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🔶岐阜城概要🔶
【所在地】岐阜市金華山
         
<交通>JR岐阜駅からバスで約15分。金華山ロープウエイで山頂駅まで約3分。山頂駅から天守まで徒歩約8分。
<情報>JR岐阜駅北口駅前広場に隣接する岐阜シティ・タワー43の43階(地上152m)には無料展望室があり、金華山と岐阜市街の雄大なパノラマが楽しめます。

【別 名】井ノ口城 稲葉山城
【地形種類】金華山(標高329m)頂上に築かれた山城
             
【築城年・築城者】鎌倉時代の建仁年間(1201~04)、二階堂行政が創築したと伝わる。その後、戦国時代の天文年間(1532~55)、斉藤道三によって、山頂に稲葉山城と城下町が整備され、さらに永禄年間(1558~70)、織田信長によって山上、山麓に本格的な城が築かれ、城下町を造って「岐阜城」と改める。
          
             (織田信長公時代の岐阜城図。城内説明板より)
【文化財指定区分】岐阜市指定史跡(本丸跡・ニノ丸跡・上格子門跡・ 馬場跡・信長居館跡など)
【遺 構】天守台 櫓台 門跡 井戸跡 石垣 曲輪跡
【再建造物】復興天守 土塀 門
◆岐阜城の歴史◆
(現地説明板より転載)
(一)二階堂行政~長井新左衛門尉
 十三世紀のはじめ(建仁のころ)、鎌倉幕府の政所令二階堂行政(ゆきまさ)が、ここに砦を構えたのが築城のはじめです。二階堂氏は鎌倉の二階堂に住み、氏を称えました。その一門は、関東から美濃・伊勢・薩摩などで豪族として栄えました。美濃の場合、関の新長谷寺(吉田観音)を建てたのも二階堂氏です。その後、行政の子孫はここに居城し、姓を稲葉氏と改め稲葉山城といわれるようになりました。

 戦国時代の動乱の中で、土岐・斉藤氏の一族が稲葉氏の砦遺構を利用して、ふたたび城を築き、城下町もできました。大永五年(一五二五)美濃国で内乱がおき、守護土岐氏と守護代斉藤氏の実権は、長井氏に移りました。稲葉山城も斉藤氏の一族が居城していましたが長井氏に追放され、長井新左衛門尉の居城となりました。新左衛門尉は斉藤道三の父親といわれ、大永から享禄年間(一五二一~三二)の資料に、名前がしばしばでてきます。
(二)斉藤氏三代(道三・義龍・龍興)

 斉藤道三(どうさん)が、灯油売り商人として、京都から美濃国へ下り、守護土岐頼芸の知遇を得て、美濃一国を征服したことは、NHKの大河ドラマ「国盗り物語」などで有名です。しかし、最近、発見された南近江の大名六角承禎書状から、道三の前半生は父の長井新左衛門尉のことであり、後半生が道三の事蹟ということがわかりました。道三は稲葉山城を要害化し、山の西麓に居館を建て、百曲道と七曲道に住人を集めて城下町をつくりました。 また、御園・岩倉・中川原に市場を設けて、商取り引きを盛んにしました。

 天文二十三年(一五五四)、道三は突然隠退して家督を子の新九朗利尚(義龍)に譲りましたが、やがて父子の対立が生じ、弘治二年(一五五六)の戦いで討死しました。義龍(よしたつ)は戦国大名として領国経営に力をそそぎましたが、道三死後、わずか六年で突然病死し、あとを幼い虎福丸(龍興)が継ぎました。

 しかし、斉藤氏の勢威は弱まり、織田信長の攻勢が盛んになる時に、永禄七年(一五六四)、家臣の竹中半兵衛重治らによって、稲葉山城が一時期占拠される事件がおきました。その後、竹中氏らは敗北し、稲葉山城は再び龍興(たつおき)の手に戻りましたが、この事件によって斉藤氏は一挙に衰退し、ついに永禄十年(一五六七)、稲葉山城は織田信長に攻略され、龍興は城を捨てて逃れました。
(三)織田氏三代(信長・信忠・秀信)
 永禄十年(永禄七年ともいう)、斉藤龍興を稲葉山城から追放した信長は、井之口を「岐阜」と改称し、「麟」の字の花押とともに「天下布武」の印判を使用しはじめ、岐阜の地を拠点として、天下統一をめざした城下町づくりに着手しました。

 稲葉山城も岐阜城と呼ばれ、城の整備を大々的に行い、斉藤氏の居館を壊して新しい館の建設を始めます。また城下町の繁栄を図るために、市場税の免除や座(中世商工民の組合)の特権を否定する「楽市楽座」を推し進めた結果、信長の岐阜入城二年後に同地を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、町の様子を「人口は八千ないし一万人、バビロンの混雑」のようだと、本国へ報告しています。

 天正三年(一五七五)、信長は岐阜城を長男の信忠(のぶただ)に譲り、翌四年に安土城を築いて、ここに移りました。天下統一へ大きな前進をしたのですが、天正十年(一五八二)、明智光秀の謀反による「本能寺の変」で、信忠とともに京都で討死しました。その後、文禄元年(一五九二)、豊臣秀吉は信長の孫秀信(ひでのぶ)を岐阜城主に封じました。しかし、慶長五年(一六〇〇)関ヶ原合戦で、秀信は家臣の反対を押しきって西軍に味方したため、東軍に攻められて八月二十三日落城、秀信は降伏し、高野山へ送られて同地で死去しました。

(上)天下布武の印(複製)

(右)楽市場の掟を定めた「楽市楽座制札」
 新興商工業者の自由な商業活動を保証する楽市楽座の政策は、戦国時代にはじまった。岐阜城に入った信長は、その直後に制札をかかげて、当国はむろん他国の者にも商業の自由を認めた。(小学館「名城をゆく」より)
◆岐阜城略年表◆
◆岐阜城の歴代城主◆

 永禄10年(1567)、稲葉山城に入城した織田信長は城名を岐阜と改称し、城に大改修を加え、今日の岐阜城の姿に造り変えた。そして、9年後の天正4年(1576)、居城を安土城に移す。

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