このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 偕楽園は、水戸第九代藩主徳川斉昭(烈公:1800〜1860)が自ら造園計画の構想をねり、天保13年(1842年)に創設。特に好文亭については烈公が自らその位置や建築意匠を定めたと言われている。
 
 大正11年(1922年)には国の史跡、名勝の指定を受け、金沢の兼六園、岡山の後楽園とともに日本三名園の一つに数えられる。
 
 偕楽園の名称は、中国の古典である「孟子」の「古の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能く楽しむなり」という一節から取ったものです。春には百種三千本の梅の花が咲き誇り、全国でも有数の梅の名所として知られている。
■大手門跡から大手橋を渡ると、そこは三の丸で、九代斉昭が開設した弘道館が建つ。
■弘道館公園。  右側に弘道館が位置する。
■南堀(空堀)遺構 後方は土塁(南堤)。建物は水戸警察署。
【偕楽橋から望む偕楽園と好文亭】
■千波湖八景の現地案内看板 当時の千波湖と現在の千波湖の地形が描かれていますが、これを見ると水戸城は、那珂川と千波湖にはさまれた台地に築かれた城であることが良く分かります。
水戸城
見どころ

1、北堀
2、中堀
3、南堀
4、南堤
5、中提
6、北堤
7、空堀
8、本城橋
9、大手橋・大手門跡

A県三の丸庁舎
B県立図書館
C水戸警察署
D中央郵便局
EJR水戸駅
F水戸第二中学校
G水戸第三高校
H水戸第一高校

■水戸駅から東(本丸方向)へ歩いて5分ほどの所に、水戸黄門こと徳川光圀が生まれた「義公生誕の地」がある。現在は、水戸黄門神社が鎮座する。

■「義公生誕の地」から、JR水郡線に沿った道を上がって行くと、線路はV字型の崖の底へと入っていく。ここが、水戸城本丸の空堀の跡である。
後方には、本城橋が見える。右側が本丸跡、左側が二の丸跡になります。

■本丸橋詰門桝形跡
本城橋を渡ると、本丸跡ですが、現在は水戸第一高校の敷地になっている。本丸表口は橋詰門で、桝形が構えられ正面に薬医門が建てられていた。屈曲する桝形の土塁が残存する。
写真中央(土塁の後)に薬医門の屋根が見えます。

本丸
二の丸
三の丸

偕楽園

水戸城のほかに、水戸といえば偕楽園

史跡名勝

KAIRAKUEN

弘道館をみる

【水戸城周辺図(観光案内板より)】

好文亭(こうぶんてい)は徳川斉昭の造営した偕楽園内に建つ別荘。そこは己ひとりの楽しむところではなく、衆と偕(とも)に楽しむところであった。昭和33年(1958年)に復元された。好文亭の名は、梅の異名である好文木(こうぶんぼく)に由来する。

水戸駅近くの水戸東照宮に展示されている安神車(あんじんしゃ)。斉昭考案による戦車。大八車の上に鉄板の箱をのせ、牛に引かせる。

千波湖畔に建つ水戸光圀公像

▼偕楽園は梅の名所で、毎年2月20日から3月31日まで水戸の梅祭りが開催されており、その時に訪れた様子です。梅は春を呼ぶ花として、天下にさきがけようとした斉昭公が大変好んだといわれている。

▼徳川斉昭公・七郎麻呂(慶喜公)像
千波湖畔にある、9代藩主斉昭とその七男で、のちに15代将軍となった慶喜の像。

▼三の丸の土塁(南堤)▼
後方には南堀(空堀)遺構が位置します。

■復元された大手橋〜三の丸側からの大手橋。大手橋を渡った所が上の写真の大手門跡になります。
■写真下〜大手橋の架かるかっての、二の丸と三の丸を分かつ堀は県道232号線になっている。

■水戸市立第二中学校門脇に建つ「大日本史編纂之地碑」

■水戸市立第二中学校の校庭に残る、樹齢400年以上の「水戸城跡の大シイ」

■本城橋。本丸側から、本城橋後方の二の丸をみる。橋下は空堀でJR水郡線となっている。建物は、水戸第三高校。

■薬医門から再び本城橋を渡って西へ行くと、「水戸城跡通り」がのび、道路の両側は小・中・高の各学校の敷地になっていて、この一帯が二の丸跡である。西端まで行くと大手門跡となる。

■薬医門
水戸城唯一の建築遺構。本丸から二の丸へ通じる橋詰御門[はしづめごもん]と推定されている。明治の廃城によって城下の祗園時へ払い下げられたが、1981年(昭和56)に再び現在地に移された。茨城県指定文化財。
水戸城の歴史
 水戸城は、那珂川と千波湖にはさまれた台地(現JR常磐線水戸駅周辺)の先端に築かれた平山城。鎌倉時代初期、この台地上に最初に城砦を築いたのは常陸大橡(地方国衙の行政官)の馬場資幹[ばばすけもと]であった。このため、水戸城ははじめ馬場城とよばれた。

 馬場氏による約200年間の統治ののち、常陸守護代の江戸通房[えどみちふさ]が馬場氏を追放して馬場城を占拠、戦国大名として君臨する。江戸氏は城郭を拡張し、水戸城と改称した。

 1590年(天正18)、豊臣秀吉の傘下に入った常陸太田の佐竹義重・義宣[さたけよししげ・よしのぶ]が水戸城を攻めて城主の江戸氏を追い出し、水戸は佐竹54万石余の城下町となる。しかし、関ヶ原の戦いで佐竹義宣は西軍にくみしたため出羽秋田に移封され、徳川家康の五男武田信吉が15万石で入封、早世した信吉ののち、家康の十男徳川頼宣[よりのぶ]が入り、つづいて1609年(慶長14)に十一男の頼房[よりふさ]が25万石(のち35万石)で入封し、水戸徳川家11代約260年の始祖となる。

 徳川頼房は、佐竹時代の旧二の丸を本丸として居館を建て、三の丸を造営、外堀の拡張などの普請をおこない、連郭式の縄張が完成した。9代藩主斉昭[なりあき]のとき、三の丸に藩校の弘道館が建てられた。

 水戸城は、幕末の藩内抗争と明治の廃城令で多くの建物が損壊し、残った三階櫓も1945年(昭和20)の戦災で焼失した。土塁と空堀の一部、復元された薬医門、弘道館の正庁・至善堂・正門が城址の名残りをとどめている。                                                  

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■交通
●弘道館/水戸駅から徒歩10分
●偕楽園/水戸駅からバス15分
  尚、偕楽園のイベント時には、JR特急も偕楽園駅(臨時駅)に臨時停車します。

千波湖(せんばこ)

▼三の丸の空堀(中堀)▼
中堀の両脇には更に北堀と南堀の空堀が残っています。
写真右側の盛り上がった部分は土塁(中堤)です。

■水戸城跡通り

■薬医門を横から眺める

■木割が太く、重厚な外観

■上の土塁(中堤)を横からみた写真
水戸城は、石垣は一切用いず、土塁や空堀によって築かれた土造りの城であった。現在、県立図書館・県三の丸庁舎の前、三の丸・西端には大規模な空堀や土塁が残る。
■大手門跡(写真右・右下)
土塁によって大きな桝形が設けられていた。水戸城には、石垣がもともと築かれなかった。天然の要害である丘陵上に、大規模な堀と土塁で築かれた。
■城跡案内説明板(写真下)
説明板に写っている大手門は櫓門で、内側は桝形になっていた。

■JR常磐線水戸駅北口を出ると、水戸黄門と助さん格さん像が迎えてくれます。

「水戸は江戸時代、御三家の一つである水戸徳川家が置かれ、東北諸藩ににらみをきかせていた。水戸藩の歴代藩主のなかでも、2代の徳川光圀(1628〜1700)は、藩主時代はほとんど江戸にあったが、水戸に帰ったときは領内をめぐり、村の孝行者などを表彰して宣伝するなど領民思いの治世をしていた。このイメージが、後世に水戸黄門をつくりあげていった」

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