このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

▼加藤清正像長塀(重文)
後方の長塀は瓦と白壁と黒の下見板で築か
れている

▼二様の石垣
清正時代のゆるやかな石垣(右)、細川時代の急勾配の石垣(左)

地図石

▼坪井川沿いの長塀

▼長塀と平御櫓

▼宇土櫓から見た多聞櫓二重櫓

熊本城の重要文化財を巡るコーナー
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熊 本 城
 (訪問日:平成18年7月)

宇土櫓(うとやぐら)(重文) 
西南戦争で唯一焼け残った多層櫓。大小天守につぐ第三の天守ともいわれている。直線的な破風と望楼に廻縁勾欄をめぐらした建築様式。

所在地熊本県熊本市本丸
別名銀杏城
地形種類平山城
文化財指定区分国特別史跡 / 13棟の建造物が国重要文化財

▼武者返しの石垣
熊本城の石垣は「清正流石組」と呼ばれ独特の弧を描く扇の勾配。下は30度ほどとゆるやかながら、上に向かうに従って角度を高め、天端では75度の絶壁になっている。

■加藤清正が、慶長6年(1601)に着工し、7年の歳月をかけて築城。また、城下町の整備や、治山・治水・産業の振興なども行い、今日の熊本の基礎を築いた
 
しかし、加藤家の治世は徳川氏の忌避にふれ、その後小倉より細川忠利が入封し、明治4年(1877)まで11代239年間、細川氏の居城となる。
 惜しいことに明治10年の西南戦争で、大・小天守などほとんどの建物が焼失。宇土櫓などが残り重文となっている。

▼馬具櫓(左)と長塀。右後方は大天守

▼石 段 “攻めにくさ”は名城の条件のひとつ。一段一段の奥行と高さが意図的に異なるように作られている。スムーズな進軍を阻止する工夫。        

▼忍返(しのびがえし)
石垣を上がってくる敵の侵入を防ぐため、鉄串を並べている。

▼頬当御門(近年に模擬的に再建)。門の左側建物は入場料金所。左後方は宇土櫓と多聞櫓で連結された二重櫓、門の奥後方に見えるのは大天守

切石で組まれた箱形の石組み。これを古くから「地図石」と称する。面をきれいに整形した石を、複雑に隙間なく組み合わせて構成したもの。地図石とはよばれていても、なにを表現しているのかわからない。諸説がとびかつている。

◆大天守と小天守 
昭和35年(1960)に再建

(右)宇土櫓と右奥は多聞櫓で結ばれた二重櫓
宇土櫓の石垣の高さは約25m。城内屈指の高石垣。

(下)望楼型の宇土櫓は、入母屋破風と大きな千鳥破風が特徴。左方には、大小天守が見える。

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