このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
1985年の早春に北海道を旅した時のこと。北海道の知床半島と網走の間にある浜小清水のユースホステルで、同宿者から、知床の羅臼にはオオワシやオジロワシがそれこそカラス並みにたくさんいて、また、羅臼のユースホステルでは流氷の海に船を出してくれてトドやアザラシも見ることができるという話を聞いた。本当は浜小清水からオホーツク沿いに北上していくつもりだったのだが、急遽予定を変更して羅臼へ向かうべく、釧網線で標茶まで南下し、標津線の列車に乗り換えた。
標津線
標津線の列車は10時36分に標茶を出て東へ向かい、無人の丘陵地帯を抜けて1時間ほどで中標津に着く。根室本線の厚床から北上してきたレールとの合流点で、「イ」の字形をした標津線の中心にあたる駅である。
その中標津からさらに30分。終点の根室標津には12時09分に到着。根室海峡に面した町で、到着寸前に左窓に海が見えた。
「沖のほうに白いのが見えるっしょ? あれが流氷。昨日までびっしりだったんだけどね」
向かいの席のおじさんが指を差して教えてくれた。知床半島の北側にはまだびっしりと張り詰めている流氷が、こちらでは沖合に白い帯となってわずかに見えるだけなのだ。昨日までこの海岸を埋め尽くしていた氷が一夜にしてあんなに遠ざかってしまうというのだから、自然の力というのはすごい。
ヒッチハイクで羅臼へ
さて、標津から羅臼までは知床半島の南東岸沿いに50キロの道のりである。この区間を走る阿寒バスは運賃が1,500円もするので、節約のためにヒッチハイクで行くことにした。
とりあえず、羅臼のユースホステルに電話で宿泊の予約をしてから、駅前の食堂で親子丼の昼食。
海峡の向こうに雪をかぶった国後島を眺めながら、国道を北へ歩き出し、後方から車が来るたびに手をあげる。あっさり無視される。一般の車にタダで乗せてもらおうというのだから、そう簡単に行くはずがない。
結局、5、6台目の車が左ウィンカーを点滅させて停まってくれた。若い兄さんの車で、羅臼まで乗せてもらいたい旨を伝えると、残念ながら羅臼には行かないとのこと。少し先に分岐点があるのだそうだ。とりあえず、そこまで乗せてもらおうとしたら、車内は土足禁止であった。
大した話をする間もなく、その分岐点に着いた。車は左の方へ走り去ったが、羅臼は右、ずっと海沿いの道である。羅臼方面へ通じる国道355号線、通称「クナシリ国道」を少し歩いた地点で手をあげると、2台目にきたバンが何の合図もなく唐突に停まった。行き先も確かめず、とにかく乗りなさい、ということらしいので、ありがたく乗せてもらう。
おじさん2人が乗っていて、今度も途中の「クンベツ」というところまでしか行かないとのこと。まぁ、何台でも乗り継いでいくしかない。2人とも水産会社のネーム入りジャンパーを着ていて、僕が乗り込んだ後部座席には弁当箱と漁業関係の本が置いてあった。
「ヒグマに注意」の標識が目立つ林の中を走ったり、海岸に出たりして15分ほどで薫別に着いた。知床の高山から流れ下る薫別川の河口に開けた小さな集落で、背後には山が迫っている。この薫別川は秋になると川面が盛り上がるほどたくさんの鮭が遡上するという。
お礼を言って降ろしてもらい、次の車を待っていると、すぐに大型トラックが海沿いのカーブを曲がってやってきた。手をあげると停まってくれたので、ドアを開けて、
「羅臼まで行きたいんですが」
と言うと、菅原文太みたいなちょっと怖そうな運チャンが無言で頷いた。助手席によじ登り、ドアを閉めると、トラックは発進。すぐに海岸から離れ、山の中に入る。
運チャンは一言も発しないので、一体どんな人なのか判断しかねるが、かなり本格的なトラック野郎という感じである。それで僕も黙って前方の景色を見つめていると、運チャンが朝鮮人参か何かが入ったビン入りドリンクの箱を取り出した。
「1本飲みなさい。飲めるんなら」
飲めるかどうか知らないが、とにかく1本もらって口に含んでみる。美味くはないが、飲めないことはないのでグッと一気に飲み干す。運チャンは飲み終えたビンを窓からポーンと放り投げたが、僕は空きビンを握り締めていた。
「ビン、窓から捨てちまっていいぞ」
さすがに抵抗はあったが、逆らわない方がよさそうなので、道路際の雪の壁めがけてビンを投げつける(反省しています)。それから話をするようになった。
「羅臼なんかに何しに行くんだ」
「ワシがたくさんいると聞いたもんで…」
「流氷がなけりゃワシもいないさ」
「はぁ…」
いきなりガッカリであるが、風が吹けば2時間で氷が戻ってくるそうだ。
それにしても、羅臼は本当に凄まじいところらしく、気候の過激さは都会(マチ)の人間には想像もつかないだろうという。特に冬は知床連峰から殺人的な強風が吹き下ろすので、各家ではガラスが割れないように山側の窓に板を打ち付けておくのだそうだ。真冬にこんな道を歩いていたら、すぐに死んじまうぞ、と脅かされた。
やがて、トラックは急カーブの連続する羅臼峠への上りにかかる。沿道の急斜面に設置された金属製の防雪柵はどれも風のせいで無残に折れ曲がり、なぎ倒されている。積雪も多く、峠の吹きだまりでは道の両側に7、8メートルの雪の壁がそそり立っていた。峠のドライブインは休業中。店の前の電話ボックスは中にぎっしりと雪が詰まっている。
ひとたび吹雪に見舞われると、この道路もあっという間に埋まり、羅臼は文字通り陸の孤島と化す。この国道が羅臼と外部の町を結ぶ唯一の交通路であるから、羅臼の人々にとっては死活問題であるが、開通まで2、3日かかることも少なくないそうだ。
その峠を無事越えると海辺の集落の間を走る。しかし、これが辺境の寂れた漁村とはだいぶ様子が違う。荒涼とした風景の中に妙に立派な御殿が並んでいるのだ。
「すごい家ですね」
と言うと、これは1億2千万だとか、こっちは1億4千万だとか、1軒ずつ値段を教えてくれた。こんな風に各家の価格が周知のものとなっているあたりからして「すごい!」と思う。なかには3階建てでエレベーター付きなんていうのもあるそうで、もうカネに糸目はつけず、とにかく隣よりも高い家を、ということらしい。なぜこんな最果ての地がこれほど豊かに潤っているのかというと、それはもう全面的に豊富な水産資源のお陰であって、ここは年間を通して鮭やスケソウダラ、ホタテ貝、昆布、ウニなどの漁で賑わっているのだ。子どもたちだって、ちょっとやそっとの小遣いでは喜ばないというから推して知るべしである。
北方領土に面したこの地方では日本の情報や物品を提供する見返りにソ連の領海で操業できる、いわゆるレポ船が存在すると言われているが、そこまでやっているかどうかは別にしても、ソ連の領海での密漁は実際にあるそうだ。運チャン曰く、
「政治家だって悪いことやってんだからな」
ということなのだ。とにかく、都会で失業しても羅臼に来ればいくらでも仕事があるというぐらいに経済的には豊かな土地であるらしい。
しかしながら、沿道に並ぶ御殿のような家々はどこも運チャンが言ったように山側の窓に板を打ち付けている。羅臼が過激な自然に晒された土地であることもまた確かなようだ。
突然、トラックが停まった。何かと思ったら、海のほうを指差して、
「あそこに1羽、大きいのがいるだろ。あれがワシだ」
と教えてくれた。なるほど海上を飛び回るカモメの群れの中にひときわ大きな鳥が1羽、ゆったりと羽ばたいている。もっとも、かなり遠くて、ゴマの中にスイカの種が1粒、といった程度にしか見えなかったが。
そして、水平線上には長々と国後島が横たわっている。
「望遠鏡で見たらロシア人が日本に向かってションベンしてるのが見えるよ」
といって、運チャンは笑った。最初は怖そうだったが、結構いい人である。
やがて、羅臼の市街にさしかかる。
「どの辺で降ろせばいいんだ」
そう聞かれても、よく分からないので、
「えーと」
などと言いながら、さっきユースに電話した時に教えられた「本町」とかいうバス停を探していたら、まもなく見つかった。
「あっ、ここでいいです」
といって車を停めてもらい、お礼を言ってトラックから飛び下りた。ついに羅臼に到着である。
羅臼
森下旅館というのがユースホステルをやっているらしく、これはすぐに見つかった。残念ながら、ここは「御殿」ではないようだ。ガラス戸をガラガラ開けると、すぐに玄関脇の居間からおばさんが出てきて、人の好さそうな笑顔で迎えてくれる。しかし、
「まだ早いから、いろいろ見ていらっしゃい」
というので、靴を脱ぐ間もなく荷物だけ玄関に置かせてもらってまた外に出る。「いろいろ見ていらっしゃい」と言われても一体何があるのか全く知らないので、とりあえず街を歩いてみる。
路面の雪が解けてグチャグチャになった国道を大型トラックが茶色い水飛沫をはね飛ばしながら、猛然と行き交っている。今はスケソウダラのシーズンで、標津方面へ向かうトラックはみな魚の入ったケースを満載しているようだ。水揚げされたスケソウダラはすぐに加工場へ直送されるのだ。
冬の北海道といえば、どこも雪と氷に閉ざされ、ひっそりとしているが、ここは違う。人間の欲望と虚栄心、その他諸々の本性が剥き出しになって、ぶつかり合い、雪も氷も解かすほどの摩擦熱を発している。「田舎イコール純朴」という都会人の幻想を吹き飛ばすほどの活気と熱気。いやぁ、すごく豪快なところだ。
トラックに泥水をかけられないように端っこを歩きながら、道路沿いに軒を連ねる商店の様子を観察してみると、辺境の地に似合わず、宝石店まであったりする。物価も高くて、「ほかほか弁当」で一番安いノリ弁当が東京では260円なのに、ここでは350円もする。
羅臼川の急流にかかる橋の上から山のほうを望むと、町の背後にまで迫る山々の彼方に知床の最高峰・羅臼岳が幻のような姿を現わし、すぐに霧の奥に消えていった。
それから海岸に出て、港に出入りする漁船や沖合の国後島を眺めていた。灰色の雲が立ち込めた空、寒々とした海、取り残された氷塊、カモメの群れ。けれども、オオワシもオジロワシも一向に姿を見せなかった。
羅臼の宿にて
その晩、ラウスユースホステルには男ばかり10人ほどが集まった。大抵は流氷やワシを見に来た人たちで、船に乗れるという話を聞くと、ぜひ乗りたいという人が結構いた。ただし、船が出るかどうかは天候次第で、明日の予報はあまり芳しくない。もっとも、テレビで羅臼の天気予報などやるわけないから網走や根室、釧路などの予報から推測するしかないが、トラックの運チャンによれば羅臼では天気が一日に5回も6回もめまぐるしく変化するので、天気予報は一切通用しないということである。つまりは天に祈るしかない。
とにかく、一階の広間、というほど広くもない部屋で男ばかりの夕食。献立の中にジャガイモやニンジンと一緒にトドの肉を煮たものがあった(らしい)。腹が減っていたので、何も知らずに半ば無意識でパクパク食べてしまい、あとから今のはトドの肉だったと聞かされたのだが。というわけで、はっきりした印象はないのだけれど、みんなの話では鯨みたいな味だったということで、そういえばそうだったような気もする。
夕食後、部屋の仲間たちと外へ買い物に出かけた。さすがに夜になると、外は猛烈な冷え込みで、日中はグチャグチャだった路面がもうガチガチに凍結している。そして、トラックの往来は途絶え、人通りも少なく、昼間の活気は嘘のように消え去って、知床・羅臼は急激にうら寂しい日本の果ての町に変貌していたのだった。
後編へ
戻る
トップページへ
標津〜羅臼〜知床峠〜宇登呂を自転車で走った記録
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |