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《東京の水辺めぐり》

  谷沢川〜源流から等々力渓谷へ (前編)

 東京23区内で唯一の渓谷として有名な世田谷区の等々力(とどろき)渓谷。多摩川の支流・谷沢川が武蔵野台地を侵食して形成された1キロほどの渓谷です。東京都の名勝にも指定された等々力渓谷を探訪してみましょう。


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     谷沢川

 東急大井町線等々力駅の南方に位置する等々力渓谷を流れているのは多摩川の支流・谷沢川です。矢沢川と書く場合もあるようですが、ここでの表記は「谷沢川」で統一しておきます。
 さて、谷沢川は世田谷区桜丘3・4丁目あたりを水源とする小河川で、この谷沢川と等々力渓谷の形成について興味深い歴史があるようです。
 貝塚爽平著『東京の自然史』(1964年、増補第二版 1979年、紀伊國屋書店)によれば、谷沢川上流部は古くは九品仏(くほんぶつ)川に繋がっていたというのです。九品仏川(今は暗渠・緑道)は世田谷区南東部の奥沢にある九品仏・浄真寺付近から世田谷・目黒区境を東へ流れ、呑川に合流し、大田区で東京湾に注ぐ川で、多摩川に注ぐ谷沢川と水系の異なる川です。つまり、桜丘を水源とする流れは本来、多摩川とは無縁の川だった、ということです。
 一方、大昔の谷沢川は武蔵野台地の南端、国分寺崖線の湧水を水源として、すぐに多摩川に流れ込む極めて短い川だったのでしょう。ところが、この豊富な湧水が崖線を奥へ奥へと侵食していき、谷を刻んでいくうちに、すぐ北側を流れていた九品仏川に繋がってしまい、九品仏川上流部の水は谷沢川を経て多摩川に流れ込むようになったのです。にわかに水量の増した谷沢川はますます深く台地を侵食して現在の等々力渓谷が形成されたわけです。
 一方、上流部を奪われた九品仏川のうち、等々力から奥沢にかけての流路は流れが逆になり、これも谷沢川に流れ込む形になりました。この部分は逆川と呼ばれ、現在も痕跡が残っています。


     谷沢川の始まりはどこか?

 さて、等々力渓谷を訪れるには東急大井町線の等々力駅下車が便利ですが、谷沢川の水源が僕の住む町に近いということが判明したので、源流部から谷沢川を辿って等々力渓谷に至ることにします。
 『世田谷の河川と用水』(世田谷区教育委員会、1977年)によれば、谷沢川の水源は現在の上用賀6丁目30番地付近にあった湧水であると記されています。世田谷通りと環状8号線(環八)が交わる三本杉交差点の南東側、宇山(うざん)バス停に近い都営団地のあるあたりです。
 で、実際に訪れてみました。上用賀六丁目広場という公園および道をはさんだ向い側の公園あたりが、湧水のあった水源の跡でしょうか。しっかりと暗渠水路も残っています。しかし、水路はさらに上流へと続いているのです。水源はさらに上流にあるのでしょうか。前掲書によれば、この地点の800メートルほど北方を南東方向に流れていた品川用水(玉川上水の分水路。現存せず。現在の千歳通りがその跡)から谷沢川に水が供給されていたというような記述もあることから、その水路跡かもしれません。
 とにかく、谷沢川の始まりはどこなのか、その暗渠を遡ってみることにしましょう。正直なところ、等々力渓谷を訪ねることよりも興味が湧いてきました。
 暗渠は上用賀6−27で世田谷通りに出合いますが、いったん南へ下って、すぐにまた北に転じて世田谷通りの下をくぐります。もちろん、上流へと遡っているので、水の流れはこの文章表現とは逆方向です。
 世田谷通り(昔の登戸道=津久井往還)の北側は町名が変わって世田谷区桜丘。なんと開渠の水路が現われ、水量は少ないものの水が流れています。

(世田谷通りの北側に開渠の水路が!)

 少し上手には桜丘宇山緑地(桜丘3−28)があります(右写真)。ここは緑地の大部分が窪地になっていて、遊水池なのです。わりと最近造成されました。注意書きには、
「ここは遊水池です。夏場などの急な大雨の際、南側水路の水位の上昇と同時に、緑地内に水が入ってきます(以下略)」とあります。
 世田谷区の下水道は北東部が汚水と雨水を一緒に流す合流式、南西部が汚水と雨水を別々の管で流す分流式になっています。この谷沢川流域は分流式の地域であり、注意書きからも、この水路が基本的に雨水の排水路として機能していることが分かります。ただし、分流式地域では道路の側溝はすべて川に繋がっているので、路上での洗車などで側溝に汚水を流すと、未処理のまま川に流れ込んでしまうので、注意が必要です。

 (宇山緑地南東角の合流点)

 ところで、この緑地の南東角で東西からの水路が合流しています(上写真)。地形図を見ると、世田谷通りと千歳通りにはさまれた桜丘3丁目から4丁目にかけては等高線が入り組んでいて、その北部は世田谷区内でもひときわ標高が高く、最高所は50メートルほどの丘になっており、その南側に3つに枝分かれした谷戸地形が確認できます。ここに湧水があり、それらを集めて南へ流れるのが谷沢川の源流だったということなのでしょう。この3つの源流を西から順に探索してみました。


 この地図は世田谷通りの歩道にある街区案内板で、谷沢川源流が一部だけ描かれています。
3つの源流を描き足してみました。ごく一部を除いて暗渠です。
なお、この図では太陽稲荷の位置が間違っています。桜丘3-19(図上の19の数字の上方)にあります。
世田谷通りから桜丘3−5と3−24の間の道(商店街)を地形の起伏に注意しながら行くと、2つの谷の存在がよく分かります。


















     谷沢川源流その1(仮称:桜丘4丁目源流)

 桜丘宇山緑地の南縁を西から流れてくる水路で、現在はすべて暗渠化されていますが、川跡はずっとたどることができます。谷戸地形もはっきり確認でき、今も畑が残っています。谷戸の西側の丘には久成院という天台宗寺院と宇山(うざん)神社があります。宇山という地名は多摩川沿いの宇奈根村(現・世田谷区宇奈根)の人々がこの地を開墾したことから宇奈根山谷と呼ばれていたのが縮まって宇山となったそうです。現在は世田谷区桜丘4丁目の一部になっていて、神社やバス停の名前などとして残るのみです。

 
(桜丘4丁目の谷戸に残る谷沢川源流の暗渠。右写真が暗渠水路の始まりの部分=桜丘4−4。道沿いに画面奥へと流れていく)


   
  谷沢川源流その2(仮称:桜丘3丁目北源流)

 桜丘4丁目からの源流(暗渠)は桜丘宇山緑地の南東角で姿を現わし、東(桜丘3丁目)からくる流れ(開渠)に合流します。今度はこの東からの流れを遡っていくと、2つの流れが合わさっていることが分かります。そのうちの1本は桜丘3−20の北端から暗渠水路が始まっています(右写真)。この北側には桜丘こぶし公園、太陽稲荷神社があり、さらにその北側は畑です。そのあたりまでなだらかな谷戸地形となっていて、どこかに湧水があったのでしょう。

(第2の源流が画面奥で左から来た第3の源流に合流する)


     谷沢川源流その3(仮称:桜丘3丁目東源流)

 3つめの源流は東へ伸びる谷戸で、その最奥部は千歳通りに接しています。千歳通りは玉川上水の分水路である品川用水の跡で、江戸時代のごくわずかな時期、品川用水から用賀村に水を分けていたので、その時にこの水路が利用されていたのかもしれません。しかし、下流の品川領の人々の抗議により取水口は閉鎖されてしまったということです。しかし、その後も台地の尾根上を流れる品川用水からの漏水が谷戸に湧き出していた可能性はあります。とにかく、ここにも水路跡が残存しています。














(左写真の奥から暗渠水路が始まる。自転車の置いてある場所が川跡。突き当たりの家の向こうの一段高いところに千歳通り=品川用水跡があり、その向こう側に東京農業大学のビルがそびえている。)



 (住宅地の間を続く暗渠水路)

 この水路は千歳通りと世田谷通りの交差点の北西側の住宅地の中から始まり、世田谷通りと並行するように西へ流れ、北から来た第2の源流を合わせ、さらに桜丘宇山緑地の南東角で西から来た第1の源流とも合流して、世田谷通りの下をくぐり、上用賀6丁目で旧用賀村の領域に入っていきます。そして、そこに溜池があったということです。それが上用賀6−30とその一帯の都営団地のある場所と思われます。

(上用賀6丁目広場北側の暗渠)

(上用賀6−22に「谷沢川湧水池跡」の碑を発見!)


     谷沢川跡をたどる

 さて、桜丘3・4丁目の水を集めた谷沢川は世田谷通りの南側からは暗渠となって流れていきます。それをたどって行きましょう。
 上用賀・用賀地区は昭和初期に耕地整理が行われ、早くから碁盤の目状に街路が整備されています。農道をそのまま舗装しただけの曲がりくねった道が多い世田谷区内では珍しいことです。谷沢川も同時に改修され、道路に沿って直線的に進んでは直角に曲がるという形を繰り返しながら、あみだクジみたいに南下するようになりました。
 右写真のように道路を横断するところでも川跡がはっきり分かるようになっているので、たどるのは容易です。
 初めは西へ流れて、南へ折れ、、また西へ流れて、南へ下ると、上用賀6−6で環状8号線にぶつかります(下写真)。

(上用賀6−6で環八に合流)

 川跡は環八の下に隠れてしまいますが、2ブロック先の上用賀5−24付近で再び姿現わし、用賀七条通りに沿って今度は東へ向かい、心身障害者休養ホームひまわり荘のある最初の角を南に折れます。この南北の道は三峯通りといいます。ひまわり荘の北、上用賀6−4に三峯社が祀られ、庚申塔や地蔵尊もあります。この地域ではかつて三峯講が組織され、代表者が埼玉県の三峯神社にお参りして盗難よけ、防火、災害よけのお札をいただいてきて各戸に配るならわしがあったということです。それでこの付近の谷沢川に三峯橋が架かっていたということですが、今は残っていません。
 谷沢川はここからは東進と南下を繰り返します。

     第六天橋跡と第六天

 (用賀中学校付近の川跡と第六天橋跡)

 世田谷区立用賀中学校の北側に昭和44年竣工の第六天橋の跡が残っています。
 第六天とは仏教では欲界の六欲天の最高位に位置する他化自在天(たけじざいてん)のことで、ちょっと難しいですが、ここに生まれた者は人々を楽しませることで、自らも楽しむという性格を持っているそうです。とても良い存在に思えますが、仏教の世界では人々を悦楽に耽るように仕向けることで仏道の修行を妨げる魔王と考えられていました。一方で、その強大な魔力ゆえに密教、とりわけ修験道で信仰されたともいいます。また、比叡山延暦寺を焼き打ちし、本願寺(一向宗)門徒とも戦うなど仏教勢力の制圧に乗り出した織田信長が自らを第六天魔王と称したこともよく知られています。その第六天がこの近くに祀られていたのかと思って調べてみたら、用賀4−38にかつて第六天社があったことがわかりました。
 世田谷区民俗調査団編『世田谷区民俗調査第9次報告・用賀』(世田谷区教育委員会、1990年)には用賀の第六天について、次のような記述があります。

「第六天様(大六天様)は「恐ろしい神」とされ、その御神体は大きな石である。祀られていた場所は農地にしても作物は育たず、事故もしばしば起こるようなところであった。敷地内の御神木を折ったり、根を切ったりすると、体の不自由な人になったり、死んだりするとも伝えられていた。大戦後は老人が楽しめる施設を建ててほしいという条件で区に寄付し、昭和35年、そこに敬老会館を建設するにいたった。力石もあったが、これは昭和33年、用賀神社境内に移しておいた。」

 敬老会館は今は用賀地区会館に生まれ変わっていて、玄関前に「第六天様跡」の碑が立っています。
 第六天魔王はもとはヒンドゥー教のシヴァ神が仏教に取り入れられたものだともいいますが、日本では神仏習合し、さらに明治以降の神仏分離、廃仏毀釈の流れで仏教から切り離され、神道における神代七代のうち神々がはじめて男女に分かれた第六代「面足命・惶根命(オモダルノミコト・カシコネノミコト)」の両神を第六天として祀るようになったということです。
 いずれにしても、強大な魔力をもつ第六天様が災難を除ける存在として信仰の対象になったり、神道の男女神と同一視されたことで縁結びや夫婦和合の神となったり、さらには第六天魔王が
人間の1,600年を1日と数えて1万6,000歳の寿命を持つということから、長寿をもたらす神ともなったと思われます。第六天跡地に敬老会館を建てたり、用賀のお年寄の集まりが第六天会老人クラブと名付けられていることから、とりわけ長寿を祈願したことが窺えます。一方で、祟る神として恐れられたことも確かなのでしょう。第六天社がなくなった後も橋の名に残したり、その橋が今も保存されているのはそのせいかもしれません。

 
(用賀4−38の用賀地区会館前に立つ「第六天様跡」の碑と用賀神社の「第六天力石)


 ところで、世田谷区内に第六天(大六天)が祀られている場所はほかにもあります。まずは岡本八幡神社境内。ここに「第六天神」と刻まれた小さな祠があります。これは元は岡本1−32の東名高速道路の南側にあったのを移したものですが、その跡地は今も御神木のケヤキが残り、道路がそこだけあまりにも不自然な急カーブで避けて通っています。
 その西隣の大蔵6丁目にはやはり東名道の南側に「大六天」が祀られており、そこで東名道の切通しをまたぐ陸橋は大六天橋です。また、その西方の喜多見4丁目には第六天塚古墳があります。そして、これら4つの第六天(大六天)は不思議なことにほぼ一直線に等間隔で並んでいます。


     田頭溜池支流

 さて、第六天橋を過ぎて、用賀中学校の北東角で、川跡は南へ折れますが、ここで北から来る支流が合流しています。上用賀4−9付近にあった田頭(でんがしら)溜池からの流れです。その北方の公務員住宅付近にかつては湧水があったと思われ、それらの水を集めた溜池があったようです。今はもう池の痕跡はありませんが、訪ねてみると、ちゃんと川跡がもちろん暗渠ですが残っています。

(上用賀4−9。このあたりが溜池跡か?)

 (暗渠で続く支流)

(手前から流れる支流が交差点の右から来た谷沢川に合流して画面奥へ)


     洗い場跡

 用賀中学の南東角に「洗い場」と書かれた碑があります。農家の人が出荷する野菜を洗った場所だということです。水の乏しい台地に広がる旧用賀村の人々にとって、谷沢川は生活に欠かせない存在だったのでしょう。ただ、その谷沢川もこのあたりでは小川に毛が生えた程度の存在だったらしいことは川跡を見ても想像できます。
 ちなみに用賀の農地の大部分は畑で、水田は谷沢川とその支流沿いのわずかな土地にのみ作られていました。

(画面の左から右へと川跡が続く)


     用賀いらか道

 用賀中学校の東側の道を南に行くと川跡はまもなく用賀三条通りにぶつかり、東へ折れます。ここからは「用賀いらか道」と名付けられた遊歩道となっていて、路面には百人一首の和歌が刻まれ、人工のせせらぎもあります。また、この道は東急田園都市線・用賀駅から世田谷美術館へ続くプロムナードにもなっています。
 世田谷ビジネス・スクエア(SBS)の高層ビル(地上28階建て)が間近に迫ってくると、用賀駅はすぐです。また、用賀4−22付近に中丸橋の跡が復元されていますが、この付近の谷沢川西方に中丸池という小さな溜池があったそうです。ほかにも谷沢川の南西側(いまの玉川台2丁目)に村山池金田屋の池といった溜池がありましたが、いずれも小さなもので、耕地整理の際に埋め立てられてしまったようです。

 

(SBSタワーと中丸橋跡)


     用賀

 いよいよ谷沢川は用賀の中心部に入ってきました。三軒茶屋で2つに分かれた新旧の大山街道(矢倉沢往還=現在の国道246号線)が再び合流するところで、街道を行く旅人相手の商店や旅館があったということです。
 OKストアの角を曲がると、左手には16世紀末に開かれた用賀の古刹、無量寺(浄土宗)があり、観音堂には品川の浜で漁師の網にかかったという十一面観音が奉安されています。
 また、無量寺門前の道を東へ行くと、さらに古い真福寺(真言宗)というお寺があり、大山街道から参道が伸びています。寺の山号は瑜伽(ゆが)山といい、鎌倉時代初期にこの地に瑜伽(ユガ)の道場が開かれ、後に真福寺の所領となったところから、山号が瑜伽山となり、また用賀(ヨーガ)という地名の由来ともなっているわけです。
 さらに用賀駅東方の台地上には地元の氏神である用賀神社があります。古くは神明社といいましたが、明治39年に神社は一村一社を原則とする合祀令が出され、用賀村でも村内各所の神々がここに合祀され、明治41年に用賀神社と改名されました。

  
(左から無量寺・真福寺・用賀神社)

 さて、これらの古刹・古社が歴史を物語る用賀ですが、現在はビジネススクエアを中心に再開発が進み、川跡も分かりにくくなっています。それでも、無量寺とOKストアの間の道を首都高速3号線の高架下まで行くと、南橋の跡が残っています。

 (南橋跡)

 南橋からしばらくは高架下を流れていき、次の橋が旧大山街道を渡す田中橋です。名前の通り、昔は田んぼの中の橋だったようで、低湿地帯だったため、大雨が降ると水があふれ、街道も水没することがたびたびだったそうです。




     天神溜池支流

 田中橋から先、谷沢川は大きく姿を変えるのですが、その前に用賀駅付近でもうひとつ、支流が合流していました。馬事公苑南方の上用賀1丁目8・9・26番地付近にあったという旧用賀村で最大の溜池、天神溜池からの支流です。合流点はビジネススクエアの北側あたりのようです。
 用賀駅北口から無量寺と真福寺の中間を北へ伸びる商店街の歩道が川跡で、水源までずっと辿って行くことができます。

  
 (暗渠水路は商店街から住宅街へと続く)

 (最後は開渠となって水源の天神溜池跡に到着)

 上用賀1−8にある天神公園とその北側一帯が天神溜池跡で、今は石碑が残るのみです。ただ、公園南側から続く水路は開渠で、ちゃんと水も流れています(上写真)。地形的にみて、この北方にある馬事公苑内の池付近が谷頭と思われ、この水路は池の水の排水路にもなっているようです。
 天神溜池は付近の湧水をあつめて1720年に造成された灌漑用溜池で、実際の水源はすぐ東側を流れる品川用水からの漏水だったようです。池は3つに分かれ、総面積はおよそ3000平方メートル、最大水深は1.2メートルほどだったということです。池の西方(上用賀3−13)に天神が祀られていたため、天神溜池と呼ばれたわけですが、その天神様は明治末の合祀令によって用賀神社に遷座しています。


     谷沢川中流部

 世田谷区桜丘の源流部からほとんど暗渠の水路だった谷沢川は世田谷区用賀の田中橋の下でようやく姿を現わします。といっても、頭上には首都高速道路の高架橋が覆いかぶさり、しかも、3面をコンクリートで固められた直線水路なので、味気ない姿なのには変わりがありません。
 この区間、左岸が用賀2丁目、右岸が玉川台1丁目です。

 (田中橋下で姿を現わした谷沢川)

 次の橋は壽(ことぶき)橋。ここから両岸の用賀高架下広場に人工のせせらぎがあり、水が谷沢川に流れ込むようになっています。この水は2キロほど西方を流れる仙川の水を浄化し、2,200メートルの導水管を通じてここまで送っているのです。この水は「礫間接触酸化法」といって、水中の石に付着した微生物の働きを利用して濾過されたものだそうです。ただし、僕が訪れた時は冬場の渇水期のせいか水は流れていませんでした(右写真)。




 壽橋の次が櫻橋。その次が三角橋で、ここでようやく高速道路が左へカーブしていき、川の上に空が広がります。そして、すぐに国道246号線・玉川通りの下をくぐります。

(三角橋で高架下から離れる)

 玉川通りの南側は用賀1丁目で、ここからしばらく両岸に桜が植えられ、「谷沢川桜と柳の堤」「せたがや百景」に選定されています。花の季節に通ったことがないので、今度春になったら写真を撮ってこようと思います。

(玉川通りから谷沢川を見る)

 さて、次の橋は宇佐前橋です。この地域の古い地名が用賀村宇佐前なのですが、「宇佐」といえば宇佐八幡であり、この近くにも八幡様が祀られているに違いありません。周囲を見回すと橋の東側に背の高い松の木が数本見えます。たぶんあそこだろうと行ってみましたが、台地の斜面にいかにも鎮守の森の名残といった風情で木が生えているものの、社は見当たらず、高台上はマンションになっています。ここで先ほど訪れた用賀神社の石碑に祭神として天照大神・菅原道真・応神天皇と刻まれていたのを思い出しました。用賀神社は元は神明社だったので、本来の祭神が天照大神です。菅原道真は天神様ですから、元は天神溜池のそばにあった天神社から移されたものでしょう。そして、応神天皇が八幡様です。明治末に神社は一町村一社を原則とする合祀令が出され、村内の神々が用賀神社に合祀されるまでは、この地に八幡神社があったに違いないと思って、何か痕跡はないか、と探したら、「八幡社跡」の碑がちゃんとありました。こういう発見はけっこう嬉しかったりします。

   
①「宇佐前?」→②「あの松の木のあたりに八幡様があるのかな?」→③「何もない…」→④「やっぱり昔は八幡神社があったのだ!」

 宇佐前橋の次は栄橋で、橋の欄干に桜の花があしらわれています(下写真)。このあたり護岸はコンクリートで固められていますが、表面は一見丸太を並べたかのような外装になっていて、しかも、妙にくねくねと小刻みに蛇行しています。川岸の桜を残しつつ河川改修を行った結果、こんなことになったのでしょう。

 

 その次は上の橋。この橋を過ぎると、用賀1丁目から中町5丁目に入ります。世田谷区中町は古くは野良田(のらだ)村といいました。明治22年に周辺の村と合併して玉川村に組み込まれると大字野良田となり、昭和7年に成立した世田谷区の一部になった時に野良田では田舎臭いというので玉川中町と改名され、さらに昭和44年の住居表示実施で現在の中町1〜5丁目となりました。
 

 上の橋から下流は両岸が桜並木からハナミズキの並木とツツジの植え込みに変わります。それ以外にもさまざまな植物が植えられ、なかなか賑やかです。ただ、川は水量も少なく、魚の姿はまったく見られません。時々、カルガモはいます。ほかにキセキレイやハクセキレイなど水辺の小鳥たちもちらほら。

 (ハナミズキの並木とカルガモ)

 上の橋の次は高山橋。旧野良田村の最北部は村で最も標高が高く、高山という字名だったことに由来します。昔は湧水もあったようです。
 続いて、矢沢橋。橋には「やざわばし」とひらがな表記しか見当たりませんが、調べてみると、漢字表記は谷沢ではなく「矢沢」のようです。
 その次が駒沢通りを渡す富士見橋で、欄干に富士山がデザインされています(右写真)。ただ、ここからは富士山は見えないと思いますが。
 田中橋から富士見橋までは南南東の方向にまっすぐ流れてきましたが、ここからは一直線に真南に向います。そして、ここから下流はそれまで両岸に植えられていたハナミズキが左岸だけになります。ちなみに、このあたりの谷沢川の流路は河川改修の際に50〜60メートル、東に移動したそうです。
 次の丸山橋も高山から続く野良田の東側の台地を中心とする地名・丸山にちなんでいます。そして、この橋の下流に世田谷区の雨量・水位観測システムが設置され、 ライブカメラの映像 をいつでも見ることができます。

(丸山橋下流の雨量・水位観測システムと監視カメラ)

 左岸側は世田谷区立中町小学校、その隣に玉川中学校です。玉川中学にはなぜか校庭の外周にウサギとカメのオブジェがあります。中町小の飼育小屋には生きたウサギもいます。

 (玉川中学校のウサギとカメ)

 丸山橋の次は稲荷橋。その次は弁天橋。どちらも、いかにも近くに神社がありそうな橋の名前です。しかし、所在は分かりません。弁天橋の下には大きな放水口があり、水が流れ込んでいます(下写真)。これは昔の支流の跡ではないか、その水源に弁天池があったのではないか、などと想像してみたのですが、確かなことは分かりません。
 街区案内図には弁天橋から南東250メートルほどの地点に神社の鳥居のマークが描かれているので、稲荷社も弁天社も、用賀の場合と同様にそこにすべて合祀されているのだろうと予想しつつ川をさらに南下します。

(弁天橋)

 田向(たむかい)橋を過ぎると、ハナミズキの並木も終わりで、次の橋が上野毛通りを渡す宮前橋です(右写真)。橋の周辺にはスーパーマーケットやレストランなどがあり、ちょっと賑やかなところです。そして、橋の名前の通り、街路案内図にあった神社はここからすぐです。
 上野毛通りを東へ行くと、左手に天祖神社(中町3−18)がありました。きっとここに弁天様が祀られているはずだ、と思いながら、大鳥居をくぐります。境内にはイチョウ、ケヤキ、アカガシ、シラカシ、エノキ、ムクノキ、ヤマトアオダモと7種10本の保存樹木があり、なかでもヤマトアオダモは世田谷の名木百選にも選定されています。なかなか立派な神社です。


 (天祖神社と境内の弁天社)

 そして、本殿の左側に予想通り、弁財天が祀られていました。しかも、御神体はとぐろを巻いた蛇の姿をしています。弁天社には阿夫利神社、日枝神社も合祀され、さらに右脇に力石も置かれていました。また、本殿には天照大神と稲荷神の倉稲魂命(ウガノミタマノミコト)が祀られています。
 そもそも、中町(野良田)の天祖神社も昔は天照大神を祀る神明宮といいましたが、明治7年に天祖神社と改称され、さらに明治40年頃、用賀神社と同様、合祀令で村内各所の神社を合祀し、野良田全体の氏神様となったようです。

 さて、谷沢川に戻りましょう。宮前橋の南には矢澤橋があります。さきほども矢沢橋がありましたが、また同じ名前の橋です。そして、この橋を境に谷沢川の様相は大きく変わります。矢澤橋から下流は急に曲がりくねりながら流れるようになるのです。ここまでの谷沢川は等々力渓谷に繋がっているという雰囲気は微塵もなかったのですが、ここからはにわかに渓谷っぽくなってきます。と同時に川沿いの道もなくなるので、次の橋まで迂回しなくてはなりません。
 ということで、続きは後編ということにします。等々力渓谷はもうすぐです。

(矢澤橋下流で急に曲がりくねり始める谷沢川)

   後編につづく


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