このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


 佐賀県唐津市鎮西町の東松浦半島に築かれた平山城(標高88.8m)の陣城。朝鮮出兵の前線基地として、豊臣秀吉の命により築城されたが、秀吉の死により廃城となった短命の城。
名護屋城跡と文禄・慶長の役<壬辰(じんしん)・丁酉倭乱(ていゆうわらん)
 今から約400年前、全国統一を果たした豊臣秀吉は、朝鮮半島と中国大陸をも侵略しようとして1592年〜1598年にかけて文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)を起こしました。この時、秀吉が配下の諸大名に命じて出兵基地として築かせたのが名護屋城です。
 総面積約17万㎡に及ぶこの巨城と各地から参集した大名の陣屋の跡は、「名護屋城跡並びに陣跡」として、国の特別史跡に指定されています。特別史跡「名護屋城跡並びに陣跡」は、安土桃山時代の文化、建築、生活などを知ることのできる貴重な文化財であると共に、日本と東アジアの国々との不幸な出来事を語り伝える歴史の証人でもあります。

 当時では大坂城につぐ規模をもつていた名護屋城の構えは基本的に三段の渦郭(かかく)式といえるもので、天守台のある本丸を中心にニノ丸、三ノ丸、弾正丸(だんじょうまる)、東出丸を置き、北方下段には遊撃丸(ゆうげきまる)、水手曲輪(みずのてくるわ)、さらにその下段に山里丸(やまざとまる)と台所丸を配置しています。
 門は、大手口ほか5ヵ所あり、北面には通称鯱鉾池(しゃちほこいけ)といわれる堀もわたしています。(写真)豊臣秀吉木像(複製)〜秀吉の死後まもない頃つくられたもの。寄木造で彩色が施されている。作者は不明であるが、秀吉の顔の特徴がよく表現されている。

 
■大小11の附属曲輪からなる城
【大手口】城の正面玄関口 【東出丸】城の東側や大手口を守るための曲輪 【三ノ丸】ニノ丸、東出丸、本丸から直接、連絡できる曲輪 【ニノ丸】本丸の西側にあり、搦手口や船手口を守る重要な役目の曲輪

【上山里丸】秀吉の屋敷があった曲輪。私的な場所で、御殿、茶室が建っていた 【下山里丸】秀吉の私的な曲輪で、能舞台などがあり、“遊びの空間”と考えられる場所 【鯱鉾池】名護屋城の唯一の堀 【台所丸】鯱鉾池に向かって半島状に突き出た曲輪。東側には船着き場所が発見されており、遊びの空間であったと考えられている 【水手曲輪】水をためる施設や井戸があった曲輪。水手口や遊撃丸を守る 【遊撃丸】天守台や船手口を守る曲輪 【弾正丸】秀吉の側近、浅野弾正長政の屋敷があった場所。搦手口がある 【馬場】ニノ丸と三ノ丸をつなぐ曲輪。地元では馬乗り馬場と呼ばれている

【本丸
】城の中心となる曲輪で、最も重要な場所。巨大な御殿や門、櫓が建ち並んでいた 【天守台】天守閣が建っていた場所で、穴藏と呼ばれる地下室を備えていた。周囲から金箔瓦が発見され、黄金に輝く天守閣が建っていたと考えられる
<名護屋城跡散策>
大手口〜大手道〜東出丸〜三ノ丸をめぐる

佐賀県立名護屋城博物館から望む大手口、大手道、東出丸、三ノ丸


大手口
 城の正面入口といわれており、ここから南(手前側)に向かって唐津に通じる「太閤道」と呼ぶ道がのびていた。大手道を挟んで右(東側)が大手口櫓台、左(西側)が大手口石垣(三ノ丸南東隅櫓台)。


大手口櫓台(北東面)
 平成4年、遺構保護のため、崩壊危険個所の石垣修理を実施。

大手口石垣(三ノ丸南東隅櫓台)
 名護屋城の石垣は、上部の石垣が崩れたままになっている箇所が点在する。これは、島原の乱で、原城が一揆勢に利用されたことから、この名護屋城も使用できないように破却され、現在、そのままの状態で保存しているためである。


直線に延びる大手道
 登城坂を登ると、右側に東出丸があり、左に180度行くと三ノ丸となる。


東出丸石垣
 大手道からの眺め。東出丸の内側・外側の石垣危険箇所については、平成2年に緊急修理を実施。

東出丸跡
 東方に張り出した長方形の曲輪で、千人桝とも呼ばれている。大手口・三ノ丸警固のための侍詰所があったと推定されます。


東出丸櫓台
 
後方は三ノ丸跡。

三ノ丸跡
 本丸より一段低いところに位置する東西34間(68m)、南北62間(124m)の曲輪。大手口から本丸に通じる重要な曲輪で、本丸周辺を警固する侍が詰めていた場所と考えられます。


三ノ丸井戸跡
 名護屋城内では当時のものと考えられる井戸が各所で発見されていますが、三ノ丸の井戸はその中でも最も高所(標高76m)にあります。


三ノ丸櫓台(西側)
 この櫓台は、名護屋城で最大規模を誇り、西側正面には城内最大の鏡石を用いて、石垣を築いています。手前が馬場側となり、櫓台の左側は、三ノ丸と馬場を区切る門があった。
 本丸をめぐる



本丸大手口
 三ノ丸側から見た本丸大手口。三ノ丸から本丸への入口で、門の礎石が残されている。


本丸大手口(本丸側)

本丸
 本丸は、天守を含め6基の櫓が配され、それらを多聞櫓で連結する曲輪であった。現在、名護屋城では復元整備が進み、本丸新石垣櫓台、本丸多聞櫓跡、本丸南西隅櫓跡、玉石敷などが平面表示されている。

天守台から見た本丸
 右奥が本丸大手口となる。本丸破壊(写真左側)の爪痕が確認できる。


本丸旧石垣
 名護屋城は、築城後に何らかの理由で大規模な改造が行われています。この石垣は本丸の南側および西側への拡張に伴って完全に埋められていた築城当時の石垣です。石垣は内・外面の両方が確認されており、馬場側に面した外面では、高さ10m以上の石垣がそのまま埋められているものと推定されます。


南西方向から天守台を望む
 天守台周辺の石垣も、徹底的な破却を受けている。

天守台
 ここには、金箔瓦を使用した五層七階建ての豪壮な天守が建てられていた。天守は、江戸時代に入ってまもなく、この地が唐津藩に領有されるのに従い、破却を受け、天守台の石垣までも壊されたものと推定されます。


破壊を受けた天守台石垣
 

天守台跡
 この天守閣跡からの玄海の眺望はすばらしく、壱岐、対馬も望見できる。


天守台跡
 発掘調査では、天守の基礎となる礎石(柱の土台石)と地階部分にあたる「穴蔵」の石垣、「穴蔵」への二ヶ所の出入口などが発見されています。さらに多量の金箔瓦も出土した。
破壊された本丸石垣

天守台下側部分
 石垣は土砂で覆われて旧状を確認できない。


遊撃丸から見た天守台周辺の石垣


本丸西面の状況
「名護屋城の破却」を考えるうえで、一国一城令(1615年)や島原の乱(1637年)などとの関連が推定されている。

本丸南西隅石垣
 平成8年度に解体修理した前面の石垣は、復元すると10m以上の高さとなる。崩壊は石垣最下部まで達しており、残った石垣を安定させるために、前面に転落していた石材を用いて、積み直しを行った。また、この部分は自然崩壊だけではなく、人為的に破壊したと推定されるため、修理した石垣前面に覆土を行い、破壊当時の状況をそのまま復元している。


名護屋城後編

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