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風の音楽〜キャンディーズの世界その4
ずっと普通の女の子だったキャンディーズ
〜キャンディーズの解散について考える〜
ラン、スー、ミキは最初から最後まで「普通の女の子」でした。良識があって、優しくて、控えめで、素直で、明るくて。
すべては3人の共通した特徴です。その上、実力があって、しかも奢ることは最後までありませんでした。
誰からも愛されて当然です。
(作曲家・穂口雄右「現実となったビジョン」より)
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「普通の女の子に戻りたい!」
キャンディーズ解散の理由として今でも広く信じられている、あまりにも有名な言葉です。
そして、ラン(伊藤蘭)とスー(田中好子)は解散から2年後の1980年に相次いで女優として芸能界に復帰し、現在も活躍しているため、「結局、普通の女の子に戻れたのはミキちゃんだけ」という意地の悪い言い方がなされたりもします(ミキも1983年にソロ歌手・藤村美樹として復帰し、シングル「夢・恋・人」をヒットさせましたが、すぐに芸能界から完全引退)。
特に最初に女優としての活動を開始したランは「普通の女の子に戻るのじゃなかったのか」と激しいバッシングに晒されたといいます(僕はそのあたりの記憶はありませんが、そうらしいです。まぁ、マスコミの特性を考えれば、ありそうな話です)。
「芸能界に復帰する」イコール「普通の女の子には戻れなかった」
こういう思考の背景には当然、芸能人は「普通の人」ではない特別な存在、選ばれた存在である、というような価値観があるのでしょう。アイドルやスターと呼ばれるような人たちなら尚更です。そして、キャンディーズは間違いなくアイドルでありスターでした。たとえば、当時番組で共演していた大先輩の伊東四朗ですら、大スターだったキャンディーズと共演できて嬉しかったと回想しているほどです。普通の女の子に戻りたいというのであれば、そのような地位を捨てて芸能界から引退するものと解釈されても仕方がない面は確かにあったと思います。実際、アイドルであることに疲れきっていた彼女たちの中に少し休みたい、自分だけの静穏な時間がほしい、という欲求があったことは確かでしょうし、それは人として至極もっともなことです。また、デビュー前の無名の少女だった時代に戻れたなら…と夢想することもなかったわけではないでしょうが、それがもはや不可能であることは彼女たち自身が一番よく知っていたはずです。
ところで、キャンディーズはグループ「解散」宣言はしましたが、「引退」という言葉は使いませんでした。彼女たちはただキャンディーズを解散して、3人それぞれの道を歩いていきたいと言っただけです。少なくとも、ランはキャンディーズ結成前から女優になる夢を持っていました。恐らく、キャンディーズ後の自分の将来像を最も明確に描いていたのはランだったと思います。ミキもまたソロでの音楽活動への含みを残す発言をしていたようです。スーは芸能界以外に進むことも考えていたようですが、解散後、若くして亡くなった弟さんの「またお姉ちゃんがテレビに出ている姿を見たい」という病床での言葉をきっかけに芸能界復帰を決意したといいます。
いずれにせよ、「普通の女の子に戻りたい」という発言がどんどん独り歩きして、「芸能界から引退」という理解が社会全体に広まってしまったために、彼女たちはキャンディーズ解散後について自分の夢や希望を語りにくい状況が生まれてしまったようです(ランだけは『みごろ!たべごろ!笑いごろ!!』の中でコントに乗じて女優への夢を語っていましたが)。
さらに、所属事務所・渡辺プロダクションと水面下で解散をめぐる交渉が続いていたさなかに3人が一方的にファンの前で解散宣言をしてしまったことで、面子をつぶされた事務所側を怒らせ、芸能界に残りづらくなった、との見方もあるようです。実際、解散宣言直後に発行された渡辺プロダクション・タレント友の会の会報誌「YOUNG」1977年8月号は解散宣言を速報していますが、記事の見出しは「キャンディーズが急遽引退表明!」であり、ランの「私たち、今度の9月で解散します」という言葉をわざわざ「私たち9月で引退します」とすり替えています。天下のナベプロに逆らっておいて、芸能界に残れるなんて思うなよ、とでも言いたげな、非常に意図的なものを感じざるをえません。
一方、キャンディーズの3人はラジオの深夜放送「オールナイト・ニッポン」での自切俳人(ジキルハイド=元フォーク・クルセダーズの北山修)との対談の中で「あなたたちは“普通の女の子に戻りたい”ために解散するって聞いたけど、じゃ、普通じゃなかったのかな?!」という問いに対して、それぞれ次のように答えています(オールナイトニッポン、キャンディーズ編著『ビバ・キャンディーズ』ペップ出版、1978年4月刊)。
(ラン)「そこのところを一番言いたいんですけど、言葉がネ、マスコミに大きく取り上げられたのネ、今、すごくいやだなーと思っているの」
(ミキ)「3人はいつも一緒だったでしょ。いつも頼り合って生きてきちゃったからこの辺でひとつ大人になって、1人1人の道を歩んでいこうと言ったのに…」
(スー)「にもかかわらず、普通の女の子という言葉だけが取り上げられちゃってネ、困っちゃうんですよ」
「普通の女の子に戻りたい」という言葉について、あるいは解散宣言そのものについて、世間の受け止め方と彼女たちの真意との間にズレが生じていたことが分かります。
本来は複雑な感情や微妙な心理が込められた言葉であっても、そのニュアンスを正確に伝達しようと努めるよりは言葉の意味内容を単純な形に変換して伝えてしまうのがマスコミの一般的傾向であり、そのような分かりやすい解釈でしか伝わらないのが大衆社会の特質なのでしょう。そして、「普通の女の子」発言の本人たちの真意をあえて無視したあまりに単純すぎる解釈は現在に至るまで繰り返しマスメディアを通じて流布され、その結果、「結局、普通の女の子に戻れなかったキャンディーズ」という物言いも後を絶たないというのが現状です。
では、実際のキャンディーズの解散宣言とはどのようなものだったのでしょうか。改めて再現してみましょう。
解散宣言
1977年7月17日、東京・日比谷野外音楽堂。「サマージャック’77」と銘打たれたコンサートツアー初日。
コンサート終盤に観客と一体になって盛り上がるためのライヴ専用曲「ダンシング・ジャンピング・ラブ」を歌い終えたラン・スー・ミキの3人。いつもならここで最後の挨拶となります。しかし・・・。
「皆さん、今日は本当にどうもありがとう」
何か思いつめたように、そう挨拶するランはすでに涙声になっています。その場にいたファンは当然、それはエンディングの挨拶で、涙は感極まってのものと思っていたでしょう。大きな拍手と声援が続きます。しかし、ランはそのまま次の言葉を口に出すことをためらうかのように立ち尽くしたまま…しばらく沈黙が続きます。
思わず右隣のミキに視線を向けるラン。その表情は何か救いを求めるようでもあり、「言っちゃうけど、いいよね?」と気持ちを確かめ合うようでもあります。ミキがランのもとに駆け寄り、スーも泣きながらランにすがりつきます。3人抱き合ったまま号泣。
この明らかに尋常ではない3人の様子で、キャンディーズが辞めたがっていることを知っていた一部の関係者は彼女たちがステージ上で“言ってはいけないこと”を口にしそうだ、ということに感づいたようです。客席後方でコンサートを見ていたキャンディーズの音楽ディレクター松崎澄夫氏はそれを察してステージへ急いだといいます。
しかし、誰かが止めるより先にランがためらいつつも、「皆さん・・・」と意を決したように切り出しました。
「皆さん・・・私たち・・・私たち・・・皆さんに謝らなければならないことがあります」
ミキが「ごめんなさい!」と叫び、スーも「ごめんなさい…」と涙声。
そして、これも涙声のランがついに衝撃的な言葉を口にします。恐らく、その場にいたファンの、あるいは全国のファンを含めても、誰ひとりとして予想しえなかったであろう言葉。
「私たち・・・今度の・・・9月で・・・解散します!」
「エーッ!!!」というファンの悲鳴と「辞めんなよ!」「冗談言うなよ!」という怒号が渦巻きます。ステージ上に崩れ落ちる3人。
スーが立ち上がり、話し始めます。
「私たち、デビューの時から3年間はがむしゃらにやります・・・やろうって決めてました。去年の秋、そのちょうど3年目を迎えて・・・でも、こんなにたくさんの皆さんが応援してくれたし、スタッフの皆さん、渡辺プロの皆さん、CBSソニーの皆さん、MMPの皆さん、そして、こんなにたくさんの皆さんが盛り上げて下さって、私たち、もう1年間頑張ろうって、やってきました・・・」
そこまで一気に言うと、また号泣。
ミキが引き継ぎます。
「皆さん、本当にこんなにたくさんの皆さんが応援してくれてるのに・・・本当に・・・本当に悪いことだと思います。でも・・・でもひとりひとり旅立ちたいんです! 孤独を恐れないで、これからも一生懸命やります。皆さん、私たちの気持ち、わかってください!」
このあたりで3人の言葉を音で掻き消そうとする松崎氏の指示で、バックバンドMMPがアンコール曲に予定していた「さよならのないカーニバル」の演奏を始めますが、何も知らなかったメンバーは動揺し、その演奏はぎこちないものになっています。
ラン「ごめんなさい!」
スー「ごめんなさい! 許してください!」
有名な言葉はこの後、ランの口から飛び出します。
「私たち、これから、皆さんの目には触れないところで、孤独と闘いながら生きていきたいんです。普通の女の子に戻りたい!」
客席からは若干1名、「がんばれよー!」の声も聞かれますが、相変わらず騒然となったままです。
「ごめんなさい!」とミキ。「許してください」とスー。
再びステージ上に崩れ落ちてしまった3人はもはや自力で立ち上がることもできません。
主役を欠いたまま、MMPの演奏が続く中、スタッフに抱えられるようにステージ裏へ連れ戻されるラン、スー、ミキ。
客席の悲鳴と怒号はいつしか「キャンディーズ!」「キャンディーズ!」の連呼に変わっていました。
この解散宣言をみると、ランが切り出し、スー、ミキの順に引き継いで語る、というあたりまでは、ある程度の段取りができていたのかな、と思われます。ただ、「普通の女の子に戻りたい」という言葉があらかじめ用意されていたものなのかどうかは分かりません。すでに会場全体が異様な興奮状態に陥っていた中で思わずほとばしり出た魂の叫びのようにも思えます。ただ、彼女たちにとって解散の理由としては、ミキが言った「ひとりひとり旅立ちたいんです。孤独を恐れないで、これからも一生懸命やります」という言葉こそが重要だったはずで、それは彼女たち自身がその後も繰り返し語っていたことです。にもかかわらず、本人たちも戸惑うほどに「普通の女の子に戻りたい」という言葉だけが独り歩きしていったのが現実でした。
そこで、キャンディーズにとって「普通の女の子に戻る」とは何を意味していたのかも考えてみましょう。
もともとキャンディーズは最初から最後まで芸能人ぽくない、あまりにも普通の女の子だった、と多くの関係者が語っています。普通の女の子だったがゆえに逆に音楽でもコントでも、まるで手を抜くことを知らないかのように、あまりにも一生懸命に取り組んだといえるのかもしれません。野球選手にたとえれば、一流のプロでありながら、高校球児のひたむきさを失わない選手のような存在でしょうか。良い意味でのアマチュアリズムに伴う健気さこそがキャンディーズという存在の美しさの本質ではなかったか、と思います。そして、彼女たちはファンに対しても常に誠実であろうとしていました(昨今、テレビで活躍する芸能人や業界人の間にテレビを見る側の人たちを「シロウト」と呼んで見下す風潮があるのとは対照的です)。
一般的に、スターとかアイドルと呼ばれる人々が巨大化したパブリックイメージと等身大の自分とのギャップに苦しむのは自然ななりゆきです。とりわけ、1970年代までは「国民」というひとつの共同体が(すでに崩壊過程にあったとはいえ)現代よりは強固に存在していたため、スターやアイドルに対する国民的な共同幻想も圧倒的に大きなものでした。一家に一台のテレビを家族そろって見るのが当たり前だった時代です。歌手も自分たちのファンだけを相手に歌うのではなく、全国民を相手に歌っていたのです。少なくとも、当時はまだヒットチャートのトップテンに入れば、子供からお年寄までほとんどすべての国民がその歌手と歌を認知していました。その点が、No.1ヒットでも多くの人がその曲もアーティストも知らないケースが珍しくない現代との大きな違いです。
自分がほとんど全国民に知られていて、なおかつ、常に本当の自分以上の存在であることを求められる。これは大変なことです。そのプレッシャーから酒や麻薬に溺れたり、自ら命を絶つケースだって珍しくありません。その過酷さは一般人にはもちろん、大多数の“普通の芸能人”にとっても想像を絶するものでしょう。そのぐらい当時のアイドル、あるいはスターという存在は人間のあり方としてきわめて不自然なものであったといえるでしょう。ましてや、キャンディーズはトップアイドルでした。
全盛期にはキャンディーズ以上の人気を誇ったピンクレディーの2人があまりに多忙で、当時、どんな番組に出演し、そこで誰と共演したのか、ほとんど覚えていない、という話を聞いたことがありますが、彼女たちは記憶をなくすことで、言い方を変えると、歌って踊るロボットに徹して無意識になることで、本能的にプレッシャーを回避していたと言えるのかもしれません。その点、歌でもコントでもより意識的に取り組み、楽屋でも宿泊先のホテルでもいつも3人で練習していたというキャンディーズはロボットになりきることもできなかったでしょう。彼女たちの中で何かが悲鳴をあげていたとしても不思議ではありません。
キャンディーズのマネージャーを務めた大里洋吉氏は彼女たちが私生活のすべてを犠牲にしてキャンディーズに賭けていたと後に語っていますが、歌だけでなくコントもこなしたテレビやラジオの出演(レギュラーだった『全員集合』は毎回が公開生放送!)、音楽的にも高度なものを求められた大量の楽曲のレコーディング、さらに年間100本にも及んだライブでは同じツアーでも洋楽を含む新たなレパートリーがどんどん加わり、まさに息つく暇もないほどの忙しさでした。早朝から深夜まで事務所に徹底管理され、休日もほとんどなく、プライベートな生活を楽しむ余裕などまったくなかったはずです。まともな恋愛をすることはもちろん、家族や友人と過ごす時間も、食事や睡眠の時間すら満足にとれないまま、ひたすら仕事に追われる日々。多忙すぎて、仕事においても納得できないレベルで妥協せざるを得ない場面も多々あったのではないかと想像しています。スーが解散宣言の中で「最初から3年間だけはがむしゃらにやろうと決めていた」と言っていますが、芸能人を一生続けようと思えば、こんなやり方では不可能です。キャンディーズという存在形式は最初から期間限定だったからこそ可能だった、あまりにも無謀な全力疾走だったと思うのです。当時のキャンディーズを知る誰もが「彼女たちは疲れ切っていた」と証言しているのも当然です。
しかも、アイドルであることがラン・スー・ミキの3人だけでなく、それぞれの家族にも様々な負担をかけていたことも彼女たちを悩ませていました。アグネス・チャンがある番組でアイドル時代にはいつも自宅の前にファンが野宿していた、という話をしていましたが、同様のことはキャンディーズの3人の周辺でも起きていたでしょう。キャンディーズの一員であることが本人だけでなく家族をも嵐の中に巻き込んでしまっていることは彼女たちの苦悩の大きな原因だったと思います。しかも、大切な家族が重い病気になった時にも仕事に追われ看病すらできないという辛い現実も彼女たちは経験しています。
そこで、改めて「普通の女の子に戻りたい」という表現に敢えてこだわってみると、多くの人はそれをアイドル・スター・芸能人という“特別な地位”からのランクダウンを意味するものと解釈したわけですが、キャンディーズにとっては人間の生き方、あるいは生活のあり方として「まともな状態」への回帰を意味したと理解すべきではないかと思うのです。あまりの多忙さに疲弊して、プライベートな生活のすべてを犠牲にするだけでなく、自分をよりレベルアップさせるための時間も十分にとれなかったとすれば、そうした日々への決別は、彼女たちがずっと芸能界で生きていくつもりであったとしても、やはり必要なことだったと思うのです。彼女たちにとって、「普通」の反対語は「特別」ではなく「異常」だったということかもしれません。周囲がラン・スー・ミキの3人をどれだけアイドル(=偶像)視したとしても、実際には彼女たちも普通の生身の人間です。仕事を離れた個人としての生活の時間が必要なのは当たり前のことです。
しかしながら、彼女たちの「普通の女の子」発言に込められた心情は、ただ単にアイドルであることに疲れたとか、プライベートな生活の時間が欲しくなった、というだけでなく、もう少し前向きな意味合いもあったように思います。本来なら誰もが持っているべき「自由」を取り戻したいという憧れにも似た強い気持ちです。すでに書いた通り、彼女たちはデビュー以来、全精力をキャンディーズに注ぎ込んでいました。その分、キャンディーズのラン・スー・ミキではない伊藤蘭、田中好子・藤村美樹としての青春は不完全燃焼のままでした。今ではもう死語になりつつある「青春」という言葉がまだまだ輝きをもっていた時代です。彼女たちにとって「普通」とは自分自身の青春を燃やし尽くすことのできる自由をもつことだったのではないでしょうか。もちろん、彼女たちは「自由」であることが「孤独」であることと裏表の関係であることも深く認識していました。「普通の女の子に戻りたい」というのは孤独をも引き受ける覚悟で、自分自身の自由を取り戻したいという悲痛な魂の叫びであったと思うのです。しかも、それはさまざまな束縛から逃れたいという消極的な自由ではなく、自分の責任で自分の人生を生きたい、という自己実現へ向けたポジティヴな自由です。それが音楽や芝居の道を歩むことと両立不可能なものだとは彼女たちは考えていなかったはずです。そこまで考えれば、「ひとりひとり旅立ちたい」という解散宣言と「普通の女の子に戻りたい」という叫びが意味するところは同じだったということになります。彼女たちは偶像などではなく、自由な意思をもった生身の人間なのですから。
「私はさなぎ まだ蝶になれない 早く飛び立ちたいけれど まだ羽根が色づいてないもの・・・」
ミキは自作曲「あこがれ」の中でこのように歌っています。
「私たちは自分たちのことをまだ大人だとは思っていません。人間としてもまだまだ未熟で、たとえれば小鳥のようなものです。でも私たちは私たち自身のつばさで飛び立ちたくなったんです」
ランはみずから作詞した「つばさ」の中にこのようなセリフを挿入しています。
彼女たちは、さなぎから脱皮して自分のつばさで飛び立つために、つまり、ひとりの人間として自立するために、キャンディーズを解散する必要があると考えていたのです。それは芸能界から引退するとかしないとか、そんなこととはもともと次元の違う話でした。
解散宣言で見たとおり、キャンディーズは結成当初から自分たちの解散について考えていました。
1970年にビートルズが解散。1971年には人気GSグループのタイガースが解散。ビートルズ解散が3人の少女にどんなインパクトを与えたかは分かりませんが、タイガースの解散はとりわけジュリー(沢田研二)の熱烈なファンだったランにはやはりある種の影響を与えたのではないかと思います(ランはのちにタイガースが解散した時、「家で泣いた」と語っています)。
そして、今度は自分たちが1972年にNHKの番組のマスコットガールという形で集められ、キャンディーズというグループを結成した時、それが必ずしも自発的なものではなかっただけに、そのグループをいかに終わらせるか、ということを考えるのは自然なことではなかったでしょうか。
そして、実際に芸能界に身を投じると、マスメディアの力で祭り上げられたスターがマスメディアの力でその座から引きずりおろされる、というような栄光と転落の実例を間近に見ることにもなったことでしょう(たとえば、事務所の先輩である天地真理のケースなど)。それは彼女たちにとっても他人事ではなかったはずです。そうでなくても、アイドルという存在には“賞味期限”があることも彼女たちは十分に分かっていたでしょう。
「一番いい時に解散したい」「キャンディーズはきれいなままとっておきたい」
それは3人の素直な気持ちだったのでしょう。そして、常に終わりを見つめていたからこそ、あそこまでの全力投球ができたのだと思います。
結局、解散は業界の諸事情や事務所側の説得もあって、さらに半年延期され、1978年4月4日、後楽園球場での解散コンサートが決まりました(ちなみに前掲の『YOUNG』77年8月号の記事によれば「渡辺プロとしては11月に予定されている東京・日本武道館での『キャンディーズ・カーニバル』を引退公演の花道にしてやりたい方針だが、早急に結論を出したい意向」とのことでしたが、武道館カーニバルは実現していません。結果的には武道館はキャンディーズには小さすぎました。本当は後楽園球場でも足りなかったのですが…)。
いずれにせよ、アイドルが自己主張することなど考えられなかった時代における、トップアイドルの反乱は社会的な騒動に発展してしまいます。反乱の相手が当時、芸能界において絶大な力を誇っていた渡辺プロダクションであったため、芸能マスコミはこぞってプロダクション側に立ち、キャンディーズの3人に対して「身勝手だ」「わがままだ」と批判の集中砲火を浴びせます。彼女たちを応援してきた多くのファンも当初は裏切られたような気持ちを抱いた、といいます。しかし、3人が大人たちの批判にさらされ、ほとんど孤立無援の状態に置かれてしまったことが、却ってファンの心を大きく動かすことになります。ラン・スー・ミキの3人を守れるのは自分たちしかいない…そんな思いが広がっていったのでしょう。大学生・高校生が主体だったファンの中に、本人たちの気持ちを尊重しよう、彼女たちの新たな旅立ちを祝福し応援しよう、という気運が生まれてきたのです。この時期のキャンディーズ・ファンの姿は今でいう「サポーター」という表現がまさに相応しいものでした。これまで多くのものを与えてくれたキャンディーズに今度は自分たちが恩返しをする番だ、というような気持ちがあったのかもしれません。誰もが残された日々で自分たちの青春をキャンディーズとともに燃やし尽くそうと考えているかのようでもありました。ファン同士の連帯の輪が全国に広がっていきます。こんなファンをもったアイドルは後にも先にも存在しません。そして、キャンディーズもその気持ちに応えるかのように、あらゆる活動においてさらなる進化を続けます。彼女たちは最後の半年間でそれまで以上に多くのことを成し遂げ、ついに最後の日を迎えたのです。
次にキャンディーズの解散コンサートにおける3人の最後の挨拶を紹介しましょう。
最後の言葉
1978年4月4日、東京・後楽園球場。キャンディーズの解散コンサート「ファイナル・カーニバル FOR FREEDOM」(ここにも彼女たちの自由を求める気持ちが表れています。ちなみに「For Freedom」というミキ作詞・作曲の名曲があります)
春だというのに冷たい風が吹きすさぶなか、5万5千人ものファンの熱狂的な歓声に包まれ、バックの演奏やお互いの声もよく聞こえないような状況だったのではないかと思うのですが、彼女たちは見事なハーモニーで4時間近くにわたっておよそ50曲を熱唱し、まさに最後の瞬間まで成長・進化し続ける姿を見せつけていました。
東京・代々木の山野ホールでのキャンディーズ初めてのコンサートは1974年3月17日のことでした。空席が目立ち、かけ声もなく、拍手もまばらだったといいます。
「一生懸命に歌った。死に物狂いで踊った。でも、拍手がかえって来なかった。歌っていて楽しかった。踊っていて楽しかった。でも、とても淋しかった。私は、今でもこの山野ホールでのコンサートを忘れない。いや、忘れちゃいけないと思っている」(ラン=文化放送編『Go!Go!キャンディーズ〜キャンディーズ革命』ペップ出版、1977年6月、96ページ)。
あれから4年。たった4年の間に彼女たちはあまりにも濃密な時間を駆け抜け、ここまで到達したのです。そして、ミキが作詞・作曲した「あこがれ」を歌い終え、残すはあと1曲となったところで、ラン、ミキ、スーの順に最後の挨拶をしました。
ランの言葉
「私たちは・・・よく・・・おとなの人に言われました。君たちはなんてバカなんだ。こんないい時に、バカ騒ぎをして・・・そんなにまでしてキャンディーズをやめることはないじゃないか・・・。
でも、私たちはバカじゃありません。そうじゃないから、解散を決めました。
私たちはよく知っています。キャンディーズは素晴らしいです!
キャンディーズは最高だっていうこと、私たち、一番よく知っているつもりです。
私たち3人はすべてをキャンディーズにかけてきました。
MMPの皆さん、スタッフの皆さん、そして、全国のたくさんのファンの皆さんが、私たちを最高のものに作り上げて下さったんです。
だから・・・だからこそ、私たちは最高のまま、解散したいと思います」
ミキの言葉
「たしかに・・・見る人から見れば・・・身勝手な、少女趣味的な発想だと思います。
でも、私たちは少女でも、子どもでも、幼稚でも、構いません!
子どもの時から始めたキャンディーズです。最初の精神をずっと貫き通そうと決めていました。
変なおとなになるより・・・変なおとなになるより・・・純真な子どもの気持ちで・・・純真に終わりたかった。そして、私たちは、そうやって努力もしてきました。
いま・・・それが・・・すべて・・・すべて出来たように思います(涙声)。
力強い・・・皆さんのたくさんの支援があったから・・・キャンディーズは・・・私たちのキャンディーズは・・・純真なまま・・・いまこの瞬間に・・・終わります。
私たちはキャンディーズの一員であったことに対して、すごく誇りをもっています!
本当にありがとうございました」
スーの言葉
「最後に・・・私たちの夢で・・・夢であったこの場所・・・後楽園球場で・・・ステージ・・・最後のステージを・・・皆さんと一緒に・・・このステージで精一杯歌ったこと・・・本当に嬉しく思います。
そして、このフィナーレを素晴らしいものにして下さった主催者の皆さん、後援・協賛の皆さん、後楽園の皆さん、大勢の関係者の皆さん、そして、何よりも渡辺プロダクションの皆さん・・・。本当に、長い間、ありがとうございました」
ラン
「私たちの・・・この最後のステージの・・・最後の曲は・・・やはり・・・この歌をうたいたいと思います。聴いて下さい。『つばさ』を歌います」
キャンディーズはランが作詞した「つばさ」を歌い、曲中で「本当に私たちは幸せでした」の言葉を残して、まさに最高の到達点において解散しました。1978年4月4日21時17分のことです。
最後の言葉の映像
「つばさ」の映像
(追記)
2006年に刊行された野地秩嘉著『芸能ビジネスを創った男〜渡辺プロとその時代』(新潮社)の中で伊藤蘭さんが解散について次のように語っています。
「あの頃は疲れきっていました。求められるものがだんだん大きくなっていった。ふと、考えた時に、個人の生活が欲しくなっていたのです。キャンディーズをやめようというのも、誰が言い出したのでもなく、みんなでそういう気持ちになりました。私は解散を決めた時、変な気持ちを感じた。表面的には熱くなり、仕事を頑張っていたのですが、自分の中心は冷えていた。解散の騒ぎが大きくなっていくにつれて孤立している自分を感じました」
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