このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


 備中高松城は、戦国時代末期の永禄年間(1558〜70)ころ、備中松山城主三村氏の重臣石川久式(ひさのり)が築城。天正3年(1575)、石川氏が毛利氏に滅ぼされると、毛利氏は石川氏の家臣清水宗治(しみずむねはる)を、この城の城将として、小早川隆景の配下に入れた。
 城跡と築堤跡は、「高松城跡 附水攻築堤跡」の名称で国の史跡に指定(昭和4年12月17日)
※日本の歴史公園100選とは、都市公園法施行50周年を記念して、日本公園緑地協会などで構成する「都市公園法施行50周年記念事業実行委員会」によって選定された歴史公園。100選という名称であるが、実際には250の公園が選定されている。

 
石井山の羽柴秀吉本陣跡から見下ろす備中高松城址
■高松城とは・・
 JR吉備線、備中高松駅から北へ500mほど行ったところに高松城跡(岡山市北区高松)がある。

 高松城は、備前国に通じる平野の中心しかも松山往来(板倉宿から備中松山城へ至る)沿いの要衝の地にあり、天正10(1582)年の中国役の主戦場となった城跡として有名である。城は沼沢地に臨む平城(沼城)で、石垣を築かず土壇だけで築成された「土城」である。城の周辺には、東沼、沼田などの地名に象徴されるように、沼沢が天然の外堀をなしていたのが窺われる。縄張りは、方形(一辺約50m)の土壇(本丸)を中核にして、堀を隔てて同規模の二の丸が南に並び、さらに三の丸と家中屋敷とが、コの字状に背後を囲む単純な形態である。本丸跡は江戸時代初期にも陣屋として活用されていた。
■中国役とは・・
 全国統一を目指した織田信長は西進を図り毛利方と対峙した。毛利方は備中境に境目七城(高松城・宮路山城・冠山城・加茂城・日幡城・庭瀬城・松島城)を築き備えた。織田軍の先鋒羽柴秀吉は、天正10年に三万の軍勢をもって同国南東部に侵攻し、境目の城を次々に攻略した。最後に、攻めあぐねていた高松城の周囲に約2.6Kmの堤防を短期間(12日間)で築き、折からの梅雨を利用して足守川の水を引き入れ水攻めを敢行した。籠城1ヶ月余を経て城兵が飢餓に陥ったころ、本能寺の変が起きた。秀吉は毛利との講和を急ぎ、高松城主清水宗治の切腹と開城を条件に休戦を成立させ、ついに高松城を落城させた。本丸跡には明治末年に移転改葬された宗治の首塚があり、北西の家中屋敷跡の一画に宗治の遺骸を埋葬した胴塚も残されている。築堤跡は蛙ヶ鼻に現在も一部残存している。
(文は現地説明板より。写真は高松城址公園資料館展示写真に一部加筆の上、掲載)

高松城全景想定(岡山市教育委員会作図)

水攻め築堤跡(蛙ヶ鼻(かわずがはな)
【年表】(現地説明板より)
 
 《高松城跡/水攻め史蹟》散策

▲本丸 天正10年(1582)、この地で「高松城水攻め」という秀吉軍と毛利軍との日本史上大きな意味を持つ戦いがあった。現在は公園として整備され、当時に思いを馳せながら散策を楽しむことができる「史蹟 高松城阯 附水攻築堤阯」の石碑が建つ(文は現地リーフレットより。以下同じ)

▲二の丸 本丸の東南、資料館の北側に位置する。本丸とは、小橋でつながっていたと伝えられている


▲三の丸 現在の城跡の東南。南駐車場がある辺り。寺地の中に、宗治の自刃の地跡やごうやぶがある


▲舟橋 
備中高松城の周囲は沼地。周囲と城をつなぐ道は、戦いになったとき攻められないように、川船を並べ、その上に板を渡した程度の舟橋だったと伝えられる

▲高松城址公園資料館 水攻め関係等の資料を展示収蔵。料金無料

▲本丸にある清水宗治首塚 清水宗治の切腹の後、秀吉が家臣に供養塔をつくらせ、その供養塔が首塚。当初は石井山にあったが、明治になって本丸に移された

▲清水宗治胴塚 清水宗治の切腹の後、家臣が舟で城へ返して主君の遺体を城内に埋めたので、胴塚という。本丸北側の駐車場から、西へ50mほどのところにある

▲自刃の地 清水宗治が切腹した場所は、高松城の東にある寺の一番奥あたり。6月4日、秀吉の用意した小船に、兄の月清入道などと乗り込み、「誓願寺」(舞)を舞った後に辞世の句を詠んで切腹したという

▲ごうやぶ 清水宗治の切腹を前に、月清(げっせい)入道の馬の口取の与十郎と、宗治の草履取の七郎次郎が「私たちもおともする」と二人で刺し違えたという。この刺し違えた場所が「ごうやぶ」といわれる

▲石井山(秀吉本陣) 石井山からは高松城がよく見下ろせ、毛利勢からも近い位置になる

▲宗治公首塚跡 本丸に移されるまでは石井山にあった

▲秀吉公本陣跡 高松に到着した秀吉は龍王山(現在の最上稲荷のある山)に着陣し、その後、石井山に陣を変えている

太閤岩 秀吉本陣跡からさらに奥に進むと、秀吉がいたとされる「太閤岩」がある

▲庚申山(吉川元春陣所跡) 庚申山(こうしんやま)は毛利軍配備の陣所では、高松城に最も近い位置にあり、吉川元春が陣を構えた庚申山から高松城を望むことができる

▲足守川水取口 高松城水攻め水取入れ口遺跡。この地は天正10年(1582)5月、羽柴(豊臣)秀吉が高松城水攻めの際、足守川のこの付近を堰止め、蛙ヶ鼻までの約3Kmの堤防を築き水を引き入れた場所と伝えられる
水攻め築堤跡
 秀吉は高松城の攻略を、軍師黒田官兵衛の策を採用して水攻めにし、城地の南東約700mの山根(蛙ヶ鼻)から、西北西約1,500mの足守川上流まで約3Kmの堤防を、わずか12日間で築いたと伝えられています。堤防の内側は約200haの人造湖となり、外側には部隊を布陣させ、城を逆封鎖してしまいました。
 江戸時代の地誌類では、基底部幅24m、高さ8m、上幅12mの大堰堤と記録されています。近年の一部発掘調査によって基底部幅約22〜24m(12〜13間)ということが確認され、築堤に際して土留めなどに使われたと思われる木杭や、土俵・むしろ等が確認された。
 水攻め築堤跡は、当時の様子を知ることのできる貴重な文化財です。このような貴重な歴史遺産を保存・活用し、後世に継承していくための郷土の学習の場として公園を整備しました。
 また、発掘された杭列や土俵の痕跡等の基礎地業の状態を公園内に複製により展示(写真右下の部分)しています。(現地説明板より)

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(現地案内板より)
【備中高松城跡と水攻め史蹟案内図】

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