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《東京の水辺めぐり》

 谷沢川〜源流から等々力渓谷へ (後編)


 東京23区内で唯一の渓谷として有名な世田谷区の等々力(とどろき)渓谷。多摩川の支流・谷沢川が武蔵野台地を侵食して形成された1キロほどの渓谷です。東京都の名勝にも指定された等々力渓谷を探訪してみましょう。
 前編では渓谷を流れる谷沢川の源流部を探訪し、そこから川筋を辿って世田谷区中町の矢澤橋まで散策しました。後編はその続き。川はようやく渓谷っぽい雰囲気になり、まもなく等々力渓谷にさしかかります。


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     姫の橋〜中の橋〜権蔵橋

     姫の橋と姫の滝

 世田谷区用賀の田中橋で姿を現わした谷沢川は両側を道路にはさまれ、住宅街を直線的に流れてきましたが、中町2丁目の矢澤橋を過ぎると急に曲がりくねり始めます。
 次の橋は姫の橋といいます。橋の両側がすぐ坂道になっていて、地形的にも谷が狭まってきたという感じです(右写真)。そして、この橋の上流側には川に大きな段差があり、しかも橋の前後の区間は水路が二分されています。そして、下流側では左側の水路に水門が設けられています(下写真)。
 実は昔、この付近に「姫の滝」という滝があったそうです。高さは3メートル余り、滝壺は50メートル×30メートルほどであったといいます。ところが、昭和13年の水害により滝は崩壊し、地元では東京府から4千円の補助金を受けて復旧工事をしたものの滝の姿を取り戻すことはできなかったということです。
 また、「姫の滝」の名前の由来には次のような伝説があります。昔、都からはるばる武蔵野を訪れた貴公子がいて、道すがら立ち寄った玉川の里で領主の館に逗留しました。領主には美しい姫がおり、いつしか貴公子と姫は恋に落ちます。そして、ふたりは夫婦になる契りを交わし、貴公子は再会を約して都へと帰っていきました。大体、この辺まで書くと、その先も想像がつくと思いますが、いつになっても貴公子が再び訪れることはなく、悲しみに沈んだ姫君は野良田の滝に身を投げて…、ということで「姫の滝」と呼ばれるようになった、というわけです。

 
(姫の橋の左写真が上流側、右写真が下流側)


     中の橋

 姫の橋の次は中の橋です。名前は平凡ですが、昔、谷沢川を渡るのに用賀、野良田、等々力と1ヶ所ずつしか橋がなく、その真ん中の橋ということで中の橋と名付けられたそうです。それだけ古くから存在する橋で、ここで川を渡る道は昔の筏道でもあります(右写真)。奥多摩で伐り出した木材は青梅から下流の都市まで筏を組んで多摩川の流れを利用して運んでいたわけですが、六郷あたりまで木材を運んだ筏師たちが歩いて帰るのに利用したのが筏道です。中の橋を通るのは洪水で多摩川沿いの道が通行できない時に利用された第2ルートで、ここから上野毛〜瀬田〜岡本を通り、大蔵の永安寺前で本道と合流します。
 橋のそばには鳥居があり、道行く人を見守る猿田彦大神が祀られています。その隣にあるのは帝釈天とのことです。どちらも痛みが激しく、元の姿はよく分からないぐらいですが、猿田彦と帝釈天が祀られているということは庚申講の人々が建立したものと思われます。

 
(中の橋下流側の眺めと橋のそばに祀られた小さな神々)

 中の橋の下流で谷沢川は等々力通りにぶつかり、少し寄り添うように東へ流れた後、橋というよりはトンネルで道路の南側に抜けます。このすぐ東側の世田谷区立玉川小学校「せたがや平和資料室」(中町2−29)が併設され、戦争と平和に関する資料が展示されています。

(等々力通りに沿う谷沢川)


     中町一丁目広場

 等々力通りの南側で谷沢川は東急大井町線の鉄橋をくぐります。鉄橋の下で川はまた東へ向きを変え、線路に沿うように流れていきます。そこにあるのが中町一丁目広場(中町1−16)です。広場というよりは谷沢川沿いの樹林が保存されているといった風情です。

 (中町一丁目広場)


     権蔵橋

 中町一丁目広場の下流に架かる橋が権蔵橋です。まだ谷沢川に橋が少なく不便だった明治時代に玉川小学校への通学路や付近住民の生活通路として橋が必要とされたことから臼井権蔵氏(明治41年没)が私財を投じて橋を架けたということです。当初は今よりも50メートルほど上流にあったそうですが、昭和初期の耕地整理の際に現在地に架け替えられ、臼井氏の功績を称えて「権蔵橋」と命名されたということです。

 (権蔵橋)

 権蔵橋から下流は右岸は中町1丁目、左岸は等々力2丁目となります。


     河川争奪の現場〜逆川

 権蔵橋の下流側でも谷沢川はさらに大井町線に沿って東へ流れていきます(上写真)。そして、等々力駅の手前で急に南に曲がって等々力渓谷にさしかかり、台地を切り裂くように流れて、多摩川に注ぐわけです。それが現在の谷沢川です。
 ところが、遠い昔はそうではなかった、という話は前編の冒頭でも触れました。桜丘の源流部からここまでずっと辿ってきた川筋は太古にはこのまま東へ東へと流れ、現在、九品仏・浄真寺のある台地の北側を迂回して今の九品仏川に繋がり、さらに東へ流れ、呑川と合流して東京湾に注いでいたはずなのです。
 一方、多摩川に面した武蔵野段丘の崖(国分寺崖線)の湧水を水源とし、すぐに多摩川に注いでいた太古の谷沢川は豊富に湧き出す水の力によって崖線を北へ北へと侵食し(谷頭侵食といいます)、ついにはすぐ北側を西から東へ流れていた九品仏川に接触するに至ります。すると、それまで九品仏川の上流だった水は谷沢川に流れ込み、多摩川に注ぐようになったというわけです。にわかに水量の増した谷沢川はさらに深く谷を刻みこんで等々力渓谷を形成し、一方、上流部を奪われた九品仏川のうち、等々力の争奪地点から浄真寺のある奥沢の台地の西側付近までの流路は水の流れが逆になり、現在の等々力駅北方の満願寺周辺にあったいくつかの湧水も合わせて、これも谷沢川に流れ込むようになりました。これが逆川(さかさがわ)です。武蔵野台地の標高は西高東低なので、武蔵野の川は西から東へ流れるのが普通ですが、逆川は名前通り普通とは逆に東から西へ流れる珍しい存在です。





(大井町線の線路は谷沢川と出合ってから等々力駅、尾山台駅、さらに九品仏駅の手前までずっと谷沢川〜九品仏川の形成した沖積低地に敷かれている。線路の両側に水路があり、水は九品仏方面から西に流れ、向こうに見える跨線橋の下で北からの水路と合流して逆川となり等々力駅南方へ回り込む)



(逆川跡)

(等々力駅南側の「逆川」碑。向こうに渓谷入口とゴルフ橋が見える)


(ゴルフ橋下で急に南に曲がる谷沢川と逆川の流入口〜ここが河川争奪の現場!)


     等々力渓谷

 さて、いよいよ等々力渓谷までやってきました。なんといっても、東京23区内では唯一の自然の渓谷で、東京都指定名勝です。
 等々力駅のすぐ南側、ケヤキのある蕎麦処の角を曲がると、谷沢川に架かるゴルフ橋で、その袂に渓谷の入口があります(右写真)。ちなみにゴルフ橋の名はかつて東急ゴルフ場に通じる道だったことに由来します。

(ゴルフ橋から等々力渓谷を見下ろす)



 地上とは10メートルほどの高低差がある渓谷に下りたところで、「東京にこんな場所があったのか」と感動する人と、「なんだ、こんなところか」とガッカリする人に分かれそうなのですが、ガッカリ派の主な原因は渓谷というわりには水があまりキレイではない、という点にあるのではないか、と思います。確かにゴルフ橋の下あたりは川もそんな清らかというわけではなく、僕も初めて訪れた時はちょっとガッカリ、という感じだった記憶があります。まぁ、いくら渓谷だといっても、ここは都会の町なかなのだから仕方がありません。たまには川にゴミを捨てる不心得者もいます。でも、この先は至るところで湧水が流れ込んでいるので、水もだんだんきれいになっていきます。また、谷沢川の水質は仙川浄化施設からの給水がある時とない時でもずいぶん変動するようです。
 とにかく、川べりの遊歩道を歩いてみましょう。両岸の崖に生い茂る木々のおかげで夏なら涼しさも実感できるだろうと思います(ゴルフ橋の袂の広場に渓谷の気温の電光表示があります)。

 (ゴルフ橋)

 さて、ゴルフ橋付近では川床付近に非常に古い地層の露出を見ることができます。東京の基盤となっている上総層群の泥岩層で、数百万年前、このあたりが海の底だった時代に形成されたものということです。こんな古い地層が露出しているということは、谷沢川がそれだけ深く台地を掘り下げたということなのでしょう。僕はその方面には詳しくないのですが、恐らく地質・地層マニアにはたまらない場所のはずです。
 川の両岸は急な崖です。といっても、岩の崖ではなく、土の斜面で、さまざまな種類の樹木が生えています。ケヤキやコナラ、イヌシデ、ムクノキといった落葉樹、シラカシなどの常緑樹といった高木からシュロ、アオキ、ヤツデなどの中低木、さらにシダ類や湧水周辺のセキショウなど。貴重な植物も多いようです。
 また、崖下からは随所で水が湧き出して、散策路を、水浸しにしている場所もあります。平成14年の調査では渓谷全体で33ヶ所の湧水が確認されているということです。
 野鳥の種類も多く、カモの姿も見かけますが、魚類はほとんどいません。調査では渓谷内でドジョウ、モツゴなど数種類の魚が見つかっているそうですが、数は極めて少なく、僕はこれまで一度も魚影を目にしたことはありません。

(冬鳥のマガモと年中見かけるカルガモ)



 (玉沢橋付近)

 散策路は左岸から橋を渡って右岸に移り、やがて交通量の多い環状8号線(環八通り)の下をくぐります。玉沢橋といいますが、橋の下だけは草も木もない裸地になっています。

(環八・玉沢橋から見下ろした渓谷)

 玉沢橋をくぐると、谷沢川の川床は人工的な玉石張りとなりますが、両岸からの湧水量が多くなり、水はきれいになってきます。特に右岸側には湧水による湿地や池が多くなります。
 ここから下流は左岸が等々力1丁目、右岸が野毛1丁目です。

 (玉沢橋下流)

 (湧水と湧水池)

(等々力渓谷の地層と植生)

 また、玉沢橋下流の左岸は公園として整備されており、崖下に「等々力渓谷3号横穴」(都史跡)が完全な形で保存されています。水の豊富なこの一帯では古くから人々が暮らしており、近くには野毛大塚古墳(野毛1−25)や御岳山古墳(等々力1−18)がありますが、横穴は古墳時代末期から奈良時代(7〜8世紀)にかけて造られた埋葬施設で、有力農民の墓と考えられています。この3号横穴からは3体の人骨と一対の耳環(イヤリング)、土器などの副葬品が見つかっています。等々力渓谷では3基の横穴が調査され、1・2号横穴は跡地を示す石碑が立つのみですが、もしかすると、まだほかにも人知れず崖の地中で眠っている人がいるかもしれません。

 (3号横穴とその解説図)


(渓谷の西方にある野毛大塚古墳。5世紀前半の帆立貝形前方後円墳。全長82m、高さ11m)


 再び右岸に戻って、散策を続けましょう。まもなく、等々力不動の境内に入ります。
 まずお参りするのは稚児大師御影堂(右写真)です。ここには真言宗を日本に伝えた弘法大師・空海(774‐835)の幼少の姿の像が奉安されています。弘法大師生誕1,200年を記念して昭和50年に建立され、尊像は芸術院会員・清水多嘉示氏によって制作されました。

(稚児大師堂のそばで見かけた青い鳥ルリビタキ♂ 2008.12)

 (稚児大師堂のそばには湧水が引かれている)

 さて、いよいよ等々力渓谷最大の見どころ、不動の滝です。利剣の橋を渡った左岸の崖から湧水が二筋の滝となって落ちています。等々力の地名はこの滝の水音に由来すると言われています(上流の「姫の滝」の音から、という説もあります)。
 この滝は古くから修験道の霊場として知られ、多くの行者が訪れ、滝に打たれました。通りかかった地元の方のお話では、やはり昔に比べて水量が減っているということです。
 滝の横には正一位稲荷大明神と不動明王が祀られ、滝の上にも不動明王像があります。
 また、この滝の周辺も地層がよく観察できるポイントで、関東ローム層(火山灰質)や武蔵野礫層の下に位置する東京層(粘土層=不透水層)の上部から水が湧き出ているのがよく分かります。

 (利剣の橋)

 (不動の滝)

 滝の右手には宝珠閣という建物があり、その付近にも湧水があり、池に鯉や金魚が泳いでいます。もちろん、これらの水はすべて谷沢川に注ぎます。

 (宝珠閣の池)

 不動の滝からいったん渓谷を離れ、左岸の崖上に石段を上っていくと、すぐ左手に神変窟があり、岩窟内に神変大菩薩、つまり役行者(えんのぎょうじゃ)が祀られています(右写真)。役行者こと役小角(えんのおづぬ)は7世紀から8世紀初めにかけて実在した伝説的な呪術者で、修験道の開祖として知られています。等々力不動の本尊である秘仏の不動明王像は役小角の作という伝説があり、ここも修験道の霊場となっているわけです。

 さて、渓谷を見下ろす崖の上が等々力不動の本堂です。平安時代末期に紀伊国・根来寺の興教大師が霊夢に導かれて、この地に役小角自刻と伝わる不動明王像を安置したのが始まりという古刹で、正式には瀧轟山(りゅうごうざん)明王院といいます。現在は等々力駅の北方にある真言宗寺院・満願寺(1470年創建)の別院となっています。
 山門は目黒通りに面していますが、やはり等々力駅から渓谷を通って参拝するのが趣があります。境内からは渓谷の眺めがよく、特に春の桜と秋の紅葉がみごとです。

(等々力不動)

 等々力不動から目黒通りをはさんだ向かい側には御岳山古墳(都史跡)があります。5世紀後半の円墳で、直径42メートル、高さ7メートル。山頂に続く道に沿って石仏が点在し、頂には浮き彫りの蔵王権現が祀られています。この古墳から大正6年に七鈴鏡が発掘され、現在は満願寺の寺宝となっています。

 (御岳山古墳と蔵王権現のレリーフ)

 さて、等々力渓谷に戻りましょう。
 等々力不動から再び石段を下る途中を左に行くと、弁財天を祀った弁天堂があります。ここにも湧水があり、お堂を取り巻くように池があります。ただし、水量はさほど多くはありません。それでも、ここで一度、カワセミの姿を見かけました。
 ここは訪れる人も少なく、ちょっと荒れた雰囲気でしたが、最近、橋が改修されました。

 (弁天堂と弁天池)

 不動の滝まで戻って、利剣の橋を渡り、谷沢川の右岸を下流へ行くと、右手に等々力渓谷公園があります。崖の斜面と台地上を含む庭園で、茶室などがあります。

(等々力渓谷公園の庭園)

 このあたりからは右岸側に民家も現われ、渓谷もそろそろ終わりですが、世田谷区が住宅跡地を購入し、公園として整備を進めています。

(左岸には等々力不動の境内緑地が続く)

 国分寺崖線の出口付近で矢川橋(下写真)を過ぎると、谷沢川の両側が住宅地となります。右岸側の各家には道路に出るための私用の橋が架かっています。



 谷沢川はまもなく国分寺崖線に沿って西から東へ流れる丸子川(旧六郷用水)と交差します。といっても、正確には丸子川上流からの水はここで谷沢川と合流し、多摩川に流れ込み、丸子川の下流へは谷沢川の水をポンプアップして流しているのです。

(谷沢川の水を汲み上げ、丸子川下流へ流す)

(谷沢川と丸子川上流の水が合流して多摩川へ)

 谷沢川の河口が近づいてきました。玉堤2丁目(左岸)と野毛1丁目(右岸)の間を流れ、最後は玉堤通りの下をくぐって多摩川に注ぎます。世田谷区桜丘から始まった谷沢川散策の旅のゴールです。

(玉堤通りをくぐって、多摩川に合流)

  おわり


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