このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
熊本城 |
重要文化財建造物一覧 |
▼行幸坂(みゆきざか)をたどっていくと、右手に備前堀があり、その中ほど左手に位置する坂。この坂は江戸時代は南坂と呼ばれ、南大手門へ向かう藩士の登城路であった。明治三五年に明治天皇が行幸された折、現在の車道を整備し、行幸坂と呼ぶようになった。
日本三名城の一つに数えられる熊本城は、加藤清正が幾多の実践の経験を生かし、慶長6年(1601年)から7年の年月を費やして築いた天下の名城。
周囲5.3キロに及ぶ豪壮雄大な構えで、かっては大小天守を中心に櫓49、櫓門18、城門29を数えた。大小天守は明治10年(1877年)の西南戦争で焼失したものを昭和35年に再建したものでありますが、幸い焼失をまぬがれた宇土櫓他12の建造物はなお昔時のままで、国の重要文化財に指定され今日までその貴重な姿を残しています。その重要文化財は下記の建物群です。
▼奉行丸の城内側。奉行所が置かれたことから奉行丸と呼ばれる。奉行丸に熊本城復元整備計画の一環として、平成十五年までに「未申櫓」「元太鼓櫓」と付属の堀を復元。
▼再建された長塀と西大手門(右端の建物)越しに見る、左より宇土櫓・小天守・大天守。
▼近年再建された西大手門(左)、元太鼓櫓(真中)、未申櫓(ひつじさるやぐら・右端)
▼西出丸の戌亥櫓(いぬいやぐら・左端)と右側の西大手門及び元太鼓櫓。近年の再建。
▼「横手五郎の首掛石」〜元来はどういう用途の石であったのかはわからない。
▼埋門跡(うづみもん)〜城門には櫓門・冠木門などいろいろありますが、城壁の石垣の間に埋め込むように造られているのが埋門。
[写真・右]平成13(2001)年に復元が始まり、平成17(2005)年2月に完成した「飯田丸五階櫓」。備前堀の内側に位置する。城郭南端を警護する要塞。
[写真・下]備前堀。熊本城の東から南にかけては坪井川を内堀に見立てたため、水堀はここ一ヶ所だけであった。写真右側に、飯田丸五階櫓が建つ。
宇土櫓の窓は、現在、格子の外側に突上戸、内側に明り障子が付いている形式。戦闘時には、銃眼だけでなく格子の間からも鉄砲を撃つ。
{熊本城案内図(現地リーフレットに追記転載)}
源之進櫓(折れ曲がり13間)
四間櫓
{ 熊本市役所14階から望む熊本城 }
{熊本城下地図}
宇土櫓および続櫓
三重五階の宇土櫓から右方に十六間の多聞櫓が続き、その右端は二重櫓となっている。往時の威容を唯一残す部分。
東十八間櫓
北十八間櫓
五間櫓
東
北十八間櫓高石垣(左側)と五間櫓
{城内より見る諸櫓}
十四間櫓
田子櫓(写真右)と七間櫓
{二の丸広場から長塀越しに望む大・小天守と宇土櫓}
天守側より望む宇土櫓
宇土櫓と続櫓 | 七間櫓 | 東十八間櫓 |
源之進櫓 | 田子櫓 | 平櫓 |
四間櫓 | 五間櫓 | 監物櫓 |
十四間櫓 | 北十八間櫓 | 長塀 |
不開門 | 以上の13棟 |
東十八間櫓(左)と北十八間櫓(右)。北十八間櫓はL字を呈す多聞櫓。
(本丸御殿 平成19年度完成予定)
▼百間石垣〜長さ101間(約184m)、高さ5間(約9m)のみごとな石垣。
▼竹の丸より大天守を望む
▼長塀の城内側
熊本城の南を流れる坪井川に沿うように、平御櫓から馬具櫓まで、日本一長い塀建築遺構となる242.44mの長塀。桟瓦(さんがわら)と黒の下見板が白壁とのあざやかな対照をみせている。
本丸の北東に開く櫓門で、常時は扉を閉ざしていたので不開門という。
▼城外から見る不開門
▼不開門への坂道
平櫓
不開門(あかずのもん)への坂道から侵入する敵に備え建てられた。
監物櫓
家老長岡監物が城北の守りを固めた場所に建つ平櫓。建築年代は安政七年((1860)。現在は監物台樹木園。
重要文化財以外の熊本城の見どころ
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