このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

■正門からみた正庁(せいちょう)外観  弘道館の中心をなす建物。
【弘道館 正門】
弘道館のあらまし
弘道館は、水戸第9代藩主徳川斉昭(なりあき)が1841年(天保12)に水戸城三の丸に建設した水戸藩士の子供達の学校(藩校)で、全国に約300ある藩校のうちで最大の規模を誇った。
●水戸藩第2代藩主徳川光圀(義公)は、藩士の教育のため、藩校の建設を計画したが、大日本史編さんのため多忙で果たせなかった。この意志を第9代斉昭(烈公)が継ぎ、開館したものである。
●当時の面積は、現在の旧県庁舎、県立図書館、三の丸小学校などを含めて、現在の敷地の約5倍もあり、文武両道はもちろん医学、薬学、天文学さらには蘭学まで幅広い学問が取り入れられ、総合大学とでもいうべきものであった。徳川幕府の最後の将軍となった徳川慶喜(よしのぶ)は5歳から11歳までここで学んだ。
●弘道館は幕末の弘道館の戦い(1868年・藩の中で考え方が違う人達の間で起きた戦争)および、1945年(昭和20年)の戦災によって多くの建物を失うが、かろうじて正門・正庁・至善堂(いずれも重文)が残る。

■弘道館公園内の史跡〜孔子廟(写真左)と八卦堂(写真右)

■対試場(たいしじょう)からみた正庁
■正庁外観  弘道館の主義・精神は日本古来の倫理学を基本とし、これに中国に発した儒教の道徳を採用したもので、世に水戸学と称せられた。
■昭和三十九年五月に正庁、至善堂、正門が  国の重要文化財に指定された。
■武術の試験場だった対試場
■至善堂(しぜんどう)  徳川慶喜は大政奉還後に弘道館の至善堂で謹慎の日々を送った。
■正庁の間  藩主が臨席する重要な試験・儀式が行われた、二十四畳敷の部屋。  斉昭の親書になる「游於藝(げいにあそぶ)」の扁額が縁側軒下にかかる。

■前のページに戻る

■地域別訪問城に戻る

正門
正庁
至善堂
対試場

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください