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 根室半島サイクリング 1998年8月


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    春国岱

温根沼 5時起床。根室市郊外のキャンプ場から眺める早朝の根室湾は曇り空を映して、のっぺりとした無表情。
 今日はテントを張ったまま、荷物も残して、身軽なスタイルで6時半に出発。まずは国道を西へ3キロほどの春国岱を訪れるべく国道を釧路方面へ走る。
 まもなく渡る立派な橋が温根沼の湖口にかかる温根沼大橋。沼の干潟ではつがいの丹頂鶴が餌を探していた。アオサギもたくさんいるので、双眼鏡を取り出し観察してから、さらに走って根室半島の根元の東梅という地名のついた丘陵を越え、右折すると風蓮湖の岸辺に出る。

 根室湾の海岸線はここから直角に北へ折れるが、その海岸線に接するように水面を広げるのが風蓮湖で、根室湾と風蓮湖を隔てるように北へ伸びる全長8キロの砂州が春国岱(しゅんくにたい)である。
 この砂州は砂丘、干潟、湿原、広葉樹林、針葉樹林と海岸から高山までの多様な自然が同居する特異な環境に恵まれ、これまでに300種類以上の野鳥が観察されたということで、とりわけバードウォッチャーの間では有名らしい。ちなみに春国岱の語源はアイヌ語のスンク・ニタイでエゾマツ林の意味であり、砂丘に自生するエゾマツ林は世界でも国後島とここだけでしか見られない貴重なものだそうだ。
風蓮湖 その春国岱へ短い橋を渡ると駐車場があり、車両もここまでは入れる。橋の欄干には目つきの鋭い大柄なオオセグロカモメがたくさん翼を休めていて、近づくとフワッと舞い上がった。
 駐車場の片隅に自転車を残して散策路を歩き出す。広大な春国岱のうち人間が入れるのはほんの一部に過ぎないが、それでも散策路をひと通り歩けば、その多様な自然に触れられるようにはなっている。まだ7時になったばかりで、先客はいないようだ。
 しばらくは海岸の砂丘伝いに風蓮湖の水辺を辿る。根室地方では最大の海跡湖も、湖岸線が複雑で、ここからでは全体像はつかめず、大きさも実感できない。
 ここはまた国内でも最大級の白鳥の飛来地として知られるが、もちろん夏場に白鳥がいるはずもなく、現在はアオサギばかりが目につく。
 水際にはサンゴ草が生えていて、実物は初めて見た。秋になれば真紅に色づくはずだが、今はまだ緑色の目立たない草である。
 白と黒のコントラストが清楚な印象のハクセキレイが波形を描いて飛んでいくのに導かれて湖畔を行けば、湖はやがて湿原へと移り変わっていく。

  

春国岱の原生林 清らかな水が流れ、立ち枯れた松の木が白骨のように立ち尽くす湿原にかかる木道を渡っていくと、今度はアカエゾマツやトドマツの原生林に入る。地面はミズゴケに覆われ、そこにシダやミズバショウが群落をつくり、道はジメジメして水溜りやぬかるみも多く、歩きにくい。しかも巨大な蚊が一斉に襲いかかってくる。
 この原生林では運がよければ日本最大のキツツキ、クマゲラに会えるというが、そこまでの幸運には恵まれなかった。それでも小鳥のさえずりは絶えず樹上から降りそそぎ、ゴジュウカラの姿が確認できたし、枯れ木の幹をつつくアカゲラもいた。
 キジバトは東京でも普通に見られるが、こんなところで木の枝に止まっていると、却って新鮮な印象を受けた。同じキジバトでも東京とは暮らしぶりがだいぶ違うのだろう。

 手足に止まる蚊をパチンパチンと叩き、ぬかるみを避けるのに苦労しつつ、途中でクモの巣に顔を突っ込んだりして、何とか原生林を一巡し、再び湿原を渡って、海岸の草原に戻る。といっても、小高い砂丘に隔てられて海は見えない。
 この砂丘は日本でも最大級のハマナスの大群落になっている。すでに盛りは過ぎているものの、まだ至るところで濃いピンクの花が咲いている。花のあとには球形の実ができて、これも赤く色づいて美しい。
 このハマナスの丘と湿原の間を奥地へ続く小径を往復してくる。周囲にはほかにクサフジやエゾフウロやエゾカワラナデシコ、ノコギリ草などの花が咲き、ノゴマやカワラヒワや(たぶん)シマセンニュウなどの野鳥も姿を見せた。
 足元には小さな黒い甲虫が2匹。身を屈めてよく見ると体長7センチほどの野ネズミの死体に食らいついているのだった。
 どこからか丹頂鶴の夫婦も飛んできて、湿原に舞い降りた。先刻温根沼にいたあの2羽だろうか。湿原の鶴は何度も見たが、大きな翼を広げて飛翔する姿はさすがに優雅で感動する。湿原の対岸にはエゾシカも3頭ほど出てきた。

 

 散策路をすべて歩き尽くし、春国岱を見下ろす高台に立つ ネイチャーセンター にも立ち寄る。結局、春国岱一帯で4時間も過ごして、11時過ぎに自転車の人に戻り、根室の街へ向かう。
 途中、温根沼大橋の上で向こうから走ってくる自転車旅行者がいた。赤いバンダナで、それが昨日のひとり旅の彼女だと分かった。彼女も僕に気づいて、笑顔で手を振ってくれる。クルマの行き交う広い車道を挟んですれ違ったので、言葉を交わすことはできなかったが、今頃こんなところを走っているということは、たぶん朝のうちに納沙布岬まで行ってきたのだろう。これからオホーツク沿いに北上すると言っていたから、今日の行き先は尾岱沼あたりだろうか。
 一瞬の出会いの余韻に浸りながら、いったんキャンプ場に戻り、11時20分に改めて出発。

     和田神社と屯田兵の碑

 根室の街まではまっすぐ国道を行けばいいわけだが、そうせずに、すぐ右折。牧草ロールの転がる丘を越えて太平洋側の西和田へ出る。
 西和田の和田神社には屯田兵の碑というのがあった。和田は根室地方における屯田兵開拓の拠点であったらしい。
 明治政府によって北海道開拓と北方警備のために送り込まれた屯田兵。彼らはどんな思いを抱いて故郷から遠く離れた最果ての地を踏んだのだろうかと思う。北海道開拓には和人によるアイヌの大地の侵略という一面があるわけだが、その先兵になった人々の運命にも計り知れない苦しみや悲しみがあったに違いない。飾り気のない簡素な神社の前でそんなことを想像してみた。

     根室

 さて、和田から根室までは昨日と同じ道道142号線を行く。
 ずっと快適なサイクリングだったが、根室市街の手前にある丘陵の谷間はゴミの埋め立て処分場になっており、なんとも言えない悪臭が漂い、カモメやカラスが群がっていた。現代の大量消費・大量廃棄型都市にゴミ捨て場は不可欠とはいえ、谷を埋め尽くす夥しい量のゴミを目の当たりにすると、もとは美しい湿地帯であったはずの失われた風景がはっきりと目に浮かぶだけに痛ましい気がする。まぁ、僕も生まれながらにしてニッポン人という自然破壊団体の一員なので、あまり文句は言えないわけだが。
根室駅
 とにかく根室の街に着いた。これで釧路からの道道142号線は完走である。ちょうど正午のサイレンが鳴っている。
 根室の街なかで金物屋を見つけ、探していた缶切りを購入。これで昨日霧多布のキャンプ場でもらったパイン缶を開けられる。
「自転車かい?」
「やっぱり、この格好を見れば分かりますか?」
「そりゃ分かる」
 店のおじさんに簡単に正体を見破られたが、それだけ自転車旅行者を見慣れているということだ。本州方面からやってくる自転車やバイクの旅行者というのは北海道では夏の風物詩みたいなものなのだろう。大体、いくら8月とはいえ、根室でTシャツ短パン姿なんていうのはチャリダーぐらいのものである。街なかの電光気温計によれば現在の気温は20.8度。昨日の予報では最高気温が17度のはずだったし、意外に高いなとは思うが、それでもこの気温である。まぁ、暑くもなく、寒くもなく、サイクリングにはちょうどいい。あとは青空が広がってくれれば言うことなし。

     ノッカマップ岬

 さて、根室の街から納沙布岬までは片道23キロ。根室半島の先端部を一周する道道35号線を時計回り、つまり往路は根室湾に面した北岸ルートを辿る。
 バスの通る南岸回りに比べて、こちらは人家も少なく、なだらかな原野や牧草地が延々と連なる道をひたすら突っ走る。
 緩やかに下れば、草原の丘の合間に密やかな湿原があり、そこを過ぎれば、また緩やかに上る。その繰り返し。

  

 上空は重苦しい雲に覆われ、左手に広がる海も鉛色だが、行く手の空は青い。期待できそうだ。
 爽快な気分で走るうちに曇りと晴れの境界を過ぎ、僕と自転車の影も濃くなってきた。海も青さを取り戻し、草原の緑も輝きだす。今日は重い荷物も積んでいないから、ペダルも軽い。なんだか無性に嬉しくなってくるではないか。
 自転車に乗る人なら誰もが羨むような幸福なサイクリングを楽しみながら、根室から10キロ行くと、ノッカマップ岬に着く。根室半島の北側に突き出た岬である。時刻は13時10分。

 

 草原には色とりどりの花が咲き乱れ、草の生えた土の道の先に白黒のだんだら模様の細身の灯台が青い水平線を背景にぽつねんと立っている。葉祥明さんの風景画とイメージが重なるが、灯台の傍らには不法に廃棄された自動車がずっと放置されたままで、どちらかといえば荒涼とした印象の岬である。
 あまりにも観光地化されすぎた納沙布岬とは対照的にほとんどの旅行者が素通りしてしまうが、実はこの岬の周辺には様々な歴史が秘められているようだ。
 まるで人気のない現在の風景からは想像もつかないが、昔はここが根室半島の中心地であったらしく、安永7(1778)年に千島列島を南下してきたロシア人が通商を求めて来航した、いわば日露交渉発祥の地がこのノッカマップだそうである。また、フランス革命と同じ寛政元(1789)年に苛酷な和人支配に対して国後や目梨(知床)で反乱を起こしたアイヌの首謀者37名が処刑されたのもこの地であるという。そうした歴史をずっと見つめてきた海は薄青い表情を浮かべたまま黙して語らず、美しい花々だけが失われた時代と消えていった人々への供花のように大地を彩っていた。
  

     北方原生花園 

 ノッカマップをあとにさらに進むと北方原生花園。「原生花園」というバス停があって、時刻表を見ると1日1便だけバスが通るようだ。見渡しても、観光客の姿はない。
 湿原には木道が張り巡らされているものの、板がボロボロに朽ちているので、踏みはずしたり、踏み抜いたりしないように用心して歩く。
 オホーツクからの強い風になびくように変形したミズナラ林が風景に面白みを与えているが、すでに大方の花は咲き終わり、わずかにノハナショウブだけがひっそりと紫色の花をつけていた。

     トーサムポロ沼
 
前方に自転車集団 自転車に戻ると、ちょうど大学生のグループが自転車で走り過ぎていった。彼らのあとを追うように走り出す。女の子も何人か混じっていて、スピードはそんなに速くないから、どんどん追いついてしまう。基本的には僕ものんびり派なのだが、ここはまとめて追い抜いてしまおう。
 ぐんとスピードを上げて、「こんにちは」とか「お先に」とか声をかけつつ、センターライン寄りを一気に走り抜ける。一度抜いてしまえば、また追いつかれるのは情けないから、スピードを落とさずにガンガン飛ばす。

 それにしても果てしない眺めである。茫洋とした根室海峡。雄大な草原の丘と瀟条たる湿原。そして、緑の中にひっそりと水を湛えるトーサムポロ沼。大都市の近くにあれば、景勝地として観光客が集まりそうな風景が無垢のまま無造作に散らばっている。走りながら、太宰治の紀行小説『津軽』に出てくる彼の風景論を思い出す。

「風景というものは、永い年月、いろんな人から眺められ形容せられ、謂わば、人間の眼で舐められて軟化し、人間に飼われてなついてしまって、高さ三十五丈の華厳の滝にでも、やっぱり檻の中の猛獣のような、人くさい匂いが幽かに感ぜられる。昔から絵にかかれ歌によまれ俳句に吟ぜられた名所難所には、すべて例外なく、人間の表情が発見せられるもの」である。

 太宰はこう述べた後で、彼が訪れた津軽半島北端の海岸について「てんで、風景にも何にも、なってやしない」というのであるが、それはこの根室半島にも当てはまるようだ。「人くさい匂い」は感じられず、まさに風景以前の風景と言ったらいいのだろうか。
 同じ北海道でも、例えば摩周湖はさんざん人に眺められ、語られ、形容され、絵になり、歌になった結果、言葉としても映像としても、そこへ行ったことのない人の心の中にまで一定のイメージができあがっている。だから、摩周湖へ行けば、「今日は珍しく晴れている」とか「やっぱり霧で何も見えない」とか、既成のイメージを参照しつつ風景を眺めることになる。
納沙布岬付近の牧場 あるいは、知床半島であれば、「秘境」とか「最果て」とか「大自然」とか「野生」とかいったイメージのもとにすべてが語られ、我々もそうした固定観念に従って知床を見ようとするし、思わず『知床旅情』を口ずさんでしまったりするわけだ。
 ところが、根室半島の場合はそれがない。先端の納沙布岬とその先の北方領土については政治上、歴史上、地理上の観念的な知識があるけれども、その納沙布岬へ至る途中についてはイメージが希薄(これは浜中から根室にかけての海岸についても同様である)。見過ごされ、語られず、もちろん絵にも歌にもなりはしない(なっているかもしれないが)。要するにいまだに太宰の言う意味での「風景」にはなりきっていない(といって、「風景」という言葉を封印してしまうと不便なので、今後も使うつもりだが…)。
 例えば、トーサムポロ沼にしても、剥き出しの自然がそこにあるだけで、いかにも人になついていない感じである。人間を拒絶はしないが、受容もしない。ただ寂寞としていて、旅行者も素通りするほかない(なので、沼の写真はありません)。

     納沙布岬

 温根元の集落を過ぎると、馬が放牧された大平原が広がり、14時35分に本土最東端・納沙布岬に到達。
 あ、見えてる、見えてる。
納沙布岬灯台 何よりも先に水平線に浮かぶ北方領土・歯舞諸島の平らな島影が目に飛び込んできた。水晶島萌茂知(モエモシリ)島、秋勇留(アキユリ)島、勇留(ユリ)島…。本土から3.7キロと最も近い貝殻島は島というより岩に近いが、マッチ棒のような灯台が非常に目立つ。 その貝殻島と納沙布岬を隔てる海峡に既成事実としての国境線が存在するわけだ。
 島々が奪われてすでに半世紀以上。貝殻島にはかつて霧が出ると自然に鳴り出す鐘があったそうだが、今は鐘が鳴ることも灯台が光を放つこともないという。

 それにしても、納沙布岬はなんと6回目。最果ての岬へ行くのも一度なら自慢話になるが、6回目ともなると、ひとに話すのが恥かしくなるほどである。
 それでも、次々と訪れる観光客やライダーやチャリダーが嬉しそうに記念写真を撮っているのを横目に見ながら、まるで初めてきたような顔をして、ずんぐりした灯台を見上げ、双眼鏡で海の彼方の島々を眺め、食堂でラーメンを食べたりしていたら、1時間近くも経ってしまった。

     根室半島南岸ルートと東根室駅

 再び曇り空になった岬を15時半にあとにして、帰りは太平洋岸を走る。こちらも果てしなく広がる牧草地と原野と湿原の中の一本道だが、さすがにバスが通るルートだけに人家も比較的多いし、交通量も多い。追い抜いていったクルマの後部座席から小さな男の子が手を振ってくれた。

 途中の歯舞は根室市に合併されるまで歯舞村の中心集落であり、歯舞諸島もこの村に属していた。かつては根室から歯舞まで根室拓殖鉄道という軽便鉄道が通じていたが、昭和34年に廃止されている。乗ってみたかったなぁ、と思う。
 歯舞の西には婦羅理という名の集落。バス停の表記はカタカナで「フラリ」。とぼけた感じで、妙にかわいい。

 さて、納沙布岬から1時間ほどで根室の市街に戻ってきた。ヒマなので、根室拓殖鉄道廃止後の日本最東端の駅、根室本線の東根室駅を見物してきた。
 根室半島の太平洋側を東へ東へ走ってきた列車は最後に針路を北へ、さらに西へ転じて、根室湾に面した終着根室駅に滑り込むので、ひとつ手前の東根室駅の方が東寄りに位置し、ここが日本最東端の駅ということになっている。住宅地の中にあって、単線に板張りの短いプラットホームを添えただけの簡素な停留所だったが、「日本最東端の駅」の標柱が誇らしげに立っていた。

(根室市営キャンプ場。向こうに温根沼が見える)

 夕食の買い物をしてキャンプ場に戻る。本日の走行距離は89.4キロ。
 夕方の根室の気温は16.4度だったが、ラジオを聴いていたら、今日の東京は33.2度だったそうだ。根室では考えられない高温。うだるような暑さがなぜだかちょっと懐かしい。
 夜更けのキャンプ場。ほかの人のテントから何やら袋を持ち逃げするキツネを目撃。根室湾の彼方には春国岱のシルエットが黒々と続き、その遥か北に別海方面の寂しげな町あかりが微かに瞬いていた。


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