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★東京機関区(1965〜1985)→新鶴見機関区(1985〜1986)→田端運転所(1986〜2006) 

※1985年以降は東京機関区→品川運転所→田町電車区常駐機について語ることとする

 

1.1965(昭和40)年10月改正

1965(昭和40)年10月のダイヤ改正で、東京機関区に東京〜下関間で、ブルートレインを牽引していたEF60-500を置き換え用で、12両のP形と5両のF形が配置され、EF60-500を置き換えて東京〜下関間でブルートレイン牽引に当たった。なお同時に配置されたグループに本来は高速貨物列車用のF形が5両存在したが、これは高速貨物列車の試運転用の要素が強かった。

この改正での運用列車は以下の通りで。東京発着の列車の他、この改正で初の京阪神対九州間の夜行特急として新大阪〜西鹿児島・長崎間に「あかつき」が運転を開始し、この「あかつき」の新大阪〜下関間も担当した。東海道・山陽本線の客車特急全てを担当したわけである。

列車番号

列車名

牽引担当区間(カッコ内は当列車の終着)

1・2

さくら

東京〜下関(長崎・佐世保)

3・4

みずほ

東京〜下関(熊本)

5・6

はやぶさ

東京〜下関(西鹿児島)

7・8

富士

東京〜下関(西鹿児島)

9・10

あさかぜ

東京〜下関(博多)

11・12  

あかつき

新大阪〜下関(西鹿児島・長崎)

 

なお、後の1966(昭和41)年3月にEF65518〜534が落成し、このうちP形の527〜531が東京機関区に配属され、F形の513〜517が吹田第二機関区に転属となり、東京区はP形に統一された。

 

1965年10月から東海道、山陽本線でブルートレインを牽引し始めたEF65P

写真は2002年に、広島車両所の公開でヘッドマークを取り付けた姿(管理人はP形の牽引するブルトレの写真は持っていない)

 

.1968(昭和43)年10月改正

この改正でいよいよ20系客車による110km/h運転が開始された。EF65P牽引区間では山陽本線のみが110km/h運転で、東海道本線では95km/h運転だったが、いよいよEF65Pの本領発揮の場となった。

またこの改正で東京〜博多間に「あさかぜ」、新大阪〜西鹿児島・佐世保間に「あかつき」が1往復増発されたほか、新大阪〜宮崎間に「彗星」、大阪〜青森間に「日本海」と新たな列車が設定された。これらも東海道、山陽本線では東京機関区のEF65Pが担当していた。この改正は全国的に特急列車が増発されたのだが、ブルトレではすべての列車が直流区間を走行し、このうちEF65Pが牽引しない列車は常磐線の「ゆうづる」のみだった。この改正での東京機関区のEF65P牽引の特急列車は次のとおりである。

 

列車番号

列車名

牽引担当区間(カッコ内は当列車の終着)

1・2

さくら

東京〜下関(長崎・佐世保)

3・4

みずほ

東京〜下関(熊本)

5・6

はやぶさ

東京〜下関(西鹿児島・長崎)

7・8

富士

東京〜下関(西鹿児島)

9・10

あさかぜ1・2号

東京〜下関(博多)

11・12

あさかぜ2・1号

東京〜下関(博多)

21・22

あかつき2・1号

新大阪〜下関(西鹿児島・長崎)

25・26

あかつき2・1号

新大阪〜下関(西鹿児島・佐世保)

23・24

彗星

新大阪〜下関(宮崎)

2001・2002

日本海

大阪〜米原(青森)

 また、この改正でEF65Pが8両必要となったが、不足する分は新製でなく一般型からの改造によって行われ、EF65一般型のうち77号機〜84号機が、535号機〜542号機となり、P形は25両全機が東京機関区に揃い、ロングランによる高速運転を行った。

 

3.1970(昭和45)年10月改正

この改正では鹿児島本線、呉線の全線電化が完成した。全国的に見れば青森〜東京〜神戸〜門司〜鹿児島と、電気運転でつながったことが大きな話題となった。また呉線も電化され、東京〜広島間を呉線経由で結んだ寝台急行「安芸」を山陽本線経由に変更し、下関まで延長の上「あさかぜ」とした。2005(平成17)年にあさかぜが廃止になったのは記憶に新しいが、最後まで残ったあさかぜは下関どまりの列車で、このとき誕生したのである。「安芸」の廃止直前は、ヘッドマークをつけたC62、C59を撮影に来る人で呉線はにぎわったが、思えばSLブームの火付け役かもしれない。

 この増発された「あさかぜ」は東京機関区のEF65Pが牽引したが、これによってEF65Pが3両不足し、それはなんと「彗星」の運用を下関運転所に移管して捻出したものだった。この改正でEF65PF型3両が下関運転所に新製配置されたのである。

運用新設

13・14 あさかぜ3・1号  東京〜下関(下関止)

号数変更

あさかぜ2・1号→あさかぜ2・3号

 

4.1972(昭和47)年3月改正

1972(昭和47)年3月15日、この日は山陽新幹線が岡山まで開業し、当時の最速列車で東京〜岡山間は4時間10分で結ばれることになった。またこの日は管理人の誕生日でもある。最もテープカット時にはまだ母のお腹の中だったようだが(母から聞いた話では16時ごろに産まれたようです)、話を元に戻そう。この改正では東京機関区担当のブルトレ関係でかなりの変更があった。

同名の急行格上げにより東京〜宇野間に「瀬戸」、東京〜浜田間に「出雲」の各寝台特急が運転を開始した。「瀬戸」の全区間と「出雲」の東京〜京都間は東京機関区のEF65Pの牽引担当となり、これに必要となるP形の捻出は「あかつき」「日本海」の運用を下関運転所に移管することによって行った。これによって東京機関区担当のブルトレは全て東京発着となった。

列車番号

列車名

牽引担当区間(カッコ内は当列車の終着)

1・2

さくら

東京〜下関(長崎・佐世保)

3・4

はやぶさ

東京〜下関(西鹿児島・長崎)

5・6

みずほ

東京〜下関(熊本)

7・8

富士

東京〜下関(西鹿児島)

9・10

あさかぜ1・2号

東京〜下関(博多)

11・12

あさかぜ2・3号

東京〜下関(博多)

13・14

あさかぜ3・1号

東京〜下関(下関止)

15・16

瀬戸

東京〜宇野(宇野止)

2001・2002

出雲

東京〜京都(浜田)

 

4.1972(昭和47)年10月改正

岡山開業の大改正から約半年後の1972(昭和47)年10月にもダイヤ改正が行なわれた。この改正では日本海縦貫線のうち、最後まで電化されていなかった羽越本線の電化が完成し、特急「白鳥」が待望の電車特急となったことや、等間隔で「カッキリ発車、数自慢、自由席」のエル特急の設定などが行なわれた。東海道、山陽本線では95km/h走行の特急貨物列車の増発で、3月に運用を下関に移管した関西系ブルトレがEF58の牽引となったのである。

この改正で東京機関区のEF65Pの運用に変化はなかったのだが、501号機〜504号機の4両が下関運転所に転属となった。

これは集中台検制度が採られ、全般検査から15ヶ月経過または20万km走行ごとに台車検査を実施するのがEF65の検査方式だが、東京機関区のP形は当然ながら走行距離による期限が先に来るのである。この集中台車検査を下関運転所で行うこととなり、東京機関区のP形が下関運転所で台車検査を施工している間に代機として1往復(下関→東京→下関)担当するためである。これについての詳細は下関運転所の貢を参照していただきたい。

 

以後、1975(昭和50)年3月のダイヤ改正まで大きな変化はなかった。

 

5.1975(昭和50)年3月改正

1975(昭和50)年3月10日、山陽新幹線の岡山〜博多間が開業し、いよいよ東京と九州が新幹線で直結された。管理人の住む町、広島でも0系新幹線が走り始めた。この改正で東京〜九州間のブルートレインに影響が出ると思われたが、「あさかぜ」1往復が廃止になったのみである。廃止になったのは東京〜博多間の2号、3号で、下関止まりの3・1号は2・1号となった。

そのほかの列車では影響はなかったが、「はやぶさ」「富士」「出雲」が24系24形となり、20系で残る東京発着ブルトレは「あさかぜ」2往復と「瀬戸」のみとなった。最も博多開業時には新幹線に夜行寝台特急を走らせる計画があり、夜間は単線による徐行運転で計画された。山陽新幹線の姫路〜相生間が当時としては駅間距離が短かったのもこの関係だが、騒音問題により夜行新幹線の計画は倒れて、現在まで実現していない。これが在来線にブルートレインを存続させる原因となったである。

また、この改正でブルートレインの牽引機関車に取り付けるヘッドマークが廃止されたが、東京機関区担当列車は全て残った。ロングランの高速運転のため機関車運用を限定していることや、東京機関区のプライドもあったのだが、「我々が担当するブルトレは新幹線と並ぶ国鉄の看板列車」と言う感じであった。

 またこの改正で、東京〜米子間の「いなば」、東京〜紀伊勝浦間の「紀伊」が誕生し、東京〜名古屋間では併結運転となった。「あさかぜ」1往復廃止で余剰になった14系寝台車が使われたが、短距離のために浜松機関区所属のEF58牽引となった。またこの「いなば+紀伊」にはヘッドマークもなく、後にブルートレインが当時のチビッコ達に人気が出て行く中で、今ひとつ話題にされなかった。

 

その後、1978年10月のダイヤ改正まで担当列車や運用に変化はなく、客車の方が変化していったのみである。1976(昭和51年)10月に24系24形の「はやぶさ」「富士」「出雲」が2段式の24系25形となり、1977(昭和52)年10月には下関、広島の両運転所で客車を担当していた「あさかぜ2・1号」「瀬戸」が24系25形に。そして1978(昭和53)年2月には、最後まで東海道、山陽本線の20系特急として残った「あさかぜ1・2号」もついに24系25形となった。東海道、山陽本線での20系特急は、まさに「あさかぜ」で始まり「あさかぜ」に終わる、と言う感じであった。

 

運用廃止

11・12 あさかぜ2・3号  東京〜下関(博多行き)

号数変更

あさかぜ3・1号→あさかぜ2・1号(列車番号に変更なし)

6.1978(昭和53)年10月改正

1978(昭和53)年10月2日のダイヤ改正では、牽引機関車の変更が行われた。これまで牽引していたEF65P形から、同じEF65ながら汎用型の1000番台(PF形)に変更された。1965(昭和40)年10月から、東京〜下関間の高速ロングラン運用を開始して13年、この間の走行距離は400万km近くに上った機関車も出てきて、老朽化による故障などが目立ってきていた。このために新製されたEF651092〜1118のうち、1096〜1116号機が東京機関区に配置され、改正を前にした1978(昭和53)年7月28日東京発の「さくら」」「はやぶさ」から置き換えが始まり、10月の改正までには東京機関区担当の7愛称8列車が全てPF牽引となった。なお、これと同期に新製されたPF形のうち、1092〜1095は、下関運転所で台車検時の代機として配置されていた501〜504号機の置き換え用として下関運転所に、1117,1118号機は首都圏の貨物用の旧型電機置き換え用として新鶴見機関区に配置された。

また、ブルートレイン牽引の過酷な任務を解かれたP形は、505〜512号機、527〜531号機が新鶴見機関区に転属され、535〜542号機が東京機関区に残留して、それぞれ首都圏のローカル貨物用のEF15形などを置き換えた。

新たに配属されたEF65PFは、東北本線で貨物列車や「あけぼの」を牽引していたタイプとは違って、ブロック式ナンバーや下枠交差型パンタグラフが特徴だった。重厚な感がしたP形や、東北用の初期型PF形と比べるとすっきりした姿に管理人は抵抗感をも感じたが、この改正では電車特急の多く(ボンネット型先頭車を除く)にイラストマークが採用され、当時の子供たちにとってはカウンタックやフェラーリなどのスーパーカーに変わってブルートレインや電車特急が人気の的となった。管理人もそのころは小学生であったが、クラスの男子の7〜8割くらいが何らかの形で鉄道が好きな人だったのである。特に当時、東京と西鹿児島の間を日豊本線経由で24時間以上かけて走っていた日本最長距離の特急列車「富士」の人気は高かった。

またこの改正は全国的に大規模な白紙改正となった。複数ある列車の号数表示が、新幹線では下りが奇数、上りが偶数となっていたが、在来線でもこの方式となった。東京発着のブルートレイン関係では、博多行きのあさかぜが改正前は下りが1号、上りが2号だったのが下り1号、上り4号となり、下関行きのあさかぜについても同様に下りが3号、上りが2号となった。また東京〜米子間の「いなば」が出雲市まで延長されて愛称も「出雲」に統一された。「いなば」を改称した出雲市行きの「出雲」は下りが3号、上りが2号の号数を与えられ、従来の浜田行きの「出雲」は下りが1号、上りが4号となった。なお「出雲3・2号」の東京〜京都間の牽引機はEF58のままである。そのため3・2号にはヘッドマークはなかった。

列車番号

列車名

牽引担当区間(カッコ内は当列車の終着)

1・2

さくら

東京〜下関(長崎・佐世保)

3・4

はやぶさ

東京〜下関(西鹿児島)

5・6

みずほ

東京〜下関(熊本・長崎)

7・8

富士

東京〜下関(西鹿児島)

9・10

あさかぜ1・4号

東京〜下関(博多)

13・14

あさかぜ3・2号

東京〜下関(下関止)

15・16

瀬戸

東京〜宇野(宇野止)

2001・2002

出雲1・4号

東京〜京都(浜田)

 

    

1978年改正より、東京発着のブルートレイン(「出雲3・2号+紀伊」を除く)は同じEF65ながらPF型が牽引することとなった。

(左)あさかぜ(大竹〜岩国間にて。なおこの写真は2002年にEF66の故障で実現したもの)

(右)瀬戸(田町にて)

 

その後、1980年10月のダイヤ改正まで日本最長距離列車だった「富士」が宮崎止まりとなり、日本最長距離列車の座を「はやぶさ」へと譲り、日本の長距離旅客列車で24時間を越える運転時間の列車はなくなった。すでに東京と九州を結ぶ旅客の主役は飛行機となっていたのである。それでもブルートレインはブームとなっていたのが皮肉である。

それでも家族連れなどにまだまだ需要があったのか、東京〜九州特急はその後の1982(昭和57)年11月のダイヤ大改正でも大きな変化がなく推移していった。

 1984(昭和59)年2月の改正では、東京機関区の運用に僅かに変化が見られた。東京〜紀伊勝浦間の「紀伊」が廃止となったが、併結相手の「出雲」は2往復体制で残ることになった。この「出雲」のうち、この改正から出雲市行きの3・2号を東京機関区のEF65PFが担当することになり、1・4号は宮原機関区に運用が移管された。またこの改正で同区のEF58が波動用とお召し列車牽引用の計3両のみとなり、PFも団体列車などを牽引する機会が多くなり、新鶴見機関区から1089〜1091号機および1118号機が転属して来た。また下関運転所の1127号機が1982(昭和57)年末に東京区に貸し出されたが、1984(昭和59)年2月の改正で下関に戻されている。

また機関車運用とは関係ないが、「さくら」「みずほ」「出雲3・2号」の14系客車のB寝台がこの改正をはさんで2段化改造が行われたほか、「さくら」と「みずほ」には4人用の個室B寝台「カルテット」が連結されたりした。飛行機におされ気味の乗客を少しでも取り戻そうとしていたのである。しかし「みずほ」の食堂営業が1984(昭和59)年4月頃から、軽食中心の簡易営業となったのである。時刻表にもビュフェを示すコーヒーカップのマークが記されていた(1985(昭和60)年3月に本格営業がいったん復活した)。

 

7.1985(昭和60)年3月改正

1985(昭和60)年3月14日のダイヤ改正。これは東京発着ブルートレインのひとつの時代の変化でもあった。牽引機関車がなんと高速貨物用のEF66の変更されたのである。高速貨物用として1968(昭和43)年に誕生し、高速コンテナ列車や高速鮮魚列車の先頭に立ったものの、オイルショック以後は鉄道貨物輸送は頭打ちとなり、一般貨物列車の先頭に立つなどの不本意な運用もあった。しかしそのスタイルはブルートレインの先頭に立つ姿を夢見るファンも多かったが、これがついに国鉄の事情から実現したのである。

EF66のブルートレイン牽引の抜擢の背景には、「はやぶさ」にロビーカーが連結されたことがある。従来は14両の客車をEF65PFが牽引していたものだが、1両増結すると10‰勾配での82km/h運転が不可能となり、これを可能とするには重連運転、上りの瀬野→八本松間の補機連結が考えられたが、貨物輸送の減少でそのパワーを持て余していたEF66に白羽の矢が立ち、運用効率の向上のために東京〜九州・下関間のブルートレイン6往復全てがEF66牽引となった。また「さくら」「富士」のヘッドマークのデザインが変更された。

 これによって、東京機関区のEF65PFは、東京機関区に常駐ながら車籍を新鶴見機関区とし、東京機関区は車両留置施設としては残るものの機関車の配置がなくなったのである。また後述するが大阪の宮原機関区も同様となり、東海道本線が全線電化されたときの「つばめ」「はと」などの車両基地だった東西の名門機関区が歴史に終止符を打ったのである。また宮原機関区の廃止によって同区のEF65PFが吹田機関区に転属となり、これまでEF66が牽引していた高速貨物列車Bや一般貨物の運用を持つこととなった。これによって新鶴見所属となった東京機関区常駐のEF65PFが従来の宮原機関区の運用も肩代わりすることとなり、東京発の「瀬戸」「出雲」の他に新大阪発着の「彗星」も担当することとなった。ほかに関連運用で東京〜大阪間の急行「銀河」、大阪〜長野間の「ちくま」の大阪〜名古屋間も担当した。ブルトレ牽引機としては残ったものの、何か脇役になった感じでもあった。また管理人もそのころから鉄活動が遠ざかっていったころでもあった。

列車番号

列車名

牽引担当区間(カッコ内は当列車の終着)

15・16

瀬戸

東京〜宇野(宇野止)

2001・2004

出雲1・4号

東京〜京都(浜田)

2003・2002

出雲3・2号

東京〜京都(出雲市)

3001・3002 

彗星

新大阪〜下関(都城)

101・102

銀河

東京〜大阪(大阪止)

4803・4804

ちくま3・4号

大阪〜名古屋(長野)

 

 

    

1985年3月より、東京〜九州間ブルトレはEF66の牽引に。また東京区のPFは新鶴見に車籍を移し、特急では「瀬戸」「出雲」「」彗星」を牽引することになった。

(左)彗星(新大阪にて)  (右)EF66牽引となった「はやぶさ」(早川〜根府川間にて)

8.1986(昭和61)年11月改正

1986(昭和61)年11月1日のダイヤ改正は、国鉄の分割民営化を控えて旅客、貨物会社が分割されることで、スムーズに新会社に引き継ぐように運用が変更となった。そして東京運転区(このころから品川客車区と東京機関区が統合されて「東京運転区」と呼ぶようになったようだ)常駐のEF65PFは田端機関区所属となり、1098〜1116及び1118号機が田端所属となった。

号数変更

ちくま3・4号→ちくま1・2号

 

9.1987(昭和62)年4月から

1987(昭和62)年4月1日、日本国有鉄道は115年の歴史に幕を閉じ、JR発足となった。JR発足に伴い田端機関区はJR東日本の車両基地となり、「田端運転所」に名称を変更された。また東京運転区も品川運転区と名称を変えた。

翌年の1988(昭和63)年4月、瀬戸大橋が開業、宇高連絡線は一部高速艇を除いて廃止となり、東京〜宇野間の「瀬戸」が高松まで足を伸ばした。ブルートレインが四国まで行くのは初めてで、青函トンネルの「北斗星」に比べると話題性は少なかったが、ビジネスダイヤで人気を博し、九州方面のブルートレインが落ち込む中で好調に推移して行った。

また、瀬戸大橋開業前に、青函トンネル開業となった1988(昭和63)年3月の改正で、「ちくま」が列車番号こそ変わらないものの、季節列車の臨時化により定期列車が1往復となり、「ちくま」と改められた。

列車番号

列車名

牽引担当区間(カッコ内は当列車の終着)

15・16

瀬戸

東京〜高松(高松止)

2001・2004

出雲1・4号

東京〜京都(浜田)

2003・2002

出雲3・2号

東京〜京都(出雲市)

3001・3002 

彗星

新大阪〜下関(都城)

101・102

銀河

東京〜大阪(大阪止め)

4801・4802

ちくま

大阪〜名古屋(長野)

以後、田端運転所品川常駐機の運用には大きな変化はなく、客車のほうが、1990(平成2)年3月に「瀬戸」にA寝台個室及びラウンジカーが連結され、1991(平成3)年に「出雲3・2号」にA、B寝台個室が連結されるなどのグレードアップが図られて行ったが、片や「出雲1・4号」の食堂車が1991(平成3)年6月で営業休止となるなどのこともあった。

また1993(平成5)年9月から、山陰本線電化による工事のため、「出雲1号」を伯備線経由に変更する措置がとられたが、1995(平成7)年4月にもとに戻っている。この間、「出雲1号」の牽引区間は東京→岡山間で、岡山から梅小路までは回送列車が運用されている。

また1995(平成7)年4月の改正で、「彗星」の行き先が都城から南宮崎に変更となった。

また、碓氷峠の廃止と同じダイヤ改正となった1997(平成9)年10月の改正で、大阪〜長野間の「ちくま」が電車化され、運用が消滅している。

運用消滅

4801・4802 ちくま 大阪〜名古屋(長野)

 

10.1998(平成10)年7月

これはダイヤ改正ではないが、以前から噂されていた新たな寝台電車「サンライズエクスプレス」が登場し、「瀬戸」及び「出雲」1往復を置き換え、東京〜岡山間併結で東京〜高松間に「サンライズ瀬戸」、伯備線経由の東京〜出雲市間に「サンライズ出雲」としてデビューを飾った。寝台は全て個室で、寝台券不要のカーペット車からなる新たな寝台電車は、当時低迷であったブルートレインに新たな風を吹き込む形となった。これによって田端運転所(品川常駐機)の運用は客車のまま残った「出雲」と、「彗星」のみとなった。

列車番号

列車名

牽引担当区間(カッコ内は当列車の終着)

9・10

出雲

東京〜京都(出雲市)

31・32

彗星

新大阪〜下関(南宮崎)

101・102

銀河

東京〜大阪(大阪止)

 

10.2000(平成12)年3月

「サンライズ」が華々しくデビューしたもののほかの寝台特急列車は北海道系統や「日本海」を除いては低迷が続き、京都〜長崎・佐世保間の「あかつき」の佐世保編成が廃止となった。一方で利用率の低迷が続いていた「彗星」が京都〜門司間で「あかつき」と併結運転をする事になり、田端運転所のEF65PFは「彗星」の運用が廃止となった。1978(昭和53)年以降続いた下関までの運用もこれで終止符を打ち、特急運用としては客車「出雲」の東京〜京都間のみとなった。

 

11.2006(平成18)年3月

ついに、EF65特急の終止符が来た。東京〜出雲市間の「出雲」の廃止である。

これでEF65牽引による特急は40年と5ヵ月半の歴史を閉じたのである。しかも最後のEF65特急だった「出雲」は管理人と同じ1972(昭和47)年3月15日に登場したので感慨深いものがあった。くしくも34歳の誕生日を迎えた3日後に・・・。

東京駅にヘッドマークを取り付けて入線する姿も、昭和50年代のブルトレブームのころの面影を残していた。

田端(田町電車区常駐)のEF65PF、特急運用は失ったものの、急行「銀河」の運用はまだ残っている。しかし「銀河」も新幹線の増発でいつまで残るのか定かではない。しかし管理人の鉄道趣味の原点でもあったEF65牽引のブルトレ客車、この歴史の終焉はひとつの時代が終わったことでもあろう。

最後のEF65牽引の特急となった「出雲」

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