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知床の海〜限りなく暗黒に近いブルー 後編   1985年3月

 知床半島の羅臼に行けば、越冬のために北から渡ってきた多数のオオワシやオジロワシを見ることができる、ユースホステルで出してくれる船に乗れば流氷の海でトドやアザラシの姿を目にすることもできる、という噂を聞きつけて、羅臼へやってきた。僕にとっては初めての知床半島でもある。前日の午後、標津から50キロの道のりをヒッチハイクで到着し、ユースホステルで知り合った仲間たちと楽しい一夜を過ごし、朝が来た。

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     暴風雪の朝

 「あーあ、こりゃダメだ」
 のそのそと布団から這い出て窓の外を見た時、誰もが諦めきったような溜め息をついた。みんな、宿で出してくれる船に乗って沖合いに流氷やワシやトドやアザラシを見にいくことを楽しみにしていたのである。
 3月9日、羅臼の一日は壮絶な暴風雪で始まった。地吹雪というのかブリザードというのか、地上に積もった粉雪が強風に煽られ舞い上がり、激しく暴れている。空からも雪は容赦なく降りしきり、すべては真っ白。路上の車も雪だるま。家並みの向こうに広がる根室海峡は暗い鉛色で、沖の国後島はどこかへ消えた。
 朝食の後、念のため宿のおばさんに聞いてみたけれど、失望にダメを押されただけであった。というわけで、今日は船が出ないので、僕らはここでもう一泊して明日に期待することにした。
 そうなると、今日は一日ヒマなわけだ。部屋でゴロゴロするうちにいくらか風が弱まったようで、大荒れだった天気も少し落ち着き、町はごく普通に動いている。地元の人々にとってはこんな天気は日常茶飯事だろうし、厳冬期はもっと壮絶に違いない。

     羅臼漁港

 宿でじっとしていても仕方がないので、とりあえず外に出た。
 羅臼川を渡って街の中心部の交差点を過ぎ、まっすぐ行くと、凍った坂道の途中でバンが立往生していた。
「おーい、ちょっと押してくれよ」
 というので、みんなでエイヤッと押すと、すぐに動いた。

 坂を登ると羅臼漁港を眼下に望む「しおかぜ公園」で、オホーツク老人像というのが立っていた。『知床旅情』を作詞したあの森繁久弥がモデルである。
 道はさらに半島の東海岸沿いに相泊という土地まで通じているが、僕らは港への道を下りていった。
 生臭い魚の匂いが漂う港では、折しも漁から帰ったばかりの船上で漁師たちがスケソウダラを網から外す作業の真っ最中(あの悪天候でも、ちゃんと漁に出ていたのだ!)。水揚げされた魚は山積みのケースに次々と詰められ、セリにかけられ、ひっきりなしにトラックで運び出されていく。スケソウは目玉がギョロッとした、いかにも深海魚らしい不気味な魚で、タラコを取り出すと、あとはスリ身にされてカマボコなどの材料になるそうだ。
 ゴムズボン姿で寒さなど物ともせずに働く漁師たちを眺めながら、この人たちもみな豪勢な御殿に住んでいるのだろうか、と考えていた。

     ヒカリゴケ洞窟

 街なかの喫茶店で時間をつぶし、いったん宿に帰り、11時前のバスで出発する東京の兄さんを見送ってから、我々もまた出かける。今度はヒカリゴケの洞窟へ行ってみた。現在のメンバーは5人、全員がひとり旅で、羅臼の宿で知り合った仲間である。もうひとり、大阪芸術大学で写真をやっているFさんという人がいるのだが、彼は朝から独りで写真撮影に出かけている。

凍りついたヒカリゴケ洞窟 ヒカリゴケ洞窟は「しおかぜ公園」からさらに北へ海沿いに行くとある。
 急峻な断崖の下に洞窟があって、内部に光る苔が密生しているというのだ。で、鉄格子で保護された洞内をのぞいてみたが、よく分からない。その代わり、洞窟内にできたツララがじつに見事で、剣のような細長いものから、ひと抱えもある巨大な氷の柱まで、まるで鍾乳洞みたいな景観だ。とりあえず、檻の外にできた青白い氷の柱の前で記念撮影などしていたら、気温が上がったのか、短剣や針のようなツララが頭上から次々と降ってきた。頭部を直撃されたら流血の惨事になりそうなので、早々に退散して羅臼の街に戻った。

     アザラシ

 「うわっ、血だ!」
 羅臼漁港のはずれの人気のない波止場に行くと、白い雪の上に血が点々としている。
 何だろうと訝りながら、岸壁の下を覗くとアザラシの死体がいくつも浮いていた。腹に穴が開いて内臓の飛び出しているのもある。アザラシは漁網を破って魚を食ってしまうので、ここでは害獣なのだ。「かわいそう」と言うのは簡単だけれど、そこには都会人の感傷を超えた難しい問題もあるのだろう。僕のように都会で暮らす者がそうした問題について日常生活の中ではあまり考えずに済んでいるのは、東京のような街があらかじめ邪魔な自然は徹底的に排除した上に成り立っているからだ。考えていると気が重くなる。何とかならないものか…。

トド料理の高砂食堂     トドを食べる

 カモメやカラスが盗んで食べたスケソウダラの残滓が散乱する波止場をあとに、活力漲る漁港を通り抜けて街に出ると、もうお昼を過ぎている。
 羅臼川の橋の袂に高砂という小さな食堂があって、ここが全国で唯一軒のトド料理を出す店だという。アザラシの無残な姿を見たばかりなので、ためらう人もいたけれど、その店に入ってみた。
 先客はおらず、みなカウンターの席に座って、大盛りラーメンを注文し、それから「知床ルイベ」というのを5人で一皿頼む。これがトド肉の刺身を冷凍したものだという。
 店内にはトドの頭部の剥製やアザラシの毛皮が飾ってあった。いずれもこの店の主人が撃ったものだそうで、体重が1トンもあったという巨大なトドはなぜか顔が笑っている(ように見える)のが可笑しかった。壁には著名人の色紙もたくさん飾ってある。羅臼に来たら誰もがこの店でトドを味わって帰るらしい。
トドが笑ってる? 熱いラーメンを食べるうちにおばさんがルイベを出してくれた。一皿で10切れぐらいあるというので、「じゃあ、1人2切れずつだね」なんて計算していたのだが、出てきたのを見ると3切れずつあった。目の前でいじましい計算をしていたので、特別にサービスしてくれたようだ。
 刺身のシャーベットという感じで、解けかかったところを食べるのだが、意外に美味かった。店にはアザラシの缶詰などというのも売っていて、どんな味がするのか、おばさんに聞いてみたら、「脂が強いから食べたら下痢するよ」と言われた。

 すっかり満足して大盛りラーメン600円とトド1人当たり160円(一皿800円)の計760円を払い、トドを食べたという証明書を一枚ずつもらって店を出た。

     熊の湯

 午後は温泉に行くことにした。一度宿に戻って支度をしてから、缶ビール等を買い込み、温泉ツアーに出発。
 知床半島を横断してオホーツク側の宇登呂に続く国道を知床峠に向かってずんずん歩く。めざすのは「熊の湯」という露天風呂。メンバーのうちN君とS君は昨日同じバスで羅臼に着いて、一緒に熊の湯まで行ってきたというが、徒歩で1時間近くかかるそうだ。
 羅臼川の渓流沿いに雪道を登っていくと、街から50分ほど歩いた地点で、ついに道が途切れた。ゲートが閉ざされ、その先は1メートル以上の積雪が道路を埋めているのだ。
 そんなかなり山に入った地点に熊の湯はあった。ゲートの手前を左に入り、渓流を渡ると木立の中に大小2つの露天風呂が湯煙を上げている。それぞれに掘立小屋のような脱衣場があって、つまり男湯と女湯なのだが、粗末な仕切りがあるだけなので、どちらも丸見えである。我々が着いた時にはちょうど湯上りのおじさんがいただけで、風呂には誰もいなかった。
 温泉はかなりの熱湯で、温度を調節するための水道も凍結して出ない。ではどうするのかというと、それはもう周囲にどっさりとある雪をぶち込んで温度を下げるわけである。熊の湯なんていう名前からして、いかにも、という感じのまさに野趣あふれる温泉なのだ。
 すっかり身体が温まって茹でダコみたいになったら風呂の縁の岩に腰かけて一服し、またすぐお湯の中へ。なにしろ、いつの間にか雪が降り出して、それが強い風に乗ってビューッと吹きつけてくるのである。雪見酒などと風流なことを言っている場合ではない。
 出たり入ったりしていると、元プロ野球選手でタレントの板東英二にソックリなおじさんが来た。地元の漁師さんで、N君たちは昨日も会ったそうだ。未明からの仕事が終わると毎日ここへ来るらしい。
 いろいろと漁の話など聞くうちに板東さんがお湯を取り換えようと言い出し、風呂の栓を抜いて、隣の女湯へ引越し。そこに漁師さんがさらに5、6人ドヤドヤとやってきて、男湯のほうを覗き、「全然湯が入ってないじゃないか」と言いながら、こっちの小さい風呂に入ってきたので、たちまち超満員になってしまった。外見だけで判断すると、刺青をしている人もいて、かなり怖い感じの面々であり、昨日乗ったトラックの運ちゃんが、羅臼にはヤクザみたいな人も集まってくる、と言っていたのを思い出してしまう。でも、少なくとも今はみんな厳しい海の仕事を終えて、この温泉で安らかなひとときを楽しんでいるようだった。
 そろそろ行こうか、ということになり、僕らはまた長い帰途についた。雪の降るなかを歩くうちに、せっかく温めた身体もどんどん冷えてくる。そこへ後方から来たバンがクラクションを鳴らして停まった。漁師さんたちの車で、「こんなとこ歩いて帰ったら風邪引いちまうぞ」と街まで乗せていってくれた。

 明日こそは船が出ますように。


     2日目の朝

 一夜明けた羅臼はまた雪だった。昨日ほどの悪天候ではないが、天気はよくない。
 日曜日ということで、地元の写真家なども来て、茶の間で宿のおじさんと談笑している。僕らも朝食の後、話に加わって、船が出るかどうか聞いてみると、いま様子を見ているところだという。窓の外は雪が降りしきり、時折、ふぶいたりもしている。
 もし今日もダメならちょっと考えなくてはいけない。午前中に船に乗れたら、午後から羅臼を発って尾岱沼にでも行こうかと思っていたが、この様子だとここでもう一泊ということになりそうだ。残念ながらN君が時間切れで出発することになった。みんなで見送ったが、仲間が減るのは寂しい。

     ワシの姿を求めて

 さて、とりあえず中標津から来ているおじさんの車に乗せてもらって、ワシを探しにいくことになった。
 海岸道路を北へ向かい、ヒカリゴケの洞窟も過ぎて、しばらく走ると、サシルイ川の谷がある。この険しい谷の一帯がワシたちのねぐらになっているそうだが、そこにも全然いない。一体どこに消えてしまったのか。何度か車を停めて上空を見上げてみたが、結局、それらしいのが一羽飛んでいるのをちらっと見ただけで建根別(けねべつ)の集落に入った。
羅臼の北、約15キロの地点で、冬の間は道路もここまでである。地の果て・知床の海岸沿いに伸びてきた道がついに行き詰まったところ。つまり本当の最果てである。ある種の感慨を抱いて、降り続く雪の向こう、灰色の海に浮かぶ国後島を眺めた。

     ワシの乱舞

 そこで引き返して街へ戻る途中、おじさんがワシの姿を見つけて車を停めた。全員降りて、切り立った断崖を見上げると、崖の上の大木にワシが2羽止まっている。写真家の人に大砲のような立派な望遠レンズを覗かせてもらうと、オジロワシである。さすがに迫力がある。天候の回復を待っているのか、じっと海原を見下ろしている様は鳥の王者としての風格を感じさせる。
 そこへどこからか別のワシが飛んできて、遥か高空をゆっくりと旋回した。翼を広げると2メートルにもなるというオオワシだ。体は墨のように黒く、尾は雪のように白く、嘴は鮮やかな橙色という美しいワシである。
 ライヴァルの優雅な飛翔に負けじと、木の上でじっとしていたオジロワシもその褐色の巨体を宙に舞わせた。その名の通り、こちらも尾羽は真っ白。みんな感嘆の声をあげて、大空を見上げていると、巨大なワシが次々と姿を現わした。それは羅臼でしか見ることのできない実に感動的な光景であった。

 オオワシもオジロワシも漁網からこぼれて海面を漂うスケソウダラを狙うわけだが、なかには魚を捕り損ねて海に落ち、溺死するワシもいるという。彼らの狩りの無事を祈りつつ、空を見上げていた。
 そこへ一陣のつむじ風が路上の雪を激しく巻き上げながら、道路上をこちらに近づいてきた。
 来たぞ、と思いながら、背を向けて、身を屈めていると、猛烈な雪嵐がザザーッと襲ってきて、一瞬のうちに僕らの間を駆け抜けていった。

     いよいよ船で海に出る

 さて、突然のワシの乱舞は天候回復の兆候だったのか、昼前に宿に戻ると、これから船を出すとのこと。さっそく準備をして、何台かの車に分乗して港へ向かった。
 漁港のはずれの昨日アザラシの死体があった波止場に、想像していたより小さな釣り船みたいな船が係留されていた。
 乗り込むと、まもなくエンジンが始動。いよいよ念願叶って海へ出て行くわけだ。素直に嬉しい。
 宿のおじさんだけが操舵室に入り、あとはみんな甲板の上である。ベンチが2脚あるが、腰を下ろす前にシャベルで甲板の除雪作業。滑って海に転落したら大変だ。積もった雪を海に投げ捨てて、それからいよいよ出発。

 ゆっくりと岸壁を離れた船はエンジン全開で海面を滑り出した。ウミウがたくさん翼を休めている防波堤の間を抜けて港外へ出ると、まっすぐ国後島の方へ向かう。流氷のあるところまで行くというけれど、氷は水平線のあたりに白く微かに見えるだけ。あんなに遠くまで行ってしまって大丈夫だろうか。昨夜、仲間たちと部屋でこっそりビールを飲みながら(当時のユースホステルは原則として飲酒禁止)、ソ連の警備艇に拿捕されてシベリア送りになる「シベリアツアー計画」なんていう冗談で笑っていたのである(我々はまったく知る由もなかったが、実はこの頃、ソ連では最高指導者のチェルネンコ共産党書記長が病気で死亡し、後にソビエト連邦を崩壊させることになるゴルバチョフ政権が誕生しようとしていたのだった)。

 決して穏やかではない大海原は限りなく暗黒に近いブルー。いかにも冷たそうだ。海岸からいきなり水深数百メートルまで急激に落下する暗黒の世界がこの小さな船の真下に広がることを思うと気が遠くなる。
 僕らの座っているベンチは船の揺れに合わせて甲板上を右に左にズズズ…と移動し、ベンチの上に置いた高価なカメラや望遠レンズが海に落ちそうになった。

流氷と国後島 それでも船は休むことなく青黒い海面を切り裂き、白い航跡を一直線に描き続ける。
 だいぶ沖合いに出た頃、我々の遥か上空をオジロワシが1羽旋回しているのが見えた。振り向けば羅臼の港はすでに遠く、雪をかぶった知床半島全体があたかも巨大な大陸のように続いている。前方には北方領土・国後島がだいぶ大きく迫ってきたし、流氷の帯もかなりくっきり見えてきた。

     氷の海

 羅臼港を出て1時間近く経った頃、周囲の海面に変化が現われた。あたり一面に青白い蓮の葉のような薄氷が漂っているのだ。そして、その先には分厚い流氷群が静かに、しかし、荒々しくうねりながら海を閉ざしている。何か意思を秘めた生き物のような凄まじい迫力である。
 もうこれ以上は進めないな、と思うより先に船は右に向きを転換し始めた。行く手を阻む流氷と国後島の威圧的な風景は、船が針路を変えるにつれて前方から左舷へ、そして後方へと移っていく。
 左舷に流氷を見る頃、その上を1羽のオジロワシがゆったりと羽ばたいていた。日本とソ連、どちらに帰るのだろう。

 船が羅臼港への帰途につくと、猛烈な寒さが襲ってきた。何しろ、吹きさらしの甲板上で、真正面から強い風が直撃してくるのだ。往路は気持ちに張りがあったので、寒さを意識せずに済んだけれど、復路になると気も緩むせいか、やけに寒さが身にしみる。せっかく船に乗ったのに期待したほどの成果がなかったという失望感もある。海風は鋭利な刃物のように容赦なく突き刺さり、船は波にぶつかるたびにバシャーンと飛沫を上げる。正直なところ、かなり辛い。

     トド

 予想以上の寒さに震えていたら、操舵室の窓からおじさんが顔を出して右舷方向を指差した。
 えっ、何だろう、と海上に視線を走らせる。
 あ、トドだ!
 なんとトドが海面に顔を出しているではないか。かなり大きい。すぐ波間に消えたかと思うと、また別の場所で顔を出す。
 3回くらい頭部が見えたけれど、結局、それきり見失ってしまった。しかし、野生のトドを見ることができた、というのはすごい。急に元気が出てきた。

     酷寒

 船は寒風を衝いて羅臼港へ急ぐ。寒さはいよいよ尋常ではなくなってきた。気温が氷点下何度だか知らないけれど、もはや数字的な問題ではない。とにかく風が冷たく強烈で、もう喋る気力も失せて、早く港に着かないかなぁ、とそればかり考えていたら、いきなり波飛沫を頭からかぶってしまった。泣きっ面に蜂とはこのことで、濡れた眼鏡を拭こうとしたら、すでに半分凍っていた。

 それにしても、この船に乗りたくて、わざわざ羅臼までやってきたのに、いざ乗ってみると、このザマだ。ちょっと情けない。しかし、流氷さえちゃんと羅臼の海岸に居座っていてくれたら、何もこんな沖合いまで出なくてもよかったのだ。沿岸に漂う氷の間を縫って船を進めながら、穏やかな海上でもっと間近にワシやトドやアザラシを見ることができるはずだったのだ。まぁ、自然を相手に文句を言っても仕方がないけれど…。それにワシもトドも一応見たし、この寒さとともに強烈な思い出として心に残りそうだ。ただ、途中でツチクジラの群れも姿を見せたというのを後で聞かされて、それを見逃してしまったことだけが残念であった。

 ソ連との「国境」スレスレか少し越えたか、というところまで行ってきたという2時間ほどの海上遊覧が終わって、やっと港に帰り着き、そのまま車で宿に直行。なんだかホッとしてしまった。しかし、まるで冷凍庫から出てきたみたいで、指は動かないし、顔の表情も強張ったまま。喋ることも笑うこともままならない。とりあえず手と顔面を解凍しないと何も始まらないので、みんなで近くのラーメン屋に入ったが、初めのうちは箸も満足に使えない状態だった。

 一緒に船に乗った仲間の多くはその日のうちに羅臼を発ってしまい、その晩の夕食は僕と、もうしばらく羅臼に滞在して写真を撮るという大阪のFさんの2人だけだった。羅臼の宿の賑わいは流氷とともに去ってしまったようだった。



     ここでちょっと後日談

 北海道から帰って半月後、羅臼で知り合ったFさんが友人の写真展のため上京し、新宿で会った。
 僕が羅臼を発った後、なんと再び流氷が海岸に押し寄せてきたとのこと。彼はもう一度船に乗せてもらって氷の海を回り、氷上で休む巨大なトドやワシの姿をたっぷりと見ることができたそうだ。結局、僕が羅臼に滞在した前後だけ流氷は沖合いに離れていたというわけで、その辺がちょっと悔しい。

 その代わり、小清水のユースホステルで僕に羅臼行きを強く勧めてくれた東京のWさんが望遠でバッチリとらえたオオワシとオジロワシの写真を送ってくれた。こちらからは羅臼レポートを正直に書いて送る。


     羅臼脱出記

 
さて、翌朝(3月11日)。車は国道を標津へ向かって走っていた。隣でハンドルを握っているのは35歳ぐらいの網走で水産関係の仕事をしているという人。
 バスで建根別方面へ向かうというFさんと別れ、僕はひとり羅臼の宿を出発し、街はずれで手を上げたら一台目で停まってくれ、僕が行き先を告げるより先に、
「標津まででしょ。いいよ」
 といって乗せてくれたのだ。
 助手席で昨日船に乗ったことなど話すと、話題は流氷のことに及んだ。
「『流氷』って唄があるんだよ。しょうもない唄だけど…」
 彼はカセットテープを取り出してカーステレオにセットした。誰の唄だったか忘れたけれど、いかにもよくありがちな演歌が流れ出す。いい唄ですね、などとお世辞を言っても仕方がないので黙って聞いていると、
「知らんでしょ。全然ヒットしなかったから…」
 と言う。それでも網走あたりではカラオケでよく歌われているのだそうだ。
「だけど、やっぱり6月か7月の方が好きだな…」
 彼は網走付近の海岸に美しい花が咲き乱れる季節のことを語ってくれた。この土地に住む人なら、雪と氷の冬より緑輝く爽やかな夏の方がいいに決まっている。流氷なんかを有り難がるのは、よそから来た旅行者だけだ。冬の北国を旅していると、なんでわざわざ冬に来たのか、と地元の人によく聞かれる。

 それから話は羅臼のことに移って、僕が
「エレベーター付きの家もあるそうですね」
 と言うと、
「ああ、それは有名な話だよ」
 と笑った。とにかく羅臼は物価の高いところで、スナックなどでも女性がみんな札幌あたりから来ているため、とても高いのだそうだ。
 そのほか、漁業に関しても色々と聞くことができた。具体的な数字をあげてかなり詳しく教えてくれたのだけれど、残念ながらほとんど忘れてしまった。ただ、スケソウダラの水揚げの様子を見て、あんなに獲りまくっていたら、そのうちかつてのニシンの二の舞になりかねないのではないか、と思って、その辺を尋ねると、やはりその心配がないわけではない、という。長期の展望よりも目先の利益を優先、というのが実情らしい。羅臼の漁業がどうなっていくのか、ちょっと興味がある(その後、羅臼のスケソウダラの水揚げは激減し、スケソウ目当てで羅臼に集結していたワシたちも各地に散らばって越冬するようになったそうです)。

 ほかにも吹雪の時は衝突覚悟で道路の真ん中よりを走るという話や釧路の美味しいラーメン屋のことなど聞かせてもらううちに標津の町に入った。

 根室標津の駅前で降ろしてもらうと、11時半頃で、次の列車までは1時間ほどあった。それで、駅に近い「北方領土館」に行ってみたが、休館日で入れず、建物の裏手から根室海峡と国後島を眺めて、あとは駅の待合室で新聞を読んで過ごす。
 青函トンネルの本坑が開通したそうで、北海道民にとっては大ニュースのはずだが、「地底に歓喜、地上に難題」の見出し。新幹線が盛岡までしか来ていないので、「利用法なお不透明」ということなのだ。埋めてしまえ、という暴論まであるらしい。僕としては青函連絡船の運命が気になる。

 根室標津12時35分発のディーゼルカーは標津線の終点・標茶に着くと、網走からの列車に連結されて、そのまま釧路まで直通する。
 曇り空の釧路湿原を南へ下る列車が茅沼という駅に着くと、雪原に丹頂鶴が2羽来ていた。

 釧路到着15時25分。今日は完全な移動日になってしまって、あとは釧路のユースホステルに行くばかりなのだが、まだ早いので、和商市場を冷やかしたり、デパートの中の書店に立ち寄ったりして、釧路という街の空気に触れてみた。

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