このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

国指定史跡備中高松城
 びっちゅうたかまつじょう
【所在地】
岡山県岡山市高松

▲残存する蛙ヶ鼻築堤の上部分

高松城全景想定(岡山市教育委員会作図)

高松城本丸想定(岡山市教育委員会作図)

高松城水攻略史 
 天正10年(1582)、織田信長の命を受け羽柴秀吉は、備中国南東部に侵入し毛利方の諸城を次々と攻略するとともに、3万の大軍をもって、備中高松城を攻めた。秀吉は、高松城主清水宗治に利をもって降伏するよう勧めたが、義を重んじる宗治はこれに応じなかった。
 高松城は深田や沼沢の中にかこまれた平城で水面との比高がわずかに4mしかなく、人馬の進み難い要害の城であった。秀吉は参謀黒田官兵衛の献策に戦史にも稀な水攻めを断行し、兵糧攻めにした。秀吉は、備前国主宇喜多氏の家臣千原九右衛門勝則を奉行とし、3kmに及ぶ堤もわずか12日間で完成させた。 
 
時あたかも梅雨の頃で、増水した足守川の水を流し込み、たちまちにして188ヘクタールの大湖水ができ城は孤立した。6月2日の未明、京都本能寺で信長は明智光秀に討たれた。秀吉はこれをかたく秘めて毛利方の軍師、安国寺恵瓊を招き「今日中に和を結べば毛利から領土はとらない。宗治の首級だけで城兵の命は助ける」という条件で宗治を説得。
 宗治は「主家の安泰と部下5千の命が助かるならば明4日切腹する」と自刃を承諾。6月4日宗治は小舟を浮かべ秀吉から送られた酒肴で最後の盃を交わし誓願寺の曲舞を舞い「浮世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して」と辞世の歌を残して46歳を一期として見事自刃した。
中国の役
 全国統一を目指した織田信長は西進を図り毛利方と対峙した。毛利方は備中境に境目七城(高松・宮路山・冠山・加茂・日幡・庭瀬・松島)を築き備えた。
  織田軍の先鋒羽柴(後に豊臣)秀吉は、天正10年に三万の軍勢をもって同国南東部に侵攻し、境目の城を次々に攻略した。最後に攻めあぐねていた高松城の周囲に約2.6kmの堤防を短期間(12日間)で築き、折からの梅雨を利用して足守川の水を引き入れ水攻めを敢行した。籠城1ヶ月余を経て城兵が飢餓におちいったころ、本能寺の変が起きた。秀吉は毛利との講和を急ぎ、高松城藩主清水宗治の切腹と開城を条件に休戦を成立させ、ついに高松城を落城させた。

■史跡公園には、発掘された杭列や土俵の痕跡等の基礎地業の状態を複製により展示■

▲「高松城跡高さ表示板」
Aの位置は、高松城本丸最上段高7mのところ。堤の高さ8mあり、右の写真からも、高松城は完全に水没することが分かる。

※なお、備中高松城は“日本の歴史公園100選”に選定されており、そのページもご覧ください

                   クリック   『高松城址公園』

【築堤跡複製展示】
 平成10年(1998)4月〜5月にかけて、水攻築堤遺構状況を確認するため、発掘調査が行われ、その結果、築堤のほとんどが」取り除かれていたが、現在の水田の下約1mの所で、基底部が確認された。
  堤防の盛り土は、周辺の丘陵部から運び込んだとみられる花崗岩風化土が主で、その土層からは、陶器片や五輪塔の断片、骨片などが出土した。盛り土の最下層では、杭列(くいれつ)などとともに、「土俵(つちだわら)」の痕跡が確認され、築堤の基底部の様相が明らかになり、また、さらにその下には、深い粘土層が堆積しており、築堤以前には一帯が湿地であったことが判明した。

水攻め築堤跡の発掘調査

「交通ガイド」
備中高松城、水攻築堤跡までどちらも、JR吉備線「備中高松」駅下車徒歩10分


 
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【備中高松城・水攻築堤跡周辺図】

▲築堤当時の地表面(写真左下斜め半分の平面部分)と築堤盛土

▲盛土最下層の杭列

▲築堤の土層から出土した骨片

▲盛土の最下層の「土俵」痕跡

【左・右】蛙ヶ鼻に現存する築堤

▼蛙ヶ鼻の築堤遺構周辺は、「高松城水攻め史跡公園」として整備され、手前の柵列は、築堤跡複製展示部分、後方は現存する堤。

高松城水攻築堤跡
《蛙ヶ鼻築堤跡》

 羽柴秀吉が高松城を水攻めするときにわずか12日間で築いた堤防の東端部で、国指定史跡。
  堤はこの蛙ヶ鼻から、足守駅の下手まで延々と築かれた。堤の大半はすでに削り取られているものの、この蛙ヶ鼻と足守駅下手に遺存する東西の両端が往時の姿を伝えている。
 当時は、高さ8m、上部の幅12m、底部の幅24m、長さ3kmもあるスケールの大きいものであった。

▲現在は「高松城址公園」として整備(平成5年完成)
本丸跡には明治末年に移転改葬された宗治の首塚があり、北西の家中屋敷跡の一画に宗治の遺骸を埋葬した胴塚も残されている。
写真の櫓風の建物は資料館。また、築堤跡は蛙ヶ鼻(かわずがはな)に一部残存する。

▲羽柴秀吉が陣を構えた石井山から望む備中高松城跡(樹木と桜の部分が本丸)
 備中高松城の築城時期は定かではないが、天正年間以前、永禄年間(1558〜70)ころ、備中松山城主三村氏の重臣石川久式(ひさのり)が築城した平城。久式没後は、女婿である清水宗治(むねはる)が備中高松城主となり、毛利氏が進出すると小早川隆景に属する。天正5年(1577)以降、織田信長は中国地方へ羽柴秀吉を進出させた。当時、備中の城主たちは、ほとんど毛利方に属し、「境目七城」を強化して対抗していた。しかし、高松城は、羽柴秀吉の水攻めにより、城主の宗治は切腹し落城。江戸時代に入り、高松城はしばらく陣屋として使用された。

【毛利方の諸城】
中国地方の大大名、毛利氏が領国東端の備中国南東部(現岡山市西部)一帯に整備した‘境目七城’は、毛利氏の東部の防衛線であった。
境目(さかいめ)七城=宮路山城・冠山城・加茂(鴨庄)城・日幡城・松島城・庭瀬城・高松城
七城の内、四城(宮路山・冠山・加茂(鴨庄)・日幡)は攻略されたが、中核をなした高松城は、沼地に築かれた城地の特性を生かして、籠城戦に徹し攻撃によく耐えた。
【織田軍と毛利軍の布陣】

【水攻築堤跡】
赤線部分。現在地から足守駅に到る赤い線の部分に堤防を築いた。
【水没区域】
水色部分。

昭和57年に岡山市の歴史公園造成計画によって復原された沼。古来、本丸(沼の後方)と二ノ丸の間に蓮池の地名が残されており、沼の蓮は、沼の復原によって自然に生えてきたもの。

 ■高松城は、備前国に通じる平野の中心しかも松山往来(板倉宿から備中松山城へ至る)沿いの要衝の地にあり、天正10年(1582)の中国役の主戦場となった城跡として有名である。
 城は沼沢地にかこまれた平城(沼城)で、石垣を築かず土壇だけで築成された「土城」である。沼沢が天然の外堀をなしていた。縄張は、方形(一辺約50m)の土壇(本丸)を中核にして、堀を隔てて同規模の二ノ丸が南に並び、さらに三ノ丸と家中屋敷とが、コの字状に背後を囲む単純な形態である。

(現地説明板に一部加筆の上、掲載)

▲清水宗治首塚

▲本丸内部

▲本丸周辺

高松城水攻め

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