このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

織田信長居館跡

市指定史跡岐阜城跡・千畳敷

 

 
永禄10年(1567)織田信長は、稲葉山城主・斉藤龍興を追放し、「井ノ口」から「岐阜」とその名を改め、金華山山頂に岐阜城を修築して天下統一への拠点とした。金華山の西麓にあたるこの辺りには人工的な二〜三段のテラス状地形があり、最上段を千畳敷、中段以下の大部分を千畳敷下という。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスがその著書の中で壮麗なものとして紹介した信長の居館の跡といわれている。
 


 昭和59年から行なわれた発掘調査で、両側に板状の巨石を立て並べ、千畳敷下から千畳敷へと折れ曲がりながら上がって行く通路をはじめとして、その途中や周囲に配置された土塁状遺構・石垣・階段・水路などが発見された。岐阜城は、信長が近江の安土へ移った後、慶長5年(1600)関ヶ原戦の前哨戦で落城するまで続くが、これらの遺構の多くは、その出土品などから信長時代にその基本的な造作が完成したと考えられる。巨石を用いる例は、江戸時代の大阪城大手門や搦手門などにうかがえるが、この時期には稀である。
 


 発掘調査では、これらの遺構の下にさらに古い時代の遺構群が存在することが確認されている。石垣・石積施設・階段状遺構などで、これを破壊、または埋めて作られた通路など上層遺構が信長によるものとすれば、稲葉山城に係わる斉藤氏時代の可能性が高い。また数枚の整地した土層が上下に重複していることが確認されているが、この中にはいくつかの焼土面が含まれており、施設の焼亡を挟んで複数の城主による造成が行なわれたことを示唆している。
 


 壮麗豪華な建築と伝えられる信長の居館そのものの建築遺構はまだ確認されていないが、中世から近世への過渡期の様相を探る上で極めて重要な遺跡である。
(文は現地説明板より転載。以下同じ)

織田信長公像
(JR岐阜駅北口駅前広場)
 岐阜市制施行120周年を記念して、平成21年(2009)に完成。

岐阜公園と岐阜城天守
岐阜公園
 金華山山頂(岐阜城)への登山道登り口やロープウェー乗場があり、信長の居館跡、冠木門、山内一豊と千代婚礼の地モニュメント、岐阜市歴史博物館など見所が多くある。
復興冠木門と若き日の織田信長像
 織田信長居館跡入口に建つ。奥へ進めば巨石を使った通路、石垣、土塁状の遺構、礎石などが、発掘調査で発見され復元されている。
金華山西麓・岐阜公園内の信長居館跡 「織田信長居館跡の石組」 

織田信長居館跡
復興冠木門から石段を上った所。左手には居館跡説明案内板が設置されている。


信長居館跡」発掘調査の現場
ロープウェーの直下では、現在(2010年5月)も発掘調査が続けられている。

織田信長居館跡
巨石の並ぶ通路・石垣などが整備され、岐阜公園の一部となっている。写真はロープウェーのゴンドラから撮影したもので、左上方向に復興冠木門が位置する。


▲信長居館跡案内図と▼巨石配列図

【各写真】発掘整備された虎口と巨石列
各写真は、上図「案内図」のローマ字符号の位置の写真です。

<信長公の「宮殿」へ続く通路>
 折れ曲がった道の両側には、巨大な石を使った石列が続いています。大きな板状の石を立て並べて、裏側に石(裏込め石)を詰めて造られており、石材にはチャートという金華山で採れる石が使われていた。
 巨石列は全国的にもあまり例がなく、岐阜城・信長居館の入口を象徴する構造物といえる。壮大な石の城造りを試みた信長の先進性をうかがうことができる。
信長公以前の居館
ー斉藤氏の時代ー


 柵の下に見えるのは巨石列通路の下層から見つかった石積みの穴と階段です。1567(永禄10)年の信長入城以前、ここには斉藤道三、義龍、龍興の居城がありました。みつかった階段等はその時代のものと考えられます。
周辺の土層断面
 斉藤時代の地面の上には炭層もみられ、信長が稲葉山城を攻略した際、火災が起こったことを物語っています。
 火災の後に盛土をして信長時代の地面にしている様子が分かります。
信長公以前の居館
ー斉藤氏の時代ー

 北側から大きく見た写真。
後方は、入角と出角・下層石積の遺構。
入角と出角・下層石積
 「説明板」左手の石垣はクランク状に折れ曲がり、入角(いりずみ)と出角(ですみ)を持つ。このように石垣を意識的に屈折させることは後に盛んになるが、本例はその初源的なものと思われる。現在は一段が残存しているに過ぎないが、出角の石が山側へ傾いて置かれていて、本来はこの上に勾配をもったかなり高い石垣があったことを想像させる。

 最下段の比較的大きな石が発掘調査で出土した石垣遺構で、他の小さな石は土砂の崩壊を防ぐために今回積んだものである。
入角と出角・下層石積
 別角度からの写真です。

下層石積
「入角と出角」石垣より一段低い位置にある右手の柵内の石積は、「入角と出角」時代より古い下層の石積である。織田信長入城以前のものと思われる。

下層石積
下層石積は、「入角と出角」石垣の築造時に埋められた。小さな石を使用して積み上げていて対照的である。高さ約2mあるが、そのうち上1mを展示してある。

発掘された水路と石垣
 上流の滝を経て流れる谷の水は、かつてこの水路を通っていました。
 「く」の字状に折れ曲がる水路南側(奥)にみえる本格的な石垣は、城郭石垣の初期の形を示しています。 
発掘された水路
 右側が発掘された水路。左は現在の水路。
 
岐阜城の井戸
 この辺り一帯は、戦国時代に斉藤道三や織田信長が、山頂の城とともに山麓に建設したとみられる居館区域に当たる場所で、この井戸は平成11年の発掘調査でみつかったものを復元したものです。

 発掘した際は、石積みの基礎に松の角材4本が、井桁に組み合わされて敷かれ、井戸底にサワラとヒノキで作られた桶が埋まっており、当時はこの桶に水が溜められていたことがうかがわれます。

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