このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


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佐賀県松浦半島に位置する唐津にまめとカメラマンのブタ吉とで行って来ました。
今回の旅の目的はこの地に残っている日本三大悲恋物語と言われる
「松浦佐用姫伝説」(まつうらさよひめでんせつ)を
まめと訪ねて行く予定です。
松浦佐用姫伝説はお話が残ってる現場で少しづつ説明して行こうと思ってます。

ε=(‾。‾;A フゥ…取りあえず説明は終了!!

まずは唐津と言えば「虹の松原」
ここも日本三大松原として有名です。
写真で分かる通り、壮大な距離を持つ松原!!
その距離から別名「二里の松原」とも言われてます。

o(`⌒´*)oエッヘン まめが言う通り朝の5時30分には現場に到着してました!!
だって、幻想的な松原が見たかったんだもん!!

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松原の写真は全景が写ってる物がほとんどで、内部の写真は中々見る事ができません。
(‾∇‾;) ひねくれ者のおじさんとしては、こう言う所は、
とんでもない時間帯に行ってしかも内部まで歩を進め、タイムスリップ感覚を味合うのが楽しいかと・・・

皆さんが知ってる豊臣秀吉公が朝鮮出兵の時にこの地を訪れた時代より有る松原です。
そんな戦国時代より伝わる「虹の松原の七不思議」のひとつに、
槍が立て掛けられる程横に伸びた松の枝があるなんて逸話も残ってます。

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この松原は松原の中心部の一部を除いては、塩分濃度の濃い地下水しか取れず、
今回は入り込んだ西側の松林は雑草さえ育って無く、地面にはコケ類がビッシリ生えてました。
そんな事もあり、確かにまめが言う様に、妖怪とか妖精が居てもおかしく無い雰囲気を出してました。

(‾‥‾a;)ぽりぽり 一番の原因はやはり時間帯か??

06「虹の松原」は約400年前に 初代唐津藩藩主、寺沢志摩守広高(てらさわしまのかみひろたか)が防風、妨潮のために海岸線の砂丘に黒松を植えたのが始まりと言われています。

(‾‥‾a;)ぽりぽり なんて事を言われてもピンと来ないと思いますが、この寺沢氏の経歴を知ればなんと無く時代背景が見えて来ます。

寺沢氏は尾張の出身で、父広正は織田信長の家臣でしたが、天正十年(一五八二)の本能寺の変のあと秀吉の側近として仕え、大和国に六万石を領しました。
その後、色々な事があり(このあたりは面白く無いので省きます)家康との交わりを固めることとなり、慶長五年(一六〇〇)の関が原の戦では東軍に属しました。
その功績で唐津藩当主に。
(=´▽`=)ノね!! 織田信長やら豊臣秀吉やら徳川家康やら出て来るので分かりやすいでしょ!!

さてさて、松原の話に戻ると、この藩主様の逸話で一番好きなのが、この松原を保護する為に、こんなお触れを出したと言われています。

「沿海に植えた新しい松数千万株のうち、余の愛する松が七本ある。この一本を傷付けた者は人を殺したものと同罪に処す」

w(‾□‾)w Oh My God!!
人々はこの禁令をおそれました。公は七本の松がどれであるかを知らせず、人々もついに松の所在を知る者はいなかった。と言われています。

(‾‥‾a;)ぽりぽり なぜ七本の松の所在を明確にしなかったのだろうか?
これについても面白い逸話が残ってます。
仮に誰かが松を悪意がなく誤って傷付けた場合に「これは余が愛する松ではない」という言い訳のためであったといわれています。
もし七本の松の所在がはっきりしていれば、処罰せざるをえないではないか・・・松の保護を目的として出したお触れ。藩民を天災から守りたいと思うすばらしい藩主様と思いませんか?
当然、人々は公の智恵と仁に敬服したという事です。


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(p‾∀‾)p ヤン♪ まめ君痛い所を突くね!!

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虹の松原が出来たのが西暦1600年代。佐用姫伝説は万葉集に残されていた物で西暦500年代のお話・・・

(‾‥‾a;)ぽりぽり 松原は無かったて事です。
ε= (ヽ`◇) 海岸は有ったので、この海岸を佐用姫も歩いたって事でダメ??

次回、ちゃんと「松浦佐用姫伝説」やります!!

松浦佐用姫伝説を訪ねて、 鏡山編につづく


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