このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

■松江城天守と堀川遊覧船
松江城

{別名}千鳥城

国宝 / 国史跡

国宝の天守は現存12天守のひとつ
 ◆松江城 概略◆
【別 名】
 別名「千鳥城」の由縁は、千鳥が羽を広げたように天守が美しいことからという説と、宍道湖には千鳥が沢山棲息しているのでこの名がついたともいわれている。
【地形種類】
 松江城天守より望む宍道湖。宍道湖北畔、標高28mの亀田山に築城された天守を有する山陰唯一の平山城
【歴 史】
 関ケ原合戦の戦功によって、出雲・隠岐24万石に封じられた堀尾忠氏(ほりおただうず)とその父吉晴(よしはる)は、当初この地の中心だった尼子氏の居城月山富田城(島根県安来市)に入城。しかし、政治・経済的な理由から松江に移城を計画する。新城築城の準備中、忠氏が28歳の若さで急死し、後を継いだ忠晴(ただはる)はわずか6歳だったので、祖父の吉晴が後見して、1607年(慶長12)に着工した。

 「堀尾普請」と讃えられた普請名人の吉春が心血を注いだ松江城は、それから4年後の1611年(慶長16)に完成したが、吉晴は入城することなくその直前に没した。松江城に移った忠晴は22年間在城したが、死去したとき嗣子がなく、堀尾家は3代で断絶した。

 堀尾家に代わって松江城に入った京極忠高(きょうごくただたか)も1代で終わり、1638年(寛永15)、信州(長野県)松本藩主松平直政(まつだいらなおまさ)が出雲18万石を受けて松江城主となった。松平直政は、徳川家康の孫にあたり、結城秀康(家康の次男)の三男である。

 以後、1871年(明治4)まで、松平氏10代234年間出雲18万6千石を領した。1875年(明治8)、城内の建物は全部取り壊されたが天守だけは有志の奔走によって保存され、昭和25年〜30年の解体修理を経て現在に至っている。
【天守形態】
 天守入口となる附櫓のある複合式の望楼型現存天守(五重六階)
        
【復 元】
 2001年(平成13)、二の丸上の段に櫓3棟(南櫓・中櫓・太鼓櫓)・土塀が復元
【城地図】
 低い山に周辺の平地を含めて築かれた平山城。城内への入口は、大手前口が中心となるが、内濠に架かる千鳥橋・亀田橋・稲荷橋・北惣門橋からも出入りできる。千鳥橋は、三の丸御殿(藩主居館)と城内を結んだ橋で、江戸時代は屋根付きで「御廊下橋」とよばれていた。北惣門橋は、内濠東側の家老屋敷と城内を結んだ橋。当時の姿で復元されている。一帯は松江城山公園として整備され、堀川(内濠)には「堀川めぐり遊覧船」が浮かぶ。
      
◆国宝 松江城天守◆
全国に現存する12天守の一つで山陰では唯一の天守
 
 
現存する天守のなかで、天守の大きさ(平面規模)では2番目、高さ(約30m)では3番目、古さでは6番目である。

 建築年代は1611年(慶長16)。天守は、附櫓を加えた複合天守で、外観5層、内部は6階である。壁の大部分は、黒く塗った雨覆板(下見板張り)でおおわれ、実戦本位で安定感のある武骨な体裁に、桃山風の壮重雄大な手法をみることができる。

 2015年(平成27年)7月8日、国宝に指定される。

◆松江城天守の構造◆
          


{附櫓}
 天守入口の防備をかたくするためにとり付けた櫓で、入口に鉄延板張りの大戸があり、入ると枡形の小広場が二段あって、侵入しにくいようになっている。


附櫓入口の鉄延板張りの大戸

附櫓から地階(穴蔵の間)への階段

地階は、籠城用生活物資の貯蔵倉庫。丸い桶のようなものは、深さ24mの自然石積みの円形井戸で、飲料水が得られた。


地階の塩蔵。慶長初期の築造法で長期戦や、ろう城の場合も考え、ここに米や塩など食料物資を貯蔵した。

{天守台の牛蒡積み石垣と下見板張り}
 牛蒡(ごぼう)積み〜石の大きな部分を内に、小さな面を表に出して、一見粗雑にみえるが、石組にしてはもっとも頑丈な積み方。
 下見板張り〜姫路城や彦根城のような塗籠造り(白壁)は少なく、その大部分が、黒く厚い雨覆板でおおわれている。


{千鳥破風}
 千鳥が羽根をひろげたような三角形の屋根をいい、天守の美観を構成する重要な部分。

千鳥破風の内部。屋根裏部屋のようなこの場所を「破風の間」といい、鉄砲狭間を設け敵と対峙する最前線の陣地でもあった。


{華頭窓}
 三層の中央にある寺院様式の窓で、一種の飾り。


内側から見た華頭窓

{石落(いしおとし)
 内側から見た石落。金網を張ってある部分で、鉄砲を下方に向けて撃つ狭間。


外側から見た石落。突上戸の上の、横に細長い壁から張り出している開口部。

{突上戸と矢狭間・鉄砲狭間}
 正方形のものは鉄砲狭間。縦長の長方形は矢狭間。


突上戸(つきあげど)は、戸を格子の外に上から吊り、外側に跳ね上げて開く。

鉄砲狭間

{天守内部}
 桐の階段。1階から4階の各階の間に設けてある。階段を引きあげたり、防火防腐のために桐を使用。


天守1階

寄木柱
 柱は、肥え松の一本の柱の外側に、板を揃えて寄せ合わせ、これを金輪で締めて太い柱が造られている。
 この寄木柱の方が、普通の柱より力学的に強く、吉晴の苦心の作である。

石打棚
 下方への攻撃がしやすいように、床の板敷きが窓と同じ高さに石打棚が造られている。

現存する江戸時代の松江城天守雛形。市の有形文化財。


天守最上階天井の棟札


天守最上階

{鯱鉾と望楼式}
 鯱鉾〜頭が虎で、胴体が魚、この想像上の霊魚を鯱といい、天守の屋根の頂に上げて飾る天守の象徴の一つ。
 望楼式(松江城の廻縁は室内に取り込まれた形式)〜天守の起源のひとつは四方を展望できる望楼であるが、現存する日本の天守のなかで松江城をはじめ姫路城や松本城などにみられる。



天守地階に展示の木造、銅板張りの鯱
天守から南方の松江市街と本丸跡を望む

 本丸跡に再建の南多聞櫓と一の門。屋根が二段になっている建物の屋根が高い方が南多聞櫓、低い方が一の門。

 一の門右手の小さい建物は登閣受付管理事務所。南多聞櫓上の洋風の建物は興雲閣((松江郷土館)。後方の湖は宍道湖。


 ◆大手門跡◆
 
かつてここには、櫓門が建っていた。手前の馬溜から大手門跡を入った所が二の丸下段。左方向に進み石段を上がると
二ノ丸上段となり復元された太鼓櫓・中櫓・南櫓が建ち並ぶ。写真左の石垣上の建物は太鼓櫓、樹木の後方は天守。



 ◆大手門跡(城内側)◆

手前の石段を上がって行くと二の丸上段へと至る

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{所在地}島根県松江市殿町

■松江城天守南面

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