このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

  国指定史跡
観音寺城跡
    かんのんじじょう
 <日本100名城>


中世、近江源氏嫡流の佐々木氏(のち六角氏)の本拠とされていた城。佐々木城跡ともいう

【住 所】滋賀県近江八幡市安土町石寺ほか
          
     観音寺城跡へのアクセス〜JR琵琶湖線「安土駅」よりレンタサイクルで石寺楽市まで約20分(赤い線がサイクルコース)
     自転車は石寺楽市(日本百名城スタンプ設置・冬季閉鎖)に停めさせてもらい、石寺楽市から北へ約100mの所にある
     御屋形跡(天満宮)脇の追手道(表坂道)入口より登り、伝本丸まで約60分。これが今回、訪問時の登城ルートです。
     尚、時間については、休憩、写真撮影などを含みますので個人差があると思います(訪問日・2017年4月)
        
【地 形】標高433mの繖山(きぬがさやま)全体を城域とし、石垣を多用した中世最大の山城。日本五大山城の一つ。

            
        
   観音寺城復元模型(安土城考古博物館展示)〜山頂の本丸を包み込むように山の南斜面ほぼ全域にわたって、観音寺城は築かれた。
   また山麓には城主が日常住む御屋形と城下町が整備されていた。ふもとの石寺は日本で最初に楽市が開かれた城下町。

      南側から望む観音寺城跡(繖山)
      
    
【周辺地形状況】

明治26年の観音寺城跡・安土城跡周辺地形図
 安土城の北と東西の山麓まで琵琶湖の内湖が迫る地形であった。
 戦国時代、安土地方は、近江南半国の守護である佐々木六角氏が、観音寺山を居城として統治し、観音寺山と山つづきの安土山は、家臣の目賀田貞家が守備していた。
 

現在の観音寺城跡周辺地形模型(安土城考古博物館展示)
 この地域は、京都から関東に向かう交通の要所に位置し、現在は、戦後の干拓により、一部の湖水を残して水田へと姿を変えたが、当時は琵琶湖に隣接しており、京都や北陸への湖上交通の拠点でもあった。
【歴 史】
 宇多源氏(うだげんじ)の血統を引く佐々木六角氏は、平安時代に近江へ土着したのち、鎌倉時代初期から戦国時代末期まで近江守護をほとんど独占した名門です。この六角氏が戦国時代に居城としたのが観音寺城です。
 南北朝時代に佐々木氏頼が観音寺に布陣したことを、「観音寺ノ城郭」と『太平記』に記されたのが初見です。その後、観音寺城が当主の居住する城として石垣を多用した姿に整備されたのは、修築の記録が集中する1530〜50年代のことと考えられます。
 観音寺城の中枢部分は、本谷を挟んで観音正寺境内の向かい側にある、伝本丸、伝平井丸、伝池田丸のあたりと考えられます。これらの郭は、城内でも特に面積が大きく、大石を使った壮大な石塁が郭を囲んでいます。昭和45年の発掘調査では、茶器や中国産の陶磁器などが豊富に含まれていました。

 永禄11年(1568)に織田信長が観音寺城を攻撃すると、六角承禎(ろっかくしょうてい)・義治(よしはる)親子は正面から戦うことなく逃亡し、あっけなく開城しました。そして天正7年(1579)に安土城が完成したことによって、観音寺城は歴史的役割を終えたようです。

 平成26年より、豊かな杜づくり隊や地元企業が中心となり、地元有志の手で伝御館跡周辺と、そこから大石垣までの散策道(旧追手道)の整備を行いました。また、整備された散策道沿いを中心に、緑の募金を活用した植樹が行われており、将来は季節感のある遊歩道となる取り組みがされています。観音寺城跡のすばらしさを知っていただき、これを後世に伝えていくために、多くの方に、観音寺城跡を訪れていただきたいと願っています。
(現地説明板より)

【主な遺構】
石垣・虎口・井戸・郭・土塁など

伝本丸の高石垣


伝本丸の喰い違い虎口(場外側)

伝平井丸の石垣(西側部分)
 平入り虎口に向かって左奥に行ったところの石垣。

太夫井戸跡
 桑實寺からの登城路を上がりきったところに、伝本丸跡入口の喰い違い虎口が築かれており、入口を入る前に、下段へ通じる道を少し下がった所に位置する。

【観音寺城跡平面図(現地説明板より)
  山頂から山麓にいたるまで間断なく全山一帯に郭、屋敷を構え平時、戦時を問わず、豪族一党の大集団が常住し、防御と生活のあらゆる施設を完備し、山岳寺院を利用した巨大山城。
     
 現在、麓から山上に登る城道は、桑實寺から登る城道、林道を自動車(有料・冬季閉鎖)で中腹まで上がるなど複数あるようですが、今回は、御屋形跡(天満宮)の脇にある追手道登り口より、大石垣→伝池田丸跡→伝落合丸→伝平井丸跡→伝本丸跡へと登り、帰りは観音正寺から赤坂道(石段)を下って現在位置まで帰りました。

 城域は繖山(観音寺山)全体に広がっており、一日で巡る城跡は、体力的にも伝池田丸、伝平井丸、伝本丸までが限界でした。詳細を見て回るならば、数日を費やすことになります。

観音寺城跡平面図「★現在位置」の場所
 右手が日吉神社、真っ直ぐ延びている道は赤坂道で観音正寺に至り、左へ進むと伝御屋形跡(佐々木六角氏)へ行きます。その道が右の写真です。


この道の突き当り右側に伝御屋形跡(天満宮)の遺構が残る。


伝御屋形跡の石垣
 戦国時代の山城は、寝小屋(常の住居)は山麓に置いて、事ある時にだけ山上の城に籠るのが一般的だった。
 観音寺城も、南山麓に伝御屋形と呼ばれる寝小屋を置くが、山上にも置かれた。つまり山上に生活空間が存在していたと考えられている。


伝御屋形跡への石段と石垣


伝御屋形跡
 右端に追手道の登り口があります。


追手道(表坂道)の登り口
 ここから伝本丸への第一歩として、まずは大石垣をめざします。

【大石垣】

大石垣
 追手道の中腹、伝池田丸下方にある石垣。築城当初の大手門とされ、観音寺城と書かれたのぼりが立つ。


大石垣
 樹木が伐採され、新幹線からも見えるように整備。


大石垣上の女郎岩
 次は観音寺城の中心部であったとされる伝池田丸、伝落合丸、伝平井丸、伝本丸を探訪 
              


伝本丸の石垣

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