このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

続 御着城跡

御着城
 この城の名が知られるようになったのは、司馬遼太郎の播磨灘物語が世に出た時ではないだろうか。現在の姫路市の中心街から東へ約5キロのところに位置していた御着城は、永正16年(1519)に小寺政隆が築いた城で、中核部分が本丸と二ノ丸に分かれ、北と東は四重の堀を廻らせ、西と南は天川を外堀に利用した二重の堀で囲まれていた。

 当時は別所氏の三木城、三木氏の英賀城とともに、播磨の三大名城といわれていた。小寺氏は播磨の守護赤松氏の一族で、南北朝時代から室町時代にかけて、7代150余年間、姫路城を守っていた豪族であった。

 その後、御着城を築き、則職、政職の3代60余年にわたり、小寺家の居城となった。しかし、その後小寺氏が織田信長に反旗を翻し、毛利家に付いたため、天正8年(1580)秀吉に攻められ、三木城落城と相前後して落城したといわれている。現在、城郭を模した姫路市東出張所が建てられている。
<訪問日=2014年3月>
 
【遺構】本丸跡・二ノ丸跡・堀跡・土塁跡
(案内図は現地案内図に追記し掲載)


伝本丸跡
 広場は御着城跡公園、建物は城郭を模した姫路市東出張所と、右隣の平屋建ては御国野公民館。


此処も伝本丸跡
 御着城跡の中央を東西に国道2号線が走る。横断歩道橋の右手は小寺大明神、左手は姫路市東出張所が建つ御着城跡公園となる。

小寺大明神
 この地は、御着城の本丸跡に位置している。社には御着城の城主であった小寺一族と御着城に関係する人々をお祀りしている。

伝本丸跡と伝二ノ丸跡
 道路の手前が伝本丸跡、後方のグランドが伝二ノ丸跡となり、現地案内図からみると、道路部分は堀跡。


伝二ノ丸跡
 グランドが伝二ノ丸跡にあたり、堀と土塁が築かれていた。発掘調査も行われた場所である。

伝二ノ丸跡
 御着城跡グランドの左側部分は堀跡となる。


堀跡と土塁跡
 御着城跡グランドの北東部。この辺りの北側から東側にかけて、堀と土塁が築かれていた。


天川
 御着城の外堀に利用されていた。

【発掘調査でみつかった堀と土塁】 

中型堀の断面
 発掘調査では、規模や形の異なる3本の堀がみつかりました。このうち大型の堀は幅10.5m、深さ3.5m以上ありました。中型の堀は大型の堀に平行しており、幅4.0m、深さ1・8mで断面はV字形をしていました。これらは絵図に描かれた、本丸と二ノ丸の間の堀と考えられます。小型の堀は1.1m、深さ1.4mで、断面はやはりV字型です。また、小型の堀は中型の堀より前に掘られたこともわかりました。



土塁の断面
 二ノ丸跡の外側には土塁が築かれていました。土塁は粘土を幾重にも突き固めた版築という工法によるもので、数回にわたり改修して幅を拡げた痕跡もみられました。高さは約1.5m残っていました。

伝本丸跡付近
 御着城跡の一角ある黒田家廟所、御着城跡公園に建立された官兵衛顕彰碑。姫路市東出張所の裏手には天川石橋が移築復元されている。

黒田家廟所
 ここの墓所には、黒田孝高(よしたか。官兵衛のちの如水)の祖父・重隆(しげたか)と生母(明石氏)の2人がまつってあります。黒田家は御着城主小寺家の家老となり、重隆の時から姫路城を守って姫路城主となりました。姫路城主は子の職隆(もとたか)、孫の孝高とつぎましたが、天正8年(1580)秀吉の播磨平定の時、孝高は姫路城を秀吉に譲り、父職隆と自分は国府山城(妻鹿)に移りました。職隆の墓所は妻鹿にあります。のちに黒田家は筑前福岡の城主となったので、どちらの墓所も地元では「チクゼンサン」と呼んでいます。


黒田官兵衛顕彰碑
 赤松氏の一族で西播磨最大の領主だった小寺政隆が築き、本城とした。官兵衛は小寺政職にその才能を認められ、家督を継ぐまで御着城で政職の近習として仕えた。
 黒田官兵衛孝高は、羽柴秀吉の播磨侵攻、中国攻め、四国・九州遠征などで軍師として活躍し、天正15年(1587)に中津城(現・大分県中津市)を与えられました。孝高の嫡男長政は、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の戦功で筑前52万3千石を与えられ福岡城(現・福岡県福岡市)に移りました。


天川橋(移築復元)
 姫路藩が文政11年(1828)にこの地より南西200mの旧山陽道の天川に架橋した幅3.6m、長さ25mの総石造りの太鼓橋。
 昭和47年9月9日天川増水の為、惜しくも中央部より折損落下し、その後コンクリートの橋が新設された。又旧石橋は一般への供覧と永久保存の為、昭和52年10月に御着城跡にある姫路市東出張所北に移設保存した。
 地形中央部の低いところは御着城の堀跡。


   御着城跡附近図 

   


現在の天川橋
 ここに旧天川橋が架かっていた。

御着宿 本陣跡
 御着は、姫路ー加古川の「間(あい)の宿(しゅく)」。この辺りには、敷地約2、100坪、本屋の部屋数30室、そのうち畳敷きが26室で、畳数175畳、建坪130坪の平屋建ての本陣があった。


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