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(1)東海道、山陽新幹線
この改正で念願の岡山延長となった山陽新幹線。やはりこの改正の主役であった。
運用形態は新大阪までの時代とは若干異なる感じになった。
この改正で従来「ひかり」と「こだま」で別料金だった料金体制が一本化された。また改正前は東京〜新大阪間で1時間あたり「ひかり」3本、「こだま」6本で運転していたが、この改正を機に「ひかり」「こだま」共に4本となった。
一方で、この改正で延伸された新大阪〜岡山間については、原則的に「ひかり」の東京〜岡山間直通運転とされ、中には東海道新幹線では新横浜のみ停車、山陽新幹線では各駅停車と、「ひかり」と「こだま」の性格を併せ持つ列車も誕生した。後に鉄道ファンの間からは「ひだま」と呼ばれることになる。
使用車両は勿論0系であった。最も当時は0系しかなく、「0系」の呼び方もなかったのだが。
次に在来線の特急列車を見ていこう
(2)東海道、山陽本線
東京を基点に、九州方面には7往復の夜行寝台特急(ブルートレイン)が走っていた。長崎・佐世保行きの「さくら」、西鹿児島・長崎行きの「はやぶさ」、熊本行きの「みずほ」、日豊本線経由の西鹿児島行き「富士」、博多行き及び下関行きの「あさかぜ」が運転されていた。このうち「さくら」「みずほ」「あさかぜ2・3号」は、当時の新鋭客車の14系が使われていた。しかし14系は電源車がなく、本来なら当時分割併合があった「はやぶさ」に使われたほうが自然に思えるのだが。この改正から3年後の1975(昭和50)年3月の改正で「はやぶさ」と「みずほ」の付属編成を入れかえて「はやぶさ」=西鹿児島(一部熊本折り返し)、「みずほ」=熊本・長崎行きとなったのだが。
また、この14系客車の投入で20系が余剰になり、その20系を活用して新たに東京〜宇野間に「瀬戸」、東京〜浜田間に「出雲」が運転を開始した。何れも同名の急行列車の格上げなのだが、山陽新幹線の岡山開業で、新幹線の走らない区間を埋めるようなダイヤに改められている。
また、東京〜九州間のブルートレインと同じ時間帯で、名古屋〜博多間に電車寝台特急の「金星」が走っていた。南福岡電車区の581系または583系が使われていた。
京阪神地区発着の寝台特急列車は、「あかつき」が3往復、「彗星」が2往復設定されており、「あかつき」は西鹿児島・長崎行きの併結列車1往復、西鹿児島・佐世保行きの併結列車1往復、熊本・長崎行きの併結列車1往復と、すべて併結列車だった。一方で「彗星」は、都城行きの列車と大分どまりの列車があった。「あかつき」「彗星」ともに客車は20系を使用していた。
この「あかつき」「彗星」の新大阪〜下関間の牽引機関車が、この改正から下関運転所のEF65となった。「彗星」は1970(昭和45)年からそうなっていたが、「あかつき」も下関に運用を移管された。この下関運転所のEF65だが、基本的にPF形メインだったが、両数が足りないため共通運用でEF65Fが使用されることもあった。
また、京阪神発着の寝台特急は、客車と電車で愛称を分ける格好で、電車寝台では京都・新大阪〜博多・熊本間に「明星」が4往復、京都〜西鹿児島間に「きりしま」1往復が運転されていた。このうち「明星」は1967(昭和42)年に、初めての電車寝台特急で登場した「月光」1往復を吸収しており、京阪神〜九州間の電車寝台のエースになった感がある。また「きりしま」は当時は電車特急の最長距離ランナーでもあった。
一方で電車寝台特急の元祖の「月光」は、定期列車は「明星」に編入され、季節列車は新大阪〜岡山間が短縮され、また新たに岡山〜西鹿児島間に「月光」が設定され、2往復体制は変わらなかったが、岡山発着となったためか、博多開業時の運命が決まったようなものだった。
電車寝台は南福岡電車区の581系または583系が使われていた。また食堂車は善列車で連結されていたが、営業が行なわれていたのは「きりしま」のみだった。
山陽本線の昼行特急は、新大阪〜宇野間の「うずしお」が廃止された。山陽新幹線の岡山開業で利用客が完全に新幹線へ移行するためだろうが、岡山での乗換えがないことで廃止を惜しむ利用客もいたようだ。
また山陽新幹線の岡山開業によって「つばめ」「はと」が白紙的に系統が改められ、「つばめ」は岡山〜九州間の特急となり、岡山〜博多間及び岡山〜熊本間に設定され、4往復が581系または583系、2往復が481系または485系で運転されていた。うち1往復は車両落成を待って4月25日からの運転となった。また「はと」は岡山〜下関間の特急となり、181系が使われた。
また、車両基地の関係で「かもめ」「なは・日向」「みどり」「しおじ」は運転区間が短縮されずに残った。 「かもめ」「なは・日向」は向日町運転所のキハ82系ディーゼルカーが使われ、「かもめ」は京都〜長崎・佐世保間の運転。小倉で長崎行きと佐世保行きに分かれる(上りの場合は小倉で一緒になる)のだが、佐世保編成は折尾〜原田間をなんと筑豊本線経由で運転されていた。またこれによって小倉〜折尾間及び原田〜肥前山口間は「かもめ」が2度通る現象が起きていた。食堂車は長崎編成に連結されていた。
「なは・日向」は大阪〜西鹿児島間の「なは」と大阪〜宮崎間の「日向」が大阪〜小倉間で併結されており、「なは」は全区間電化路線を走るディーゼル特急でもあった(また当時は「白鳥」に次ぐディーゼル特急のロングランナーだった)。食堂車は「なは」に連結され、「日向」の利用客は小倉〜宮崎間では食堂車が利用できなかった。当時は新婚旅行客に宮崎や別府は人気があり、「日向」も新婚旅行客が多かったようだが、食堂車がないことでクレームは来なかったのだろうか?
「みどり」は現在では九州内の佐世保特急だが、当時は新大阪と大分を結ぶ電車特急で、岡山開業後も新大阪発着で残された。向日町運転所の481系または485系が使われていた。また「しおじ」は新大阪〜下関間に3往復、新大阪〜広島間に2往復が運転され、新大阪〜広島間の1往復は「明星」の間合いによる寝台兼用の581系または583系が使われていたが、その他は181系で運転されていた。
(3)九州内特急
九州島内のみを走る特急は、「有明」が3往復、「にちりん」が2往復のみの寂しい状況だったが、これは山陽本線からの特急が多く乗り入れていた関係である。
「有明」は門司港〜西鹿児島間に1往復、博多〜西鹿児島間に2往復が運転され、博多〜西鹿児島間の1往復はこの改正での増発分である。何れも「きりしま」や「月光」の間合いを利用した寝台兼用の581系または583系が使われていた。現在の九州新幹線の前身とでも言えるだろうか?
また日豊本線の「にちりん」は博多〜西鹿児島間にキハ82系ディーゼルカーによる1往復と、博多〜大分間に1往復が481系または485系電車で運転されていたが、電車の「にちりん」はこの改正での増発分である。但し車両落成を待ってからの運転となったために4月からの運転となった。
(4)四国特急
山陽新幹線の岡山開業と言うことで、四国にも特急が走り始めた。岡山からは宇野線の快速電車、そして宇高連絡線と接続して愛媛、高知県下を結ぶ特急で、高松〜松山・宇和島間に「しおかぜ」が3往復、高松〜中村間に「南風」が1往復運転を開始した。何れも四国に配置された強力型のキハ181系ディーゼルカーが使われたが、これまでの実績から食堂車は連結されなかった。
(5)山陰地区の特急
山陰地区では、京都〜博多間に福知山線経由の特急「まつかぜ」が運転されていた。また京都〜浜田間にも「まつかぜ」が増発された。これは改正前まで「やくも」を名乗っていたが、この愛称が新たに新設された伯備線の特急(後述)に採用され、「まつかぜ」に編入された。いずれも向日町運転所のキハ82系ディーゼルカーで、博多行きの「まつかぜ」1往復は鳥取で編成の半分を切り落としていた。
また、播但線経由の特急「はまかぜ」が運転を開始した。播但線経由になったのは姫路での新幹線接続や山陰本線のダイヤの関係もあったと思うが、それにしても播但線内はノンストップ運転で、播但線経由の意味はあるのか?という感じでもあった。これも向日町運転所のキハ82系ディーゼルカーが使われた。
またこの改正の目玉として、岡山で新幹線に接続をして山陰を結ぶ陰陽連絡特急「やくも」が岡山〜米子・松江・出雲市・益田間に運転を開始した。強力型のキハ181系を使用し、食堂車も連結。うち1往復は改正まで新大阪〜出雲市間を伯備線経由で結んでいた「おき」を岡山発着に短縮したものである。その後伯備線は陰陽連絡のメインルートに成長し、山陰地区で始めて電化されて今日にいたっている。
(6)南紀地区の特急
南紀地区は紀勢本線の「くろしお」のみだった。但しこの「くろしお」。天王寺を基点に白浜、新宮だけでなく、紀伊半島を全てまわって名古屋へとロングランする列車も存在した。全て和歌山機関区のキハ82系ディーゼルカーが使われ、食堂車も連結。但し白浜折り返しの1往復は営業を休止していた。またグリーン車も2両連結され、これは当時、紀伊半島は宮崎とともに新婚旅行客に人気があり、そのためであった。新婚旅行=海外、となった感がある今では想像つかない感じである。
(7)北陸、日本海縦貫特急
日本海沿いをロングランする特急は、昼行の「白鳥」と夜行の「日本海」が1往復ずつ運転されていた。「白鳥」は向日町運転所のキハ82系ディーゼルカーで運転され、大阪〜青森間の所要時間は16時間かかっていた。また「白鳥」は東海道、北陸、信越、白新、羽越、奥羽本線を通っていたが、羽越本線の一部区間の電化がまだでディーゼルカーのままだったが、電車化も間近であった。ちなみに「白鳥」が電車になったのは、羽越本線の全線電化が行なわれ、それに伴う改正があった1972(昭和47)年10月のことである。
一方で、今も運転される「日本海」は、当時は1往復のみである。ダイヤ的には今の「3・2号」に近い感じで、20系客車によって運転されていた。当時は食堂車も連結され、営業されていた。
この「日本海」。今でこそ日本海縦貫線は全線電化され、3つの電化をスルーパスできるEF81が大阪〜青森間をロングランするが、当時は大阪〜米原間がEF65PF(またはEF65F)、米原〜田村間がDE10(またはDD50)、田村〜富山間がEF70-1000、富山〜新津間がEF81、新津〜秋田間がDD51、秋田〜青森間がED75-700と言うリレーだった。全線電化後もEF81が富山〜秋田間を通しになった以外は変わらず、EF81が大阪まで乗り入れできるようになったのは湖西線開業の1975(昭和50)年3月のことだった。
「白鳥」「日本海」以外では、「北越」が大阪〜新潟間に1往復運転されていた他、「雷鳥」が大阪〜富山間に7往復、大阪〜金沢間に1往復が運転され、2往復は碓氷峠を通過する「白山」用に作られた489系が使われ、その他は向日町運転所の481系または485系が使われていた。また「しらさぎ」は名古屋〜富山間に7往復が運転され、基本的に向日町運転所の481系または485系が使われていたが、1往復は「金星」の間合いを利用した寝台兼用の581系または583系が使われていた。「金星」とペアになっていた「つばめ」の名古屋〜岡山間廃止によって生まれた運用だが、現在583系最後の特急となった北陸本線に583系(当時は581系も含む)が乗り入れを開始したのはこの改正からなのである。また「金星」「しらさぎ」に使われる車両は耐寒耐雪装備を施工したものが限定運用されていた。
(8)上越地区、信州の特急列車
上越や信州を走る特急は、上野〜新潟間(一部東京発着)の「とき」がエース的存在で、181系によって運転されていた他、上野〜金沢間に上越線経由の「はくたか」と、信越本線経由の「白山」が運転されていた。「はくたか」は向日町運転所の481系または485系が上野に乗り入れる広域運用で、上記の581系または583系の運用とともに広域運用がされていた。国鉄が分割民営化された今ではこういった運用は先ずありえないだろう。また「白山」は、改正前は同名の急行を格上げされたもので、急行時代は客車列車で碓氷峠の連結制限による輸送力不足が懸念されていたが、横軽対策の489系電車によってスピードアップと輸送力増強が実現した。また信濃地区へは「あさま」が運転され、181系を使っていたがこれは碓氷峠通過時に8両以内に編成を抑える関係から食堂車もなかった。また新宿〜松本間の「あずさ」は全て新宿〜松本間の運転で、1往復は白馬まで延長されることもあった。この白馬に延長されることもある「あずさ」の下り列車が、新宿駅を8時ちょうどに出る「あずさ2号」で、後に「狩人」のヒットソングになった列車でもある。
また「あずさ」は181系を使っていたが、その当時は「とき」と共通運用で、なんと食堂車も連結されていた。その当時は特急に食堂車と言うのは常識的だったのである。
中央西線の特急「しなの」は当時、名古屋機関区のキハ181系が使用され、1往復が大阪〜長野間、2往復が名古屋〜長野間の運転であった。当時は食堂車も連結されていた。なお「しなの」は後の1973(昭和48)年7月の中央西線の全線電化で日本初の振り子式電車、381系に置き換わったのだが暫くは初期故障や予備者の関係でキハ181系も使われていたのである。381系は初期故障よりも乗り物酔いをする乗客が走り始めた頃は多く、揺れの少なさと食堂車があることからキハ181系の「しなの」に乗る人もいたようだが、キハ181系の食堂車は381系に揃える形で連結を取りやめたというエピソードもあった。しかし381系に食堂車って・・・車内がドリフのコントのようになりそうで怖いのですが。
この他、上越線を走る特急に「いなほ」があった。上野〜秋田間に1往復が運転されていたが、羽越本線の全線電化が完成しておらず、ディーゼル特急の元祖であるブルドッグことキハ81系が使われていた。
また上信越には不定期特急の「白根」「そよかぜ」が半ば定期列車のような形で運転されており、「白根」は田町電車区の157系が、「そよかぜ」は「あさま」と共通運用の長野運転所の181系が使われていた。
(9)首都圏の特急
といっても房総系の特急はまだ登場しておらず、ここでは東京〜伊豆急下田間の「あまぎ」と、上野〜平間の「ひたち」を挙げようと思う。
「あまぎ」は昨今の「踊り子」系統の先輩にあたる特急列車で、東京から私鉄の伊豆急行に直通していたのは昔も同じ。車両は「日光型」と呼ばれた157系電車を使用。元来急行用に作られた電車だが、急行「日光」に使われていた頃は東武特急に対抗するために特急用の車内を持っており、特急にも使われた。この改正の頃は既に急行での運用はなく、前述の臨時特急「白根」とこの「あまぎ」のみに使われていた。
「ひたち」は上野〜平間だが、全線電化にもかかわらずキハ81系ディーゼルカーが使われていた。「いなほ」と共通だが、上野〜平間では急行「ときわ」がほぼ並行して走っており、所要時間でも大差はなかった。この「ひたち」だが、「いなほ」の電車化後は晴れて電車化、増発となって、その後上野駅を代表する在来線の特急になったのである。
(10)東北系特急
東北系、といっても東北本線をストレートに走る特急、奥羽本線に向かう特急、そして常磐線経由で東北北部を結ぶ特急とさまざまであった。
東北特急のエースは何といっても上野(一部東京)〜青森間の「はつかり」だろう。最速列車で上野〜青森間を8時間15分で走破し、表定速度89.2km/hは新幹線以外の特急ではナンバー1であった。この8時間15分で走破する「はつかり」は青函連絡船の深夜便に接続しており、北海道に渡道する乗客で。いつも満員であった。それは昨今の「カシオペア」「北斗星」の満席とは違い、定員の多い列車で満員だったのである。当時はシェア的には東京と札幌を結ぶ客は飛行機の方が多かったのだが、それでも国鉄で東京〜札幌を移動する人も30〜40%位はいたものである。この混雑緩和や、常磐線沿線と北海道を結ぶ役割で、常磐線経由の「みちのく」が運転を開始した。かつては「はつかり」は常磐線経由であったことから、その再来と言えるだろう。「はつかり」も「みちのく」寝台兼用の583系電車が使われ、よるは「はくつる」「ゆうづる」となって走り回っていた。
その「はくつる」「ゆうづる」だが、どちらも上野〜青森間の運転。ただし「はくつる」が東北本線経由、「ゆうづる」が常磐線経由であった。「はくつる」は1往復のみで583系使用。また寝台特急の中で最も表定速度の早い列車でもあった。
「ゆうづる」は常磐線経由で、3往復が583系電車、2往復が20系客車であった。電車寝台と客車寝台が混在する寝台特急は当時は「ゆうづる」のみだった。また583系の「ゆうづる」は20系の「ゆうづる」よりも2時間も所要時間が短く、主に青函連絡船への接続の良い列車に583系をあて、20系の「ゆうづる」は青函連絡船には接続するものの、どちらかと言うと首都圏と東北北部を夜行で結ぶ性格が与えられていた。これはスピードの出せる583系、スピードが出せず、機関車の交換も途中で要す客車寝台の適材適所で産まれたダイヤといっていいだろう
東北本線では、他に仙台までの「ひばり」と盛岡までの「やまびこ」が運転され、「ひばり」は上野〜仙台間を最速3時間55分で結び、表定速度88.0km/hを誇っていた。車両は仙台運転所の483系または485系がメインだったが、この改正から1往復はゆうづるの間合いでの寝台兼用の583系が使われていた。また盛岡行きの「やまびこ」は4往復の運転で、こちらは483系または485系が使われていた。 福島まで東北本線を走り、福島から奥羽本線に入る特急には昼間の「つばさ」が上野〜秋田間、「やまばと」が上野〜山形間、夜行の「あけぼの」が上野〜青森間を走っており、「つばさ」は強力型のキハ181系ディーゼルカーによって運転され、上野に乗り入れるディーゼル特急として珍しい存在だった。この改正のころは板谷峠を自力で登坂していたが、キハ181系でも板谷峠の勾配はきつかったようで、オーバーヒートを連発させていた。その為に後にEF71形電気機関車の補機をつけて運転されることになるわけだが、東北本線で電車特急軍よりわずかに遅いダイヤを組ませたのも原因ではないかと見られている。山形までの「やまばと」は板谷峠を軽快に越えており、「つばさ」のほうがメインなのに対照的であった。「やまばと」には仙台運転所の483系または485系が使われていた。
また、「あけぼの」は上野〜青森間を奥羽本線経由で運転され、上野〜黒磯間をEF65PF、黒磯〜福島間ED75-1000、福島〜山形間がEF71、山形〜秋田間がDD51、秋田〜青森間がED75-700と、「日本海」共に機関車交換の多い列車として知られていた。ちなみに現在は「日本海」は大阪〜青森間はEF81が通しで牽引し、「あけぼの」も上越・羽越本線経由に変更の上EF81が通しで牽引する。
もうひとつ、東北地方には上野〜会津若松間に483系または485系による「あいづ」、仙台〜秋田間にキハ181系による「あおば」が存在。両方ともローカルムードあふれる特急ながら、食堂車が連結されていた。
(11)北海道内特急
北海道内はすべてキハ82系によって特急が、函館中心に走っていた。当時すでに東京(首都圏)〜札幌間を移動する旅客の過半数は飛行機を使っていたが、現在のように9割以上というほどではなく、4割くらいは国鉄利用だった。そのため札幌を基点とする特急はなく、すべて函館発着で、青函航路に接続していた。
運転区間によって愛称が分かれており、根室本線系統、釧路行きが「おおぞら」、石北本線系統、網走行きが「おおとり」、小樽経由の旭川行きが「北海」、室蘭本線経由の札幌折り返しが「北斗」で、すべて食堂車を連結していた。例外は「おおぞら」1往復で、滝川で釧路行きと旭川行きに分割されていた。
以上が私の誕生日の日の特急の概要で、長距離列車が主体、グリーン車、食堂車は連結されている列車が多く、非連結列車が珍しかったくらいである。
また、特急以外に目を向けると、急行もまだ多く残っており、特急と急行で停車駅を振り替えながら補完しつつ走っていた。だから予算や、目的地に合わせて特急、急行というように、棲み分けがされていたのである。
また、この改正では、特急ではないが、京阪神地区の新快速が山陽新幹線の岡山開業で余剰になった153系によって運転され、大阪駅を15分間隔。これは現在の新快速の礎を築き、スピードではライバル私鉄もあっと驚かせた。だがスピードが速くとも酷使による153系電車の老朽化が早く、後に117系、そしてJRになって221系、223系と車種を更新していき、今では特急並みの130km/h運転を行っている。
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