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天守(国宝)
城跡(国史跡)
【所在地】 滋賀県彦根市
【沿革】
琵琶湖の東岸に接した彦根山(海抜136m)に築かれた平山城。山麓に居館を置き、山上に曲輪を配置するという縄張から、山城に分類する見方もある。
1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いに武功のあった井伊直政が、石田三成の旧城であった佐和山城に入城。直政の没後、世子の直継が佐和山西方の彦根山に築城したのが、現在の彦根城である。彦根城は西国諸大名の抑えとしての重要拠点であるため、築城にあたっては徳川家康が近隣大名に助力を命じ、琵琶湖周辺の旧城の石垣や建物が集められ築城が進められた。その後、大坂の陣により工事が中断したが、城郭および城下町の整備をつづけ、完成までに約20年を要した。築城開始1603年〜完成1622年。
別名は金亀(こんき)城。一度の領主替えもなく井伊氏十四代が在城(安政の大獄で有名な井伊直弼は彦根藩13代藩主)。
玄宮園から仰ぐ彦根城天守 玄宮園(げんきゅうえん)は4代藩主・井伊直興(なおおき)により延宝5年(1677年)に造営された大名庭園 | |
国宝 彦根城天守 | |
彦根城と城下町の建設は、今からおよそ400年前の慶長9年(1604年)に始まり、20年近い歳月をへて完成しました。その中心をなしたのが、天守のある本丸です。現在の本丸には天守の建物しか残っていませんが、かつては藩主の居館である「御広間(おんひろま)」や「宝蔵」、そして「着見櫓(つきみやぐら)」なども建っていました。 天守は3階3重、つまり3階建て3重の屋根で構成されています。規模は比較的小ぶりですが、屋根は「切妻破風(きりづまはふ)」「入母屋(いりもや)破風」「唐(から)破風」を多様に配しており、2階と3階には「花頭窓(かとうまど)」、3階には高欄(こうらん)付の「廻縁(まわりえん)」を巡らせるなど外観に重きを置き、変化に富んだ美しい姿を見せています。 天守の建物構造は、通し柱を用いないで、各階ごとに積み上げていく方式をとっており、全体として櫓の上に高欄を付けた望楼(ぼうろう)を乗せる古い形式を残しています。昭和32年から35年にかけて行われた解体修理により、墨書のある建築材が発見され、天守の完成が慶長12年(1607年)ころであることが判明しました。また、建築材を克明に調査した結果、もともと5階4重の旧天守を移築したものであることも分かりました。 彦根藩主井伊家の歴史を記した『井伊年譜』には、「天守は京極家の大津城の殿守也(でんしゅなり)」とあり、彦根城の天守が大津城(滋賀県大津市)の天守を移築した可能性が考えられています。 戦争とともに発達したお城ですが、彦根城は一度も戦争を経験することなく平和な江戸時代を迎えました。江戸時代には藩主が天守を訪れることも余りなく、天守には歴代藩主の甲冑(かっちゅう)などが収納されていました。江戸時代の天守は、軍用建築というよりも、城下から見上げる彦根藩の象徴という役割を担っていたようです。(現地解説シートより) | |
井伊直政公像(JR彦根駅前) 永禄4年(1561)現在の静岡県井伊谷に生まれ、幼少の頃から文武両道に励み、慶長5年(1600)に徳川四天王の一人として天下分け目の合戦で知られる関ケ原の戦で功をあげ、石田三成の居城であった佐和山城を与えられ、18万石の大名となった。 その後、城を現在地の彦根山へ移そうとしたが、同7年(1602)41歳で病没し、子らが直政の遺志を受け継ぎ20年の歳月を費やし元和8年(1622)彦根城を完成させた。こうして、彦根35万石初代藩主井伊直政公は、今日の彦根市発展の礎を築いたのである。(現地説明板より) | |
井伊大老銅像(金亀児童公園) 井伊直弼(なおすけ・1815〜1860)。開国の英雄井伊直弼は、文化12年(1815年)に彦根城下の下屋敷(槻御殿)に生まれ、嘉永3年(1850年)36歳で彦根藩主となり、安政5年(1858年)には江戸幕府の大老職となった。 同年6月、直弼は我国の将来を考えアメリカとの開国を英断。この大偉業をなしとげた直弼は、心情をくむことのできなかった人々によって安政7年(1860年)3月3日桜田門外で暗殺され46年の生涯に幕を閉じた。(現地説明板より) | |
彦根城復元 (安土城考古博物館展示に曲輪名を追記) | |
彦根城「登り石垣」 | |
登り石垣 彦根城には、全国的にも珍しい「登り石垣」が五箇所に築かれています。登り石垣は、文字どおり山の斜面を登るように築かれた石垣です。下の写真は、表門の「登り石垣」。 登り石垣は、豊臣秀吉が晩年に行った朝鮮出兵の際、朝鮮各地で日本軍が築いた「倭城(わじょう)」において顕著に見られる城郭遺構です。日本では洲本城(兵庫県)や松山城(愛媛県)など限られた城にしか見ることができません。 ※左絵図は、彦根城の第一郭を描いた「御城内御絵図」。○は五箇所の「登り石垣」 | |
表門・大手門・黒門3箇所の「登り石垣」 (現地説明板に追記) | |
<表門> 表門橋を渡った所に「登り石垣」が築かれている | |
【表門の登り石垣】 写真(上)(右) 赤枠内が登り石垣。斜面を見ると、高さ1mほどの石垣が鐘の丸に向かって伸びているのが分かる。石垣の向かって左側が溝状に窪んでいるのは「竪堀」で、登り石垣とともに斜面を移動する敵の動きを阻止する目的で築かれた。かつてこの石垣の上には、さらに瓦塀が乗っていたようである。 | |
<大手門> 大手門橋を渡り左に行くと右手に「登り石垣」がある | |
【大手門の登り石垣】 登り石垣は「竪(たて)石垣」ともいう | |
<黒門> 黒門から右に進むとすぐ左手に「登り石垣」が築かれている | |
【黒門の登り石垣】 写真(上)(右) 黒門の「登り石垣」は、西の丸北側の堀切に続く。 | 彦根城の「登り石垣」(軍事的防衛施設)は、石垣と竪堀が組み合わさった構造である。 |
<彦根城のなかで美しい景観のひとつ> 中堀から、二の丸佐和口多聞櫓(重要文化財)と、多聞櫓上の天秤櫓(重要文化財)、さらにその右上の国宝天守を望む | |
【所在地】 滋賀県彦根市金亀町 【アクセス】 JR彦根駅より徒歩約10分 彦根城の続きへどうぞ 地域別訪問城に戻る |
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