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福井城

◆福井城概略◆


本丸北西隅を望む 
 唯一現存する城郭跡・本丸の内堀と笏谷石(しゃくだにいし)の石垣。右端は、復元された御廊下橋(おろうかばし)。手前の石垣上には4重5階の天守が建っていた。


■所在地
福井県福井市大手


■交通ガイド
JR北陸本線福井駅から徒歩5分

■形状
福井藩初代藩主結城秀康(ゆうきひでやす)によって築かれた福井城は、本丸を中心に、堀と郭が幾重にも巡らされる典型的な環郭式平城で、徳川家康の次男の居城に相応しい壮大な城郭であった。

■別名
北庄城(きたのしょうじょう)
■藩祖結城秀康公と福井城
 結城秀康は、天正2年〔1574〕徳川家康の次男として生まれた。天正12年〔1584〕羽柴秀吉の養子となり、秀康を名乗る。これは、秀吉と家康から各1字をとったものである。天正18年〔1590〕結城家の養子となり、下総(しもうさ)〔現・茨城県〕結城で10万余石を相続した。

 秀康は、慶長5年〔1600〕の関ヶ原の戦いでは、会津の上杉景勝を押さえた。この功により、越前68万石を拝領し、翌年入国と同時に築城にとりかかり、6年の歳月を要して、慶長11年〔1606〕に福井城を完成した。

 福井城は、広大な平城で本丸を中心にして、二の丸、三の丸、と幾重にも堀に囲まれていた。ことに、東側では旧吉野川を百間堀に改修している。
 外堀としては、南は足羽(あすわ)川、北は現在の光明寺用水路まで、東側には新川(あらかわ)〔現・荒川〕を掘削した。西側は、片町通りまで、その範囲は、おおよそ2キロメートル四方におよんでいた。外堀の内側には、武家屋敷が配置され、その外側には城下町が広がっていた。

 福井藩68万石の権威を象徴するのが、本丸の北西隅に聳える四重五階、望楼型外観四層の天守閣で、天守台を含めた高さは、実に30メートル余りにおよぶものであったが寛文9年〔1669〕の大火で焼失、再建されることはなかった。
 なお、本丸の北東・南東・南西の各隅には、(うしとら)〔ニ層〕・(たつみ)〔三層〕・(ひつじさる)〔三層〕の御隅櫓(おすみやぐら)が建っていた。

■歴代の藩主

 慶長12年〔1607〕秀康没後、嫡男松平忠直(ただなお)が68万石の大国を継承したが、故あって豊後〔現・大分県〕に左遷された。寛永元年〔1624〕、3代忠昌(ただまさ)は、越前のうち50万石を拝領し北庄を福居〔井〕と改め、4代光通(みつみち)は、法令の整備や文教の振興などに力をつくした。しかし、貞享3年〔1686〕には、6代藩主綱昌(つなまさ)は将軍の命で改易された。ところが名門の家柄により25万石が与えられ、5代昌親(まさちか)が再度7代吉品(よしのり)と改名し継承した。そして吉品は、養浩館(ようこうかん)旧御泉水屋敷(きゅうおせんすいやしき)〕を造営した〔現在は、国指定名勝「養浩館庭園」となっている〕

 その後寛延2年〔1749〕、11代重昌、以後4代にわたり一橋系徳川家が相続し領地も32万石となった。15代斉善(なりさわ)は、将軍家斉(いえなり)の24男で、ついで16代慶永(よしなが)春嶽(しゅんがく)〕は、天保9年〔1838〕田安徳川家から福井藩に迎えられた。春嶽は、藩政改革を行い有能な人材の登用には、門閥に関係なく実行した。また、文久2年〔1862〕政事総裁職に就任し、幕政の改革など国政の中心を担った。このように福井藩松平家は、藩祖秀康以来、親藩の家柄として隆盛を誇ってきたのである。

■福井城下図


 本丸を中心として、内堀の外に、二の丸・山里丸、さらに足羽川と荒川を外堀として三の丸を配している。今では本丸以外は市街化されているが、本丸は当時の姿を残しており、本丸の周囲を巡っている幅広い内堀は、当時のまま残る。


■北庄城から福井城へ
 この地には、織田信長の命で柴田勝家が築いた北庄城があった。しかし天正11年(1583)、勝家が賤ヶ岳の合戦で羽柴(豊臣)秀吉に敗れたあと、大軍に攻囲されて落城している。

 その後、関ヶ原合戦後の慶長6年(1601)、結城秀康が北庄城本丸北側に新城を築き、金沢の前田氏を牽制する壮大な城が完成した。新城には4重5階の天守を造営し、本丸と二の丸の縄張は徳川家康がおこなったとも伝えられる。

 右の写真は、北ノ庄城址公園。北ノ庄城本丸跡と伝えられるこの一帯は発掘調査され、石垣の根石などを標示して城址公園として整備されている。 
■福井城本丸跡案内図
 今では、内堀をめぐらした本丸跡が残り、当時の面影を残しているが、周辺は市街化が進んでいる。

 本丸には天守閣をはじめ、巽櫓など3つの櫓がそびえていたが、寛文9年(1669)4月の大火により、焼失した。藩では、直ちに再建に着手し、3年後に復旧したが、天守閣だけは、幕府の禁令により再建を許されなかった。

 福井城は、明治2年(1869)6月の版籍奉還に至るまで、藩主17代、270年にわたる越前松平家の居城として天下にその名をうたわれてきた。堀の石垣には、笏谷石が使われ、当時の美しい姿は、今も本丸の跡にしのばれる。

■天守閣跡と福の井


本丸北西隅の天守台跡
 天守台は二段の石垣で構成され、一段下の部分は腰曲輪になっており、上段に天守台が残る。天守の南(左下)に脇櫓、東(右側)には小天守が建っていた。小天守台は現存。小天守の南(下側)には「福の井」と呼ばれる井戸が残る。
(福井城址天守台跡案内図は現地説明板より)



福井城天守閣跡を望む
 石垣は二重構造の下段部分。下段の石垣に設けられた石段を上がった上段に天守台と小天守台がある。



石段を上がったところの天守台内
 通路を挟んで左に天守台、右に小天守台が位置する。



天守台石垣 
 上段に整然と並ぶ切石の天守台。

天守閣への入口 
 上がって右に天守閣が建っていた。

天守閣跡 
 天守の礎石群が残る。



御天守絵図
 残されている天守絵図によれば、外観は4層であるが、最上層の階高を高くとって2階分の床を張っており、内部が5階になっている。絵図では高さが、約28メートルあり、天守台を含めると約37メートルにもなる。4層5階の壮大な天守も、寛文9年(1669)4月の大火で焼失して以来、再建されることはなかった。



小天守台
 小天守台跡の石垣には福井震災(1948年6月)等による崩壊の跡が残っている。厳しい自然の力が感じられるとともに築城以来の悠遠なる時の流れに思いを馳せることができる。右側には「福の井」と呼ばれる井戸がある。


(ふく)()
 小天守台の脇にあるこの古い井戸は、「福の井」と称せられ、当城の改築以前からここに存し、名井として知られていた。

 寛永元年(1624)当地の名称北ノ庄が福井に改称されたが、その由来はこの福の井の名に因んだものと伝えられている。井戸の底部までの深さ5.7m、水深1.9m。

◆福井城続編◆

 ■本丸内堀(西面)に架かる御廊下橋(おろうかばし) 御廊下橋を渡った所が山里口御門跡(埋御門)。 御廊下橋の後方、高石垣上には天守があった。 (なお、平成二十年三月に御廊下橋は、屋根付き御廊下橋として復元された)
 
■復元された御廊下橋 明治初期に撮影された写真によると、この橋は屋根付きの珍しい形態であった。 高石垣の内部(本丸跡)には、当時、本丸御殿が建っていたが、今は福井県庁や県警本部が建ち並ぶ。

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