このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

  <続・箕輪城を巡る>

二の丸〜郭馬出〜木俣
     
    二の丸、郭馬出、木俣周辺図(現地説明板より)



大堀切と土橋
 二の丸から見た「土橋」と、土橋を渡った所に造られた見事な「郭馬出」。出撃の気勢を見せている。
 土橋左右の大堀切によって城は南北に二つに区切られ土橋一つで連結されている。このように一方を失っても片方だけで戦闘を続けられる仕組みのものを「一城別郭(いちじょうべつかく)の城」という。
 
郭馬出


 
大堀切と郭馬出(右上の平坦地)
 以上、3点の写真は以前訪問した時に撮影したものです。
▼ここからは、2016年3月に訪問した時の写真です
城を南北二つに区切る土橋東側の大堀切
 上記掲載周辺図①の場所。左の崖上は二の丸となり、建物は城門復元工事関係の事務所。


 
土橋西側の大堀切
 上記掲載周辺図②の場所。この大堀切は東西に走り城を北と南の二つに分けている。こういう大規模な堀を、鍬と「もっこ」で築いた人々の労苦がしのばれる。右側が二の丸・三の丸側。

郭馬出南側の空堀
 上記掲載周辺図④の場所。空堀の左が郭馬出、空堀の右手の曲輪は木俣。通路が二俣、三俣のように五つの方向にわかれるのを木俣という。木俣の発掘調査で掘立柱建物の一部が確認された。


 
大堀切の底から見た土橋
 上記掲載周辺図③の場所。大堀切の底から見た土橋。左が二の丸。右が郭馬出。

二の丸から見た土橋と郭馬出
 2016年3月訪問時、このエリアは、郭馬出に城門復元工事中(シートに覆われた建物)につき、関係者以外立入禁止となっていました。

            
            史跡整備事業の案内板

復元する城門のイラスト
(現地説明板より)



 鍛冶曲輪〜蔵屋敷〜三の丸〜虎韜門

鍛冶曲輪の石垣
 鍛冶場のあった所で中世の大きな城にはよく見られ、ここで武具などを作製、修理した。
 
本丸堀の橋台
 本丸(右の崖上)から蔵屋敷(手前左)に出る橋の脚を立てた台で堀はここで狭くなっている。



三の丸門跡と石垣
 城中の石垣で、比較的よく残っているのはここである。三の丸は二の丸の外にある郭である。入口の三の丸門には両側の石垣の上を渡した櫓があり、その下が通路であった。
 
三の丸の石垣
 追手門から本丸へ至る大手ルートを固めている井伊時代に使われていた石垣です。発掘調査で基部が1m埋まっていることが確認され、当時の高さは4.1mにも及んだことが明らかになった。城内では最も高く、河原石を用いた野面積みで、一人では運べない大きめの石を用いています。



大手虎韜門(ことうもん)
 虎韜とは中国の昔の兵書「六韜三略」の虎韜(虎の巻)である。この門をこう名づけたのは井伊直政であろう。ここは大堀切の西下を守る要点である。
 
白川口埋門
 虎韜門から白川河原に出る秘密の通路で、西部城外への道はここ唯一つである。虎口(出入口)の両側に石垣を積み、上に木や石を渡して土手をその上に盛り、トンネル式に作った門を埋門(うずみもん)という。埋門跡の残っているのは県下にこれ一ヵ所である。


 

新曲輪・丸馬出

新曲輪
 御前曲輪北側にある、城東北部の平城部分。西側に丸馬出が築かれている。
 
丸馬出
 城の東北部はゆるやかな斜面なので、水堀を二重にめぐらして備えを固めているが、この方面の敵に対して出撃するためこの馬出が設けられた。


前ページに戻る

地域別訪問城に戻る

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください