このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 ■八王子城の概略■
【所在地】
●東京都八王子市元八王子3丁目・下恩方町・西寺方町

交通/JR・京王線「高尾」駅北口からバス約10分「霊園前」下車。
八王子城跡管理棟まで徒歩約20分。

●JR高尾駅

●八王子城跡への道
バス停「霊園前」から少し先のこの真中の道を奥へと行く。後方の山が八王子城跡。

●八王子城跡駐車場
後方の山々が八王子城跡。左側の道路奥が入口広場および管理棟。

●入口広場と管理棟
説明板、パンフレット有り。管理棟にボランティアの方が常駐。訪問日〜平成22年3月
【地形種類】
●山城
 八王子城は、関東山地の東端部に立地し、北浅川と城山川に挟まれ、独立峰的地形をなす深沢山が、城の主要部分。

 主郭は、標高460mの山頂部。
(イメージ図は現地説明板に一部加筆の上、掲載)
【八王子城の築城と落城】
●八王子城は、北条氏照によって築城された山城です。氏照は当初、多摩川と秋川の合流地点にある滝山城(八王子市・国史跡)を居城としていました。その支配地は八王子はもとより、北は五日市・青梅・飯能・所沢の一帯、南は相模原・大和から横浜の一部にまで及んでいました。
                  
 氏照が居城を滝山城から八王子城に移した動機は、永禄12年(1569)武田信玄が滝山城を攻撃し、落城寸前にまで攻められたことから、強固で広大な八王子城の築城を思い立たせたといわれています。

 築城の時期は明確ではありませんが、元亀から天正初め(1570年代)に築城が開始され、天正年間の中頃に氏照が八王子城に移ったと考えられています。天正16年(1588年)には、豊臣秀吉の来攻に備え、兵糧の確保や兵士とその妻子の入城を命じ、守備固めの準備を急いでいます。

 天正18年6月23日、小田原在城の城主氏照を欠いたまま、豊臣秀吉の小田原攻めの一隊前田利家・上杉景勝などの軍勢の猛攻を受け、一日で落城しました。八王子城の落城は、小田原城の開城をうながし、豊臣秀吉が天下を統一する上に、大きな影響を与えました。

※地名の由来〜北条氏照が、新しく築いた城の守護神として八王子権現をまつり、この城を八王子城と呼んだのが、八王子という地名の由来であるといわれています。(現地説明板より)
●北条氏照は戦国時代の武将で、小田原に本拠を置く北条氏三代当主氏康の次男として生まれました。初め大石源三、その後北条陸奥守とも名乗っています。永禄の初め(1559年頃)、大石氏の後を継いで滝山城主となり、周辺に支配を拡大しました。その後栗橋城(茨城県五霞村)を勢力下におさめ、この城を拠点として北関東一帯の領土拡大にも活躍しました。天正18年(1590年)7月、小田原城の開城後、氏照は兄氏政とともに、その生涯を終えました。
●北条氏照および家臣墓案内図標識のある道路沿いから墓まで徒歩約10分。

(案内図は現地説明板より)

●標識のたつ道路沿いから山へ向って歩くと、墓へ上がる階段下へとたどり着く

●北条氏照および家臣墓
【八王子城の縄張】
●八王子城の構造
 八王子城は、深沢山(城山)山頂に本丸を置き、周辺に延びる尾根や細かく入り組んだ谷、麓の平地など、自然の地形を利用して築かれた戦国時代の城郭です。

 城の構造は、山頂や尾根は平らに削りとって大小の曲輪を何段にも並べ、建物を作りました。谷間には盛土して平地とし、館を構え、麓には屋敷割をして城下町をつくりました。山中を流れる城山川は堀として利用し、橋を架けることによって、防御の大きな役割を担っていたと思われます。

 八王子城跡は、約154haにもおよぶ広大な範囲が史跡の指定を受けています。が、その周辺にも当時の遺構が残っています。想像以上に大規模な縄張であったことがうかがえます。

 八王子城は、その地形的な特徴や、防御の方法を考えると、いくつかの地区に分けられます。本丸など主郭を中心とした山頂付近とそれに続く尾根に造られた要害地区、御主殿跡など館跡と見られる居館地区、城下町となる根小屋地区に分けられます。その範囲は少なくとも、東西約2km、南北約1kmにおよんでいます。現在でも、建物などを建てた曲輪の跡、石垣や堀切、土塁や通路の跡など、当時の遺構がよく残っています。八王子城跡は、全国的にみても、これら戦国時代の遺構をよく残す代表的な山城跡といえるでしょう。(縄張図と文は現地説明板より)

●要害地区
 要害地区は、急な斜面で守られた城山山頂から尾根の上に造られています。山頂付近には本丸・松木・小宮曲輪があり、西側には詰の城と呼ばれる曲輪が残っています。合戦の時に籠城して戦うところで、兵糧を入れる倉庫などが建てられていたと思われます。今でも2ケ所に当時の井戸が残されています。
●居館地区
 城山川沿いの山腹に御主殿と呼ばれる大きな館跡と、その東側にアシダ曲輪と呼ばれる曲輪が残っています。御主殿跡は城主・北条氏照の居館跡とされ、アシダ曲輪は有力な家臣の屋敷跡と考えられています。御主殿跡の調査では、大きな建物の跡や石を敷いた通路、溝などが発見されており、庭園もあったようです。
●根小屋地区など
 城山川に沿った、中宿付近が根小屋地区と呼ばれ、城への大手口として城下町の一部を形成していたと思われます。また、城山川の南側には細い尾根に連続して曲輪と堀切が並び、太鼓曲輪と呼ばれています。その他、小田野の曲輪群や、恩方方面の搦手口にも多くの遺構があり、城全体の守りを固めていたと思われます。

(案内図と文は現地説明板より)
【調査と整備】
 ●八王子城跡の調査は、昭和52年(1977年)以来継続的に行なわれ、現在に至っています。発掘調査などの結果からは、大規模な普請(造成工事)が行なわれていること、石垣など当時としては最新の技術で造られていることなどがわかってきました。

 また、御主殿は15m以上も盛土して館を構えていることが確認されました。内部に建物の跡や石敷きの通路なども発見されている。

 現在八王子市教育委員会では、これらの調査結果をもとに、史跡の保存と活用を目的に、当時の八王子城の再現を目指して整備を行なっています。今後とも広く市民に公開し、八王子の大切な歴史遺産として、保存と活用を図っていく考えです。(写真と文は現地説明板より)
【古道・曳橋・御主殿】
●整備にあたって
 
八王子城は、天正18年(1590年)に落城後、城として再生されることなく、現在に至るまで約400年間放置された状態にありました。

 しかし、昭和26年、歴史上価値が高いものとして国の史跡に指定され、将来に伝える文化遺産として保存されることになりました。昭和52年度以来、継続的に発掘調査が実施され、地下から数多くの遺構や遺物が発見され、当時の城の構造や生活の様子が明らかになっています。

 近年、市民の歴史への関心は大変高く、八王子城跡の整備公開が強く望まれていました。そこで、これらの調査結果をもとに、多くの専門家の協力によって、当時の城の姿を少しでも再現するような整備計画ができあがりました。
●調査結果と整備
 
城主北条氏照の居館と考えられる御主殿一帯と、古道と呼ばれる城山川右岸に残る道路跡の調査では、たいへん貴重な結果が得られました。

 道路跡からは、門跡や城山川に架かる橋の橋台石垣が、御主殿跡からは虎口(出入口)の石垣と石敷通路や階段が検出されました。また、当初予想もしなかった御主殿を囲む大規模な石垣も、新たに発見されました。今回の整備工事では、これらの特徴的な調査結果をもとに、古道から御主殿までの当時の通路形態を可能な限り再現しょうとしたものです。城山川右岸に続く道路を通り、曳橋と呼ばれる木橋で川を渡り、御主殿虎口の石敷階段を上り、門に至るまでの道順を整備したものです。

●整備工事
 
今回の整備工事は、御主殿跡の虎口と、そこに至る大手道を整備範囲としたものです。発見された石垣は、長い間にゆがんだり欠落していますので、記録をとった後、当時の工法で積み直し、さらに失われてしまった石材は補充して復原しています。

 橋や門、柵、塀は、はっきりした痕跡が発見されないため、想定して造っています。城跡の景観に合うよう、木造にしてあります。これらの材料には、青森産のヒバを用いています。このような整備工事の目的は、当時の通路形態を再現することにより、八王子城の特徴的な城の守り方を理解してもらおうとするものです。

(写真、文は現地説明板より)
●復原整備された曳橋(ひきばし)御主殿虎口(ごしゅでんこぐち)
八王子城を廻る

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