このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
別称 | 鯉城[りじょう] |
所在地 | 広島県広島市中区 |
地形種類 | 平城 |
築城年 | 天正17年(1589) |
築城者 | 毛利輝元 |
文化財指定区分 | 国指定史跡 |
復元・整備 | 平成元年〜6年に表御門・御門橋・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓を復元。 |
天守の現況 | 昭和20年(1945)原爆で倒壊、昭和33年(1958)鉄筋コンクリートで大天守のみ再建。旧天守は、大天守の東と南に小天守を連ねた形式であった。 望楼型の5重5階、外観復元。 |
▲三の丸跡から望む本丸を囲む石垣と天守。
広島城の歩み |
広島城は、広島市中区の太田川河口の三角州に、吉田郡山城主・毛利輝元が築いた平城。毛利氏は、南北朝時代から吉田郡山城(現・広島県安芸高田市)を居城とする一領主で、元就の代に中国地方の大半を支配する戦国大名に成長。後を継いだ孫の輝元は、城下町と一体化して政治・経済の中心地として機能する城郭の必要性を痛感し、天正17年(1589)築城を開始。10年後には壮大な城郭が完成。 しかし、輝元は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍について敗れ、周防・長門2国へ減封。代わって、秀吉子飼いながら、関ヶ原では東軍についた福島正則が入封。その後、元和3年(1617)の大洪水で被害にあった城の修復が、幕府に無断で行われたという理由などで改易になり、紀伊和歌山から浅野長晟(ながあきら・妻は徳川家康の娘)が領主として入封。以後、明治2年の版籍奉還まで約250年間、浅野氏が12代にわたって広島城主を勤める。 明治維新後は、本丸に第5師団の前身、広島鎮台が置かれ、明治27年に日清戦争が始まると、大本営が一時設置されるなど軍都・広島の一大拠点であった。しかし、昭和20年(1945)8月6日、原子爆弾の投下によって、5層の天守(昭和6年に国宝指定)は表御門、多聞櫓とともに倒壊、焼失。現在の天守は、鉄筋コンクリート造りで、焦土となった町の復興のシンボルとして、昭和33年(1958)に再建された。また、築城400年にあたる平成1年(1989)から平成6年(1994)にかけて、二の丸に表御門・御門橋・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓を復元した。 |
毛利氏家紋「一文字三星(いちもんじみつぼし)」
▲再建された二の丸の表御門・平櫓・太鼓櫓・多聞櫓・御門橋
福島氏家紋「沢潟(おもだか)」
▲本丸跡と天守。
●交通ガイド
JR山陽本線・山陽新幹線「広島」駅から広島電鉄市内線で約12分「紙屋町東」下車、徒歩約10分。
▲天守から見た内堀。
▲天守台石垣と内堀。被爆して天守は崩れ落ちたが、天守台石垣は残る。
広島城跡碑と
再建された天守正面(南面)
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