このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 箕輪城
み の わ じょう
【所在地】
 群馬県高崎市箕郷町西明屋ほか
【地 形】
 山城→平山城
【築城年代】
 1500年+−20年程度か
【築城者】
 長野業尚(なりひさ)で、その後、憲業(のりなり)、業政(なりまさ)、業盛(なりもり)の計4代にわたって、長野氏が箕輪城を拠点にしていたと考えられている。永禄9(1566)年、落城後は、武田・織田・北条・徳川氏の城として使われた。
【史跡区分】
 国指定史跡(昭和62年12月17日指定)
【遺構】
 大規模な堀、石垣、土塁。建物は全く残っていない
【復元・整備】
 堀や虎口などの環境整備・遺構整備を平成23年度から着手。平成27年度は郭馬出の整備、工事の2年目として郭馬出西虎口の城門復元工事等を平成28年3月末まで実施。

※訪問日〜平成28(2016)年3月

【歴 史】
 箕輪城は、明応、永正年間(1492〜1521)に長野業尚(尚業)が築城し、子憲業、孫業政により強化された。長野氏は、武田信玄、北条氏康、上杉謙信の三雄が上野国を舞台にして互いに勢力を争った戦国の世に、あくまでも関東管領山内上杉家の再興を計って最後まで奮戦した武将である。

 特に、長野信濃守業政は、弘治年間(1555〜8)から数回に及ぶ信玄の激しい攻撃を受けながら少しも譲らず戦いぬいたすぐれた戦術と領民のために尽くした善政により、名城主として長く語り継がれている。

 業政の死後、子業盛(氏業)は父の意志を守り将兵一体となってよく戦ったが頼む諸城は次々と武田の手に落ち、永禄9(1566)年9月29日、さしもの名城箕輪城も武田勢の総攻撃により、ついに落城するに至った。城主業盛は、『春風にうめも桜も散りはてて 名のみぞ残る箕輪の山里』という辞世を残し一族主従自刃し、城を枕に悲壮な最期を遂げた。長野氏の在城は60余年である。

 武田氏の時代は天正10(1582)年、その滅亡によって終わり、織田信長の時代には滝川一益が一時在城したが、信長の死後は北条氏邦が城主となり、城を大改修した。

 天正18(1590)年、北条氏滅亡後徳川家康は重臣井伊直政を12万石でここに封じて関東西北のつめとし、城下町も整備した。その後、慶長3(1598)年直政が城を高崎に移し、箕輪城は約1世紀にわたる歴史を閉じた。
(現地説明板より)


 【縄 張】
 箕輪城跡の標高は270m、面積は47haに及ぶ丘城(一部平城)である。西は榛名白川の断崖に臨み、南は椿名沼、東と北とは水堀を回らせて守りを固めている。

 城は深さ10数mに及ぶ大堀切で南北は二分され、さらに西北から東南の中心線に沿って深く広い空堀に隔てられた多くの郭が配置されている。 

 箕輪城の最大の特徴は、大規模な堀。本丸周辺では最大幅30m、深さ10mの空堀が巡り、他にも、城の中央部を南北に分断する役割がある大堀切など同時代の城としては全国的な規模の堀が城内各所に残っている。なお、大部分の堀は空堀と考えられる。

 箕輪城は長野氏以降、城主が度々変わっていおり、発掘調査などでは、城主の交代による城の造りかえの状況が明らかになってきた。

 現在ある堀や石垣などは最後の井伊氏時代に使われていたもので、長野氏時代の城とはかなり異なっている。
(城跡案内図と文は現地説明板、現地発行リーフレットより)
 
箕輪城の搦手口(東側)から主郭の二の丸・本丸を望む
 左側の東屋のある郭は二の丸、右側の樹木部分は、本丸・御前曲輪となる。



搦手口から望む二の丸

本丸東面の急崖と堀
 搦手口から二の丸に向かう途中からの眺め。通路部分は、空堀跡。さらに東側(右)には水堀が築かれていた。通路を行った先が左下写真。



本丸、御前曲輪(東面)と稲荷曲輪の間の空堀
 奥に向かうと搦手口、右側曲輪の奥が本丸、手前が御前曲輪。左は稲荷曲輪。

本丸南側空堀の底から見た堀と土橋
 土橋(中央奥)の左は本丸、右は二の丸となる。本丸は四方を空堀に囲まれていた厳重な曲輪であった。



大堀切
 二の丸と郭馬出を結ぶ土橋より見た西側の大堀切。


 
(現地説明板より)
 <箕輪城を巡る>

搦手口〜二の丸〜本丸〜御前曲輪
 
(現地説明板より)


搦手口
 搦手口は、城の大手口(追手)に対し、裏口に当たる。ここにも「馬出し」があった。長野氏時代から北条氏時代までは、当時の情勢から考え、ここが大手口であって、城の南方に城下町が構成された井伊氏時代に大手口が南面に設けられてから、ここが搦手口となったといわれている。



二の丸
 ここは出撃の拠点だったといわれている。東は搦手口へ、西は白川口・大手口へ、北は蔵屋敷・通仲(とおりなか)曲輪・霊置山(たまきやま)へ、南は大堀切から木俣(きまた)・椿名口(つばきなぐち)へつながっていた。
 中央奥のシートを掛けた建物は、郭馬出に復元中の城門。

二の丸と本丸を結ぶ土橋
 二の丸側から見た土橋左右の空堀と、右手に本丸門馬出し、後方が本丸跡。土橋左側の空堀が右写真。

本丸南側の空堀
 左側が二の丸、右側が本丸、後方は三の丸・蔵屋敷となる。



本丸門馬出
 東から南に鍵形の土居のあった馬出しで、土居の北側から搦手へ、南側からは二の丸へ出撃する。本丸の南側の突き出ている部分は、この馬出しの内外を側面から守るようにできている。



本丸跡
 本丸は御前曲輪とともに城の中心部であり、南北約百メートル、東西約七十メートル、東側(右側)には高い土手を築いて、城内が敵に見えないようにしてある。この土手が御前曲輪(写真奥)の東側まで続いていることにより、御前曲輪も本丸の一部であったと考えることができる。

本丸北東部を囲む土手(土塁)

本丸(左)と御前曲輪(右)の間の空堀
 東部(手前)が浅く西部(奥)が深く、西の空堀に降りる通路となっていた。空堀底は初期にはすべて交通濠であったが、後に掘り下げられてそのはたらきを失ったと思われる。



御前曲輪

 御前曲輪は本丸の詰めにあり、城の精神的な中心であった。天守閣はなかった。落城の際、長野業盛以下自刃した持仏堂があったと伝えられている。井戸は昭和2年に発見されたものである。深さは20mで、底から長野氏累代の墓石が多数掘り出された。


御前曲輪北堀
 ここでは堀は五つに分かれていた。稲荷曲輪、玉木山、通仲曲輪(みちなかくるわ)の三つの郭が、それぞれくちばし状にここに集まっている。三つの郭の間を進むと、新曲輪、丸馬出しに行くことができる。



御前曲輪西側の空堀
 左の石垣は、御前曲輪西石垣。

御前曲輪 西石垣
 通仲曲輪・御前曲輪との間の堀に架けられた橋の橋脚部の土留めのために、自然石をそのまま積み上げた野面(のづら)積みの石垣。


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