このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
■起 御着城をご存知でしょうか。では小寺氏は? 初耳、という方も黒田官兵衛ならわかるのではないでしょうか。 羽柴秀吉の補佐役として有名な、‘稀代の軍師’黒田官兵衛ですが、小寺氏は彼の最初の主君であり、御着城はその居城なのです。そして、青年期の官兵衛が近習として出仕したとされる場所でもあります。 彼は、御着城への出仕後まもなく元服して、初陣を飾ったと伝わっています。ですから、この城は彼にとって、武将としての人生とその才能を開花させた‘起動の地’と言えるのではないでしょうか。 ■結 下剋上の世の中にあり、天下を狙える器量を持つと言われながらも、御着城の落城まで小寺氏の家臣で在り続けた黒田官兵衛。主君の最後を知らされた彼の胸によぎったのは惜敗の思いか、あるいは 彼の本心は知る由もありませんが、御着城の終焉は黒田官兵衛という武将にとって次のステージへの起点であったことは間違いないのでしょう。 御着城は、官兵衛の人生に深く関わる城なのです。 | |
■御着城の時代背景 京都を焼き尽くした応仁・文明の乱によって室町幕府が衰退した結果、15世紀末から約100年間の間、多くの武将が天下を争う戦国時代が続きました。 やがて、16世紀半ばに尾張から台頭した織田信長は畿内を掌握し、永禄12年(1569)、播磨平定のため兵を送り込みます。 当時の播磨は、守護赤松氏の権勢が衰え、家臣であった別所氏、小寺氏などが独自に勢力を拡大していました。 彼らは中国地方の毛利氏を常に意識していましたが、織田軍の侵攻によって、「西の毛利か東の織田か」の生き残りをかけた選択を迫られたのです。 | |
■小寺氏の系譜 小寺氏の始祖については、現時点では詳しいことがわかっていません。ただ、鎌倉時代末(14世紀)ごろから赤松 御着城主の系譜として文献に登場する小寺氏の初代は、15世紀後半に活躍した 村職の後継者は、初代と同じ則職という名の人物です。2代目則職には、官兵衛の祖父である黒田 最後の御着城主であり、黒田 | |
■御着城の地理的環境 姫路市の中心街から東へ約5Kのところに位置する御着城は天川の東岸に形成された、低い河岸段丘上に立地しています。 江戸時代に入ってから作られた絵図では、約500m四方の規模をもち、本丸、二ノ丸など主郭部を中心に、外郭部には家中屋敷、寺院、町屋なども記されています。 御着は、建徳2年(1371)に成立したとされる「太平記」に街道沿いの宿として登場しますし、絵図にも城の中に街道が描かれています。 また、城の北には秀吉が元々あった道を整備したといわれる有馬街道があります。どちらも京都に通じる主要な道であり、御着城が街道の集まる交通の要所に造られた城だということがわかります。 ※姫路市埋蔵文化財センター [所在地]姫路市四郷町坂元 [アクセス] 姫路駅より神姫バスで約20分、坂元停留所下車、徒歩3分 | |
■絵図にみる御着城 【播州飾東郡府東御野庄御着茶臼山城地絵図】 御着城の姿を具体的に示した唯一の史料といえるのが、『播州飾東郡府東御野庄御着茶臼山城地絵図』です。現在の地形や発掘調査成果と絵図を対比することができ、城の縄張りや規模を考えるうえで貴重な資料です。 東と北は四重の濠をめぐらし、西と南は天川を外濠に利用して、茶臼山と言う約5mの丘上に本丸、二ノ丸を設け外敵に備えた。総曲輪内に、家中屋敷、町屋を包含して、川西に馬場、川南に的場を作り、家臣の武芸訓練に充てた。今往還(江戸時代の山陽道)には、城下町特有の戦略上鍵形に曲げた遺構がある。又城域内に数ヵ所の井戸があって、当時としては大掛かりな城砦兼居館の形の平城であった。 ただ、この絵図が作成されたのは宝暦5年(1755)、御着城が廃城になってから約175年も後のことです。この時期に至っても堀跡などは何らかの形で残っていたかと思われますが、絵図に示された「町屋」や「家中」が御着城が機能していた時代に存在したかどうかは、周辺の発掘調査の進展を待って判断する必要があります。 西=姫路駅方面 東=加古川方面 | |
■発掘調査の経緯 発掘調査は、御国野小学校の移転に伴い、昭和52年から55年にかけて実施されました。調査範囲は、現在御国野公民館とグランドになっているあたりで、城の本丸、二ノ丸跡とされています。 黒田官兵衛が仕えた小寺氏の御着城とはいかなる城だったのか?400年の時を越え、検証していきます。 発掘調査ではたくさんの生活遺物が出土しています。日常生活で使用された陶磁器のほか、茶の湯の文化を物語る道具などもあり、質・量ともに多彩です。これらの多くは商品として海路や陸路を通じて運ばれてきました。 産地別にみると、国産の陶器では備前焼や瀬戸・美濃焼が多く、逆に丹波焼や信楽焼などの製品は非常に少ない傾向がみられます。青花(染付)や白磁、青磁などは中国からの輸入品です。 また、備前焼は調理具や貯蔵具、輸入陶磁器は食器として主に使用されるなど、用途に応じて使い分けていたこともうかがえます。 | |
【上】食器 出土した食器の中心は、輸入陶磁器の碗と皿です。普段の食事にはこれらを使ったのでしょう。漆器の椀も一般的だったようです。青花と呼ばれる中国製の染付磁器の碗にご飯、皿にはおかずが盛られ、漆器の椀でお吸い物がよそわれたのかもしれません。当時は朝夕2回だった食事を、武将たちも心待ちにしていたのでしょうか。 【右】備前焼擂鉢 調理具の中で目立つのは、備前焼の | |
■将棋の駒 墨色も鮮やかな“龍王”の文字。敵陣にあって最強といわれるこの将棋の駒は、井戸の中からみつかりました。 | ■碁石 一対一で、黒と白の石を交互に指し合う陣取り合戦。戦国武将たちにも好まれたようです。あるいは実戦における戦略のシミュレーションとして役立ったのでしょうか。碁盤は現代のものです。 |
■硯と水注 当時の筆記具は墨と筆ですが、出土品の中には、墨を磨る 書状は黒田如水書状。筆は現代のものです。 | ■石組溝と石垣の検出状況 城内の石組溝は、排水用であるとともに各施設を区画する役割を果たしていました。なかには土塁の下を <左下段に続く> |
■一石五輪塔と割石 石組溝の各所には、 | ■井戸 井戸は本丸跡を含めて三基みつかっています。いずれも石を直径1mほどの円形に組んだ井戸です。深さは、6.5m以上になるものもありました。 |
■建物跡 城内の建物の多くは掘立柱建物ですが、城の最終段階にあたる16世紀後半ごろには、本格的な礎石建物が3棟築かれました。また、瓦が大量に出土することから、屋根に瓦を葺いた建物もあったと考えられます。 軒丸瓦、軒平瓦、平瓦 | ■現在の御着城跡 400年の時の流れに様変わりした御着周辺ですが、当時を思い起させる場所も残っています。 【アクセス】JR山陽本線御着駅〜徒歩約10分 【駐車場】姫路市東出張所の無料駐車場 続編「御着城跡」へどうぞ |
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