このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

彦根城

国宝・重要文化財建造物一覧 
  国宝天守・付櫓大津城天守を移築改造。建築年〜1601年。
 重要文化財大鼓門・続櫓佐和山城城門を移築。櫓門。建築年〜1606年頃。
天秤櫓二重二階隅櫓2か所。中央が櫓門。建築年〜1606年頃。
西の丸三重櫓三重三階の櫓と一重一階の続櫓。建築年〜1606年頃。
二の丸佐和口多聞櫓多門櫓で一重一階、端部は二重二階。建築年〜1771年(昭和8)
馬屋折れ曲がり入母屋造り。建築年・1688年〜1704年。
【中堀と二の丸佐和口多聞櫓】
佐和口多聞櫓の後方は天秤櫓と国宝天守


       
       埋木舎(うもれぎのや)
 第11代藩主の14男として生まれた井伊直弼は、17〜32歳までの15年間を過ごした舎。直弼は、長兄の跡を継ぎ藩主となり、安政5年(1858年)大老に就任。

いろは松
 昔は47本あったところから、いろは47文字の頭三文字をとって“いろは松”と呼ばれた。この松は土佐松で地上に根を張り出さず人馬の往来の邪魔にならないので、わざわざ高知から移植されたものである。
 この道の突き当りは佐和口御門で、彦根城へのメインストリートである。

▼重要文化財 <二の丸佐和口多聞櫓>
 佐和口は、中堀に開く4つの口の1つで、「いろは松」に沿った登城道の正面に位置している。この道の突き当りが右写真となる。

▼二の丸佐和口多聞櫓虎口
 佐和口には、かつて中堀に接して高麗門があり、その内側を鈎の手に曲げて櫓門が築かれていた。城門の形式としては最強の枡形で、重厚な構えとなっていた。
▼二の丸佐和口多聞櫓の枡形虎口
 多聞櫓右側の平屋建築は馬屋。

▼二の丸佐和口多聞櫓の城内側
 手前は観光客などの駐車場になっている。
重要文化財 <馬 屋>

馬屋(うまや)
 藩主の馬などを常備した建物。この建物はL字形をしており、佐和口門櫓に接する東側に畳式の小部屋、対する西側近くに門があるほかは、すべて馬立場と馬繋場となっている。21頭もの馬を収容することができた馬屋は、さらに南側に伸びていたようであるが、現在は復元されていない。


馬屋
 昭和43年に解体修理され、こけら葺きの屋根が美しい。城内に残る馬屋は彦根城だけである。

馬屋(内側)
 武門をもって知られた彦根藩では、戦のない時代を迎えても、著名な兵法家や武術家を多数召し抱えて、武術が藩内で学び継がれた。馬術も例外ではなく、2代直孝に召し抱えられた神尾織部の「新当流」をはじめ「大坪流」「大坪本流」「八条流」などの流儀が普及した。8代直定はとくに馬術を好んだ当主として知られますが、藩士も250石以上は馬扶持を支給されて馬を所持し、馬術の修練を怠らなかった。


馬屋の構造
 馬の居る馬立場は、前方の馬つなぎ柱2本と、後方の押柱2本で区画されている。前方の馬つなぎ柱には、手綱通しの金具が上下2段に設けられており、ここに馬の手綱を縛った。

重要文化財 <天秤櫓>

 表門から坂を上がって行くと廊下橋(非常時には落とし橋となる)が見える。この橋を中央として左右対称の2箇所に建てられているのが2重2階隅櫓の天秤櫓である。まるで天秤のような形をしているところから天秤櫓と呼ばれ、この形式は彦根城だけである。


(左)中央に門を持つ多聞櫓で、両端が2階櫓の天秤櫓と廊下橋。(中)鐘の丸と太鼓丸を分断する堀切に架かる廊下橋。(右)天秤櫓中央にある櫓門。


(左・中)天秤櫓の石垣の積み方が左(切石積)と右(牛蒡積)で違うのは、左側(西)は江戸中期に補修したため。(右)城内から見た天秤櫓。折れ曲がり1重1階。コの字形に続く。

▼太鼓門に至る石段

 石段は、踏み幅も高さも複雑になっており、上がりにくくしている。
  ▼重要文化財 <太鼓門と続櫓>
  
 本丸への最後の関門である太鼓門(櫓門)は、東側の壁が無く、柱の間に高欄をつけ廊下にしている。登城合図用の太鼓の音を響かせるために考えられたのではないかといわれている。右は続櫓。
 太鼓門櫓を過ぎると、正面に天守が現れる。

▼重要文化財 <西の丸三重櫓と続櫓>

 西の丸は本丸の西北にあたり、東西約60m、南北約160mの広さで、西隅に多聞櫓を付属した三重櫓が建つ。東南の天秤櫓とともに、西北側の重要拠点である。

  ▼西の丸跡
  
 《天守背面》

彦根城天守は付櫓と多聞櫓が付属する、複合式天守と呼ばれる。


天守と付櫓

天守と本丸跡
   
   着見台跡
   
   天守から琵琶湖を望む

 《天守内部》
 
 天守入口
  
  壁面には、長方形や三角形の狭間が切ってある。外側から見えないように、漆喰壁で塗り込めて隠してあるため、隠し狭間と呼ばれる。敵が近づくと内部から外壁を突き壊して射撃する。

  
 内部の状況
  
  武者溜

 
 天井

  
  天守最上階
《天守の意匠》

現存天守のなかで破風の数が最も多い天守。切妻破風の中に庇を付けたものは他に例がない。


 


江戸時代の外堀跡(右写真の現在地)
 かつては、満々と水を湛えていた外堀。彦根城は、内堀・中堀・外堀の3重の堀が城山を取り囲むように設けられていた。現在、内堀と中堀は往時の姿を留めていますが、外堀については、数ヶ所が残っているに過ぎない。
 

御城下惣絵図部分(点線は藩主の国入りルート)
 江戸時代、藩主の「国入り」(江戸から彦根に帰ること)は、図の点線のルートを通りました。中山道を離れて彦根道に入り、佐和山の切通しを越えて松縄手に至った藩主は、駕籠を降りて馬上の人となり、切通口御門から松の下(現在の「いろは松」)を経て、佐和口御門を入り表御殿(現在の彦根城博物館)に到着しました。松の下では馬を降り、徒歩で主だった家臣たちの出迎えを受ける大切な儀礼が行われた。


鉢巻石垣・腰巻石垣
 中枢部の山上部分は総石垣であるが、周囲は鉢巻石垣・腰巻石垣をもつ土塁と内堀で囲まれていた。

   
   彦根城博物館(表御殿)

総石垣で築かれた山上の本丸周辺と国宝天守


京橋口門
 中堀に面して4つの城門が開いていたうちの1つが京橋口門で、内堀の大手門にも通じる要所に位置している。門の内側に設けられた枡形には、高麗門、櫓門が築かれていた。

雁木(がんぎ)
 京橋口門の内側には、雁木という長大な石の階段が造られています。雁木は、多くの城兵が一度に多聞櫓を駆け上がれるように築いたもので、城を防衛するための工夫。


旧西郷屋敷長屋門
 3500石の家老・西郷家の長屋門。

宗安寺赤門
 石田三成公の佐和山城表門を移築したと伝えられ、馬に乗って駆け込めるように敷居がない。


内堀跡

中堀跡
 
二の丸佐和口多聞櫓側から中堀越しに見た埋木舎(写真左側)周辺の眺め。

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