このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

▼五稜郭タワー展望台からの眺望〜五稜形をした五稜郭跡

■所在地
「函館市五稜郭町」

■別名
「亀田御役所土塁」
「柳野城」

特別史跡五稜郭跡
歴史
 ■五稜郭跡は、幕末の箱館開港に伴い設置された箱館奉行所の防御施設で、箱館奉行配下の諸術調所(しょじゅつしらべしょ)教授役で蘭学者の武田斐三郎成章(たけだあやさぶろうなりあき)により、中世ヨーロッパで発達した城塞都市を参考に設計された西洋式土塁です。

 ■稜堡(りょうほ)とよばれる5つの突角が星形の五角形状に土塁がめぐっていることから五稜郭と呼ばれ、郭内には日本伝統建築の箱館奉行所庁舎とその付属建物20数棟が建てられました。

 ■安政4年に築造を開始して7年後の元治元年に竣工、同年6月に奉行所が移転して蝦夷地における政治的中心地となりました。その後、明治維新により明治新政府の役所となりましたが、明治元年10月に榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が占拠、翌明治2年5月に終結する箱館戦争の舞台となりました。

 ■箱館戦争後は、明治4年に開拓使により郭内建物のほとんどが解体され、大正時代以降は公園として開放されています。

 ■五稜郭跡は、築造時の形態がよく残っていて日本城郭史上重要であるとともに、幕末期の洋学採用の一端を示すものとして学術上きわめて価値が高いことから、北海道で唯一の国の特別史跡に指定されています。昭和27年3月29日指定。
(郭内説明板より)
※追記<箱館「明治9年(1876)、表記を函館とする旨、正式通達される」>

五稜郭の構造
【五稜郭内にあった建物】
 文献資料や発掘調査などから、五稜郭内には、箱館奉行所庁舎を中心として、20数棟の付属建物などがあったことがわかった。


土蔵(どぞう)兵糧庫(ひょうろうこ)

 ■五稜郭築造時の建物で、唯一現存する建物。

 ■箱館戦争の記憶から、いつしか「兵糧庫」と呼ばれるようになったようである。大正時代には「懐旧館」という箱館戦争の展示資料館として利用されていた。

 ■文献資料や発掘調査成果から庇屋(ひさしや)があったことが確認されたことから、平成13・14年度の修理工事の際に、現在の姿に復元した。

 ■土蔵の右側には、文書や物品などを保管していた建物である板庫(いたくら)・土蔵(どぞう)が並ぶ。板庫跡は休憩所、土蔵跡は管理事務所として外観を復元的に整備している。

 ■写真左の塔は「五稜郭タワー」。



五稜郭タワーから望む復元された箱館奉行所

 ■箱館奉行所の復元工事は平成18年に着工し、4年後の平成22年に完成した。

 ■復元範囲は奉行所庁舎全体のおよそ1/3にあたる約1,000㎡で、全国から結集した宮大工などの職人による日本伝統建築の匠の技により、当時の姿が再現された。

【五稜郭の形】

 五稜郭タワー展望2階に展示の五稜郭復元模型(1/250)

■西洋にならった稜堡式城郭
 五稜郭は、中世ヨーロッパで発達した城塞都市をモデルに設計されたもので、その形状は西洋文化をいち早く取り入れた先進都市箱館を象徴しています。
■防衛のシンボル
 蝦夷地の政治的中心施設である箱館奉行所を防御する外堀としての五稜郭は、諸外国に幕府の威信を示す目的もありました。
■五稜郭主要データ
 「史跡指定範囲の面積」 約251,000㎡(東京ドームの約5倍)
 「周囲」 堀の周囲 約1,8km 史跡指定地の周囲 約3km
 「堀の幅」 最大幅 約30m 堀の深さ 約4〜5m
 「土塁」 土塁の高さ 5〜7m 土塁の厚さ 約27〜30m
 「直径」 約500m(東西 約500m×南北 約500m)

【各部の特徴】

①稜堡②見隠塁③石垣④半月堡⑤空堀⑥小土塁⑦低塁(低土塁)⑧本塁⑨一の橋⑩ニの橋⑪表門⑫門番所跡⑬裏門橋⑭箱館奉行所⑮土蔵⑯外国製の大砲展示⑰五稜郭の碑

稜堡(りょうほ)
 西洋式土塁の特徴である稜堡(城本体からの突出部)とよばれる突角は、左右対称の星形五角形に配置されている。稜堡は土塁で築かれ、一部に石垣が積まれている。

見隠塁(みかくしるい)

 本塁間の通路部分の内側に、中を見通すことができないように見隠塁が築かれている。見隠塁は内側以外の3方が石垣となっている

裏門側の見隠塁(写真中央)


表門側の見隠塁と復元された箱館奉行所


③石垣
 表門を固める本塁石垣。郭内への出入口となる3か所の本塁は、一部が石垣造りとなっている。

 特に正面の出入口となる南西側の本塁石垣は、他の場所の石垣よりも高く築かれていて、上部には「刎(は)ね出し」とよばれる防御のための迫り出しがある。石垣の最上部を庇(ひさし)のように刎ね出して敵兵を刎ね返す仕掛け。

 石垣には函館山麓の立待岬から切り出した安山岩や五稜郭北方の山の石が使われている。
 
本塁石垣の構造(現地説明板より転載)
 五稜郭の土塁は、堀割からの揚げ土を積んだもので、土を層状に突き固める版築(はんちく)という工法で造られている。 
 

表門の本塁石垣
 表門から郭内にむかって右側の石垣。手前は空堀。


表門の本塁石垣
 表門から郭内にむかって左側の石垣。

半月堡(はんげつほ)
 
半月堡は、西洋式土塁に特徴的な三角形状の出塁で、馬出塁(うまだしるい)ともいいます。郭内への出入口を防御するために設置されています。

 当初の設計では各稜堡間の5か所に配置する予定でしたが、工事規模の縮小などから、実際には正面の1か所だけに造られました。

 北側中央部の土坂が開口部となっているほかは、刎ね出しのある石垣で囲まれています。
(郭内説明板より)
()ね出し石垣」
 半月堡の石垣も、上部に「刎ね出し」のある石垣で築かれている。

※刎ね出し
武者返し(むしゃがえし)・忍び返し(しのびがえし)ともよばれ、上から2段目の石が迫り出して積まれているため、外部からの侵入を防ぐ構造になっている。












 
郭内から見た半月堡
 表門近くの本塁上から見た半月堡で、北側中央部の土坂が開口部となっているのがよくわかる。 

半月堡開口部と二の橋
 二の橋を渡ったところが表門。
    
 半月堡は、5か所全部造るつもりが、予算不足などで大手口1か所にだけ築かれた。

▼⑤空堀

裏門そばの空堀跡
 五稜郭には入口が3か所築かれていた。入口の内側は低土塁と空堀が虎口を守っていた。

▼⑥小土塁

小土塁右側の建物は、手前より外観復元の土蔵(管理事務所)、板庫(休憩所)と、現存建物の土蔵(兵糧庫)で、2間ずつ離れて、3棟並んで建てられていた。

▼⑦低塁(低土塁)

二の橋から見る本堀と低塁
 丸く刈った樹木が植えてある土塁が低塁。

▼⑦低塁

低塁と二の橋(右端)
 低塁の後が本塁。

▼⑧本塁

本塁の内側
▼⑧本塁

低塁と本塁
 刈り込み植木の部分が低塁、そのうしろの石垣が本塁。

▼⑨一の橋

五稜郭タワー側からの最初の入口となる橋
 一の橋を渡ったところの右が半月堡で、その前は二の橋。

▼⑩ニの橋

半月堡と表門を結ぶ橋
▼⑪表門

二の橋を渡ったところの表門跡
▼⑫門番所

郭内から見る表門方向
 右側の人が屈んでいる白い平坦な所が門番所跡。郭内への出入口となる3か所の本塁には門が設置され、その内側には門番所があったことが古文書に記されている。

▼⑬裏門

裏門と裏門橋

▼⑭箱館奉行所

復元された箱館奉行所

▼⑮土蔵⑯外国製の大砲

土蔵(兵糧庫)前に展示の大砲
 
左が英国製のブラッケリー砲で、旧幕府脱走軍が築島台場に設置したといわれ、函館市豊川町で発見された。右は、ドイツ製のクルップ砲で、新政府軍軍艦「朝陽」に設置されていた。

▼⑰五稜郭の碑

一の橋わきに立つ五稜郭跡の碑
 
堀は半月堡の二辺を巡る枝堀。

五稜郭タワーから、表門〜箱館奉行所周辺を眺める

【箱館奉行所】

 ■箱館奉行所は、幕末の箱館開港により設置された江戸幕府の役所です。安政元年(1854)の日米和親条約により、箱館と下田が開港され、箱館山麓(現在の元町公園)に奉行所が置かれました。しかし、港湾から近く防備上不利であったことなどから、内陸の亀田の地に奉行所を移すことになりました。奉行所を守る外堀には、箱館奉行所諸術調所教授役で蘭学者の武田斐三郎が、ヨーロッパの城塞都市を参考とした西洋式の土塁を考案し、星形五角形の形状から五稜郭と呼ばれるようになりました。

 ■安政4年(1857)から五稜郭の築造が始まり、7年後の元治元年(1864)に役所建物などがほぼ完成したことから箱館山麓の奉行所が移転して五稜郭の中で業務が開始され、蝦夷地の統治や開拓、開港地箱館での諸外国との交渉など幕府の北方政策の拠点となりました。
 その後、大政奉還による江戸幕府の崩壊により明治新政府の役所に引継がれましたが、明治維新の戊辰戦争最期の戦いとなる箱館戦争の舞台となりました。箱館戦争後は、明治4年(1871)に開拓使により奉行所庁舎を含むほとんどの建物が解体され、大正時代以降は公園として一般に開放されました。

 ■函館市では、郭内の建物が失われて五稜郭の本来の姿が理解されにくい状況が続いていたことから、箱館奉行所の復元を主とした五稜郭の史跡整備を計画しました。昭和60年(1985)から発掘調査を始め、古写真や文献資料・古図面などの調査を基に奉行所復元の検討を重ね、平成18年(2006)から工事が開始されました。このようにして、史実に忠実な復元が進み、平成22年(2010)に140年の時を越えて箱館奉行所が再現されました。
(箱館奉行所発行リーフレットより)


箱館奉行所館内
 文献資料を基に当時の姿をできる限り忠実に復元した、日本伝統建築のたたずまい。
※開館時間 4月〜10月(午前9時〜午後6時)
        11月〜3月(午前9時〜午後5時)
※休館日  12月31日〜1月3日
※入館料  一般 個人500円


箱館奉行所館内
 館内は、再現ゾーン(幕末の箱館奉行所を忠実に再現)、歴史発見ゾーン(五稜郭と箱館奉行所の歴史を解説)、映像シアター(復元工事の映像記録を放映)、建築復元ゾーン(箱館奉行所復元工事の紹介)の区画に分かれており、幕末ロマンを体感できます。


中庭から見上げる太鼓櫓


館奉行所北側遺構平面表示(部屋割り区画)
五稜郭の歴史・略年表

(五稜郭タワー発行リーフレットを参考に作成)

五稜郭タワー1階の土方歳三之像
 ■天保6年(1835)、武州多摩の豪農の家に生まれた土方歳三は、文久3年(1863)幕府が募集した浪士隊に近藤勇らと参加し、尊皇攘夷の嵐が吹き荒れる京都で新撰組を結成、「池田屋事件」などの討幕派浪士に対する徹底した取締りと同時に、「鬼の副長」として新撰組隊士を厳しく統率し恐れられた。

 ■鳥羽伏見の戦いや甲州勝沼の戦いでの敗北、さらに新撰組局長であり盟友である近藤勇が処刑された後も、宇都宮、会津と戦い続け、榎本武揚率いる旧幕府艦隊に仙台で合流し蝦夷地に渡った。ここ五稜郭を本拠地とした旧幕府軍による暫定政権、いわゆる「蝦夷地共和国」では、陸軍奉行並・箱館市中取締の要職を務めた。

 ■箱館での土方は、「人に慕われることは、あたかも赤ん坊が母親を慕うかのようだ」と伝えられるほど温厚で、明治2年(1869)春からの新政府軍による攻撃に際しては、自ら最前線で兵を励まし奮戦し、押し寄せる敵を撃退した。

 ■しかし明治2年5月11日、新政府軍の総攻撃により孤立した友軍を援護するために出撃したが、一本木関門で銃撃を受け35年の生涯を閉じた。
(五稜郭タワー内説明板より)


函館市街から見る五稜郭タワー

左より、五稜郭タワー、半月堡、本堀に架かる二の橋。二の橋後方は一の橋

五稜郭内に設置の顕彰碑
 ■五稜郭誕生のきっかけは、嘉永6年(1853)のアメリカ艦隊の来航、いわゆる「黒船来航」という大事件にあります。開国要求に屈した徳川幕府は、安政元年(1854)日米和親条約を締結し、箱館を開港場としました。

 この箱館を治めるために幕府が設置した「箱館奉行」は、産業の育成や開拓を進めると同時に箱館の防備強化を図り、蘭学者の武田斐三郎に奉行所庁舎の移転に伴う新しい要塞の設計を命じました。

 西欧の学問や技術を研究する「箱館諸術調所」の教授を務める優れた教育者でもあった武田斐三郎は、ヨーロッパの「城塞都市」をモデルとする要塞を考案し、工事に約7年の歳月を費やした五稜郭は、蝦夷地の政治や外交、防衛の拠点、まさに蝦夷地の要として誕生した。



アクセス
函館バス「五稜郭公園入口」下車、徒歩7分
市電「五稜郭公園前」下車、徒歩15分

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