ抜けるために上島と下島を分断する運河を開削し、その上にアーチ式の橋を架けた。それが万関橋で、切り立った瀬戸に架かる美しい姿から対馬の景勝地にもなっている。その橋が近づいてきた。ここなら宿があるのではないか、とわずかな望みを抱いていたが、橋の手前に喫茶店があるだけだった。
 万関橋は現在架け替え工事中で、すぐ隣に新しい橋がほぼ完成した姿を現わしている。前後の道路も含めて、近い将来に切り替えられるようだ。眼下の瀬戸を見下ろす心のゆとりもないまま、まもなく役目を終える老朽橋を一気に渡って、ガタガタの工事区間を過ぎれば、また上り。例によって歩くが、今はもう歩くのも辛い。

     大船越

 万関橋から約4キロ。山間のカーブの先に突如として山が切り開かれ造成された土地が出現した。このあたりは開発が進んでいるのか、と思いながら走っていくと、ついにあった…。道端に民宿の看板がひとつ、ふたつ…。
 山で遭難した人が救助隊の呼び声を聞いた時はこんな気分になるのだろうか。劇的に元気を取り戻し、案内板に従って、脇道に逸れ、勢いよく坂を下ってゆく。
 大船越。この地名は一生忘れないだろう。漁港に面した民宿が見つかった時には心の底から「助かったぁ」という安堵感が込み上げてきたものである。
「あの、今日、部屋は空いてますか?」
 玄関先でそう尋ねながらも、もう断られることなど考えてもいない。宿のおばさんはすぐに玄関脇の部屋を片付けて空けてくれ、おじさんは僕が比多勝から自転車で来たことにしきりに感心しながら、すぐに風呂に入れ、と言ってくれた。素直に嬉しい。もう手を合わせて感謝したい気分である。
 結局、今日の走行距離は111.7キロ。宿に着いたのが4時40分頃。まさかこんなに走ることになるとは思わなかったが、それだけに風呂でさっぱり汗を流した後の夕涼みのひとときは格別である。ヘトヘトになって山道を上っていた時には想像もできなかったような安らかな解放感に包まれて、畳の上にゴロンと寝そべっていると、どこからか6時を告げるドヴォルザークの「家路」のメロディが聞こえてきた。
 さて、島の民宿の最大の楽しみといえば、やはり食事である。飛び込みでも夕食を用意してくれて、通された広間には10人分ほどの膳が並べられていた。それで意外にお客の多いことが分かったのだが、集まってきた顔ぶれの大半は作業員風や商用客など仕事関係の人たちで、旅行客は僕のほかに熟年夫婦がいるだけのようである。
 それはさておき、おばさんと娘さんが次々と運んでくる、様々な海の幸の刺身、天ぷら、焼き物、煮物など大変なご馳走には思わず目を見張ってしまった。本当にごちそうさまでした。
 
 その夜。疲れたので早く寝ようと思っていたら、10時頃になって、部屋の外でおばさんが呼んでいる。
「東京のお兄さーん、イカ食べない?」
 何かと思えば、おじさんが今、イカ釣りから帰ってきたそうで、はるばる東京からやってきた僕に獲れたてを食べさせてやろうというわけだ。で、結局、また茶の間で娘さんにビールをついでもらいながら、剣先イカの刺身をたっぷりご馳走になった。いろいろと話が弾んで、気がついたら12時近くになっていた。

  翌日へ続く

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