このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

◆金華山 岐阜城散策◆
<文は現地説明板・現地資料を参考>

■斉藤道三が稲葉山城を、道三の娘婿・織田信長が岐阜城を築いた

▼岐阜城跡図

 金華山頂部から麓にかけての石垣・曲輪・登り道などの配置を描いている。原図の成立年代は、元禄時代(1688〜1704)頃と推定される。
 金華山は、とがった独立峰のため、山上の主郭部は狭く、山頂駅から天守閣の範囲となる。山麓駅周辺には、千畳敷と呼ばれる広い平坦地があり、ここには信長の山麓御殿があったとみられるが、巨石で覆われた虎口空間は検出されたものの、現時点(2010年5月現在)では御殿の礎石建物址は発見されていない。


「金華山ロープウェー山麓」駅
織田信長居館跡に隣接する山麓駅。山頂駅まで約3分、往復乗車券1、050円(平成22年5月訪問時)。

七曲り登山道
岐阜城時代の大手道。この道を下ること40数分でドライブウェイの起点夕陽が丘へ出る。ロープウェー開通まで一番多く利用された登山道とのこと。右は、ロープウェー山頂駅。

天下第一の門
 大手道旧三の丸付近に復元された冠木門。「天下」という言葉を好んだ信長にちなんで「天下第一の門」と名付けられた。この少し先には上格子門跡がある。

 永禄10年(1567)、稲葉山城を攻め落とした織田信長は、直ちに尾張国から美濃国に本拠を移した。稲葉山の城郭を再建するなどとともに城下町の井ノ口を岐阜と改名し、楽市楽座の継続を認めるなど美濃国の繁栄を図った。また信長は「天下布武」の朱印を用い、岐阜城が天下統一へ踏み出す城となった。

 信長の大志を讃えてここに冠木門を建て、その偉業を伝える。
上格子門跡
 城下の大手門から急坂な大手道(七曲道)を上ってきたここに「上格子門(あげこうしもん)」が建っていた。

 周辺には大きな岩塊や切り立った岩壁がそびえたち、頂に七間櫓が築かれていた要害の場所である。

 関ヶ原合戦の前哨戦となった慶長5年(1600)8月23日の岐阜城攻略戦では、攻めのぼってきた東軍の福島正則らの軍兵と岐阜城主織田秀信軍の将兵が、この門をめぐって激しく戦った。
馬場跡
 岐阜城内の曲輪内では唯一の平坦な土地で、上格子門から幅3間(5.4m)、長さ30間(54m)続いている。元禄年間と推定される岐阜城絵図の「馬場跡」に位置している。

 岐阜城に詰めていた将兵が馬を繋いでいた場所とか、乗馬の訓練をした所とか言われる。一説には馬場ではなく、矢場であるとも言う。
七間櫓跡と土塀跡
 上格子門の西にそびえたつ岩壁の頂に七間櫓が築かれていた。高さ9尺(2.7m)の石垣を積みあげて10間(18m)×5間(9m)の平地を作り、番兵詰所と高い望楼的な建物を設けていた。大手道を見下ろして見張り、上格子門を防御する役目を果たしていた。

 七間櫓から堀切(松風橋)を経て二の丸まで土塀が築かれていたという。岐阜城再建30周年記念事業として昭和61年(1986)7月に土塀の一部を復元した。

松風橋
手前右は復元土塀。後方の石段を登って行くと二の丸跡。橋の下は堀切となっている。


松風橋下の堀切

千成瓢箪発祥の地
この石段を上った処に天狗岩が在る。


千成瓢箪発祥の地といわれる天狗岩

木下藤吉郎と千成瓢箪
 永禄10年(1567)8月14日、木下藤吉郎(のちに羽柴秀吉、豊臣秀吉と改称)は蜂須賀小六や山麓の猟師堀尾茂助など僅か7名を従えて、岩戸口から稲葉山城のここまで潜入し、薪小屋に火を放って手柄をたてたと伝えられている。この時、藤吉郎は城兵を倒した鎗先に腰から下げていた瓢箪を結び付け、鎗を振り回しながら大音声で勝鬨をあげたという。以来、千成瓢箪発祥の地とされている。
二の丸門跡
 天守台にそびえ建つ天守閣の南西一段下に二の丸が築かれ、さらに一段下に二の丸門が建っていた。周囲を石垣で高く積みあげ、守りを固めている。

 関ヶ原前哨戦となった慶長5年(1600)8月23日の岐阜城攻略戦では、二の丸門で激戦が繰りひろげられた。この時、門内にあった煙硝蔵に火がついて大爆発し、夜空をこがした火災が美濃・尾張国内に岐阜城の落城を知らしめるところとなった。

 冠木門と城壁は再建されたものだが、写真右側の大きな石は当時のものと推定される。

二の丸跡
土塀後方の建物は復興天守。

岐阜城題目塚
二の丸門跡近くに建つ題目塚。斉藤道三から織田秀信まで、いくたびかの戦いで死んでいった人々の霊をなぐさめるために建てられたといわれている。

岐阜城の井戸
 濃尾平野の北端に独立してそびえたつ稲葉山(金華山)は、かつて「一石山(いっせきざん)」と呼ばれたように全山が一つの岩塊で成り立っている。

 山上に天守閣をはじめ多くの櫓や蔵と郭を構え、番兵を配した要害堅固な岐阜城であったが、籠城に備えた飲み水の確保は非常に困難であった。湧水は一滴もないため雨水と岩の間から僅かにしみでてくる水を溜める井戸を岩塊に掘削している。二の丸を挟んで西側に3ヶ所、東側に1ヵ所の井戸がある。

 この井戸は、二の丸の西に位置する軍用井戸で「金銘水」と名付けられている。山城では水の確保は最重要条件だった。

岐阜城の井戸
 この井戸は、天守(本丸)から約50m下がった、二の丸の東に位置する軍用井戸で「本丸井戸」と名付けられている。岩盤をくりぬいて掘られている。


岐阜城資料館
 岐阜城天守閣から東の一段下がった位置に20間(36m)×6間(10.8m)の郭があり、米や塩・味噌を蓄えておく蔵と弓矢を備えた倉が建っていたと考えられる。

 昭和50年(1975)4月、岐阜市民の浄財により瓦葺き・白壁造り・2階建の隅櫓形式に復元した資料館を建設した。天守閣とともに江戸時代以前の歴史資料を所蔵・展示している。

天守の石垣
 天守が復興された時、石垣は信長時代の石がそのまま使われ積みなおされた。


復興天守
 昭和31年7月に復興。鉄筋コンクリート造り、3層4階構造。城内は1階「武具の間」、2階「城主の間」、3階「信長公の間」となっており、最上階の「望楼の間」は展望台となっている。

▼天下一の眺望〜岐阜城天守から長良川を望む

 織田信長居館跡

岐阜シティ・タワー43F・展望室からの眺望
岐阜のシンボルである金華山と長良川を望む

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