このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

国宝 松本城

北アルプスを背景に黒を基調にした優美な姿を見せる天守

創始
 松本城は戦国時代の永正時代初めに造られた深志城が始まりです。戦国時代になり世の中が乱れてくると、信濃府中といわれた松本平中心の井川に館を構えていた信濃の守護小笠原氏が、館を東の山麓の林地区に移すと、その家臣らは林城を取り囲むように、支城を構えて守りを固めました。深志城もこの頃林城の前面を固めるために造られたのです。

 その後甲斐の武田信玄が小笠原長時を追い、この地を占領し信濃支配の拠点としました。その後、天正10年(1582)に小笠原貞慶が、本能寺の変による動乱の虚に乗じて深志城を回復し、名を松本城と改めました。(文は松本城リーフレットより引用)
天守築造
 豊臣秀吉は天正18年(1590)に小田原城に北条氏直を下し天下を統一すると、徳川家康を関東に移封しました。この時松本城主小笠原秀政が家康に従って下総へ移ると、秀吉は石川数正を松本城に封じました。数正(かずまさ)・康長(やすなが)父子は、城と城下町の経営に力を尽くし、康長の代には天守三棟(天守・乾小天守・渡櫓)をはじめ、御殿・太鼓門・黒門・櫓・塀などを造り、本丸・二の丸を固め、三の丸に武士を集め、また城下町の整備をすすめ、近世城郭としての松本城の基礎を固めました。天守の築造年代は、康長の文禄2年から3年(1593〜4)と考えられています。(文は松本城リーフレットより引用)
その後
 康長が改易されると、小笠原秀政が入封し、石川氏に継続して城下町の整備をおこなった。その後には戸田康長が入封して16年間の政治を行う。戸田氏に替わって松本城主となったのは松平直政で、御家門の権威を背景にして城の改修をおこない、天守に辰巳附櫓と月見櫓を増設したとされる。松平氏ののち、堀田氏、水野氏と城主はめまぐるしく替わり、享保11年(1726)に戸田氏が6万石で再入封して、以来9代で明治維新を迎えた。

 明治初期に松本城は破却されることになったが、地元有志の奔走によって天守だけが破却をまぬがれた。しかしその後荒廃し、明治30年頃には倒壊寸前になっていたため、明治36年から天守の修理を大正2年まで行う。戦後になると、文化財保護思想も高まり、昭和25年から30年にかけては、国直営の天守保存工事が行われた。それ以後各種の建物や施設の整備復元が行われている。
江戸時代中期の松本城の様子
       
 本丸と二の丸からなるこの地域は、松本城の中枢部である。本丸には、本丸御殿(政庁)と5重の天守がそびえていた。二の丸には、東から二の丸御殿(藩庁)、古山地御殿(城主私邸)、藩の籾蔵、幕府の八千俵蔵(備蓄米2000石貯蔵)、焔硝蔵が並び、また、外敵に備えて5棟の隅櫓がおかれていた。なお、現在二の丸御殿跡は平面復元されている。
内堀にそびえる松本城天守
      
現存する日本最古の5重天守(外観5層、内部6階)。戦うための黒い堅固な天守を中心に天守左側(北)には乾小天守を渡櫓でつなぎ、平和な時代になって造られた天守右側(東)には優雅な辰巳櫓と月見櫓が付属する。
国宝指定建造物
天守・乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓
所在地長野県松本市丸の内
別名深志(ふかし)城
地形平城
文化財指定区分5棟の天守群が国宝(大天守・乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓)。一帯の遺構は国史跡。
遺構国宝の5棟の天守群。本丸と二の丸東部分の石垣や堀。三の丸惣堀の一部。
復元建造物黒門桝形と太鼓門桝形
黒門(一の門)が昭和35年(1960)復興、黒門(二の門)と袖塀は平成2年(1990)復元。平成11年に太鼓門復元。

◆城碑と黒門(左後方)

◆内堀に聳える国宝・松本城天守

松本城と城下町
城郭の北東上空から南方を望む鳥瞰図

◆天守最上階(6階)の天井。天井は井桁梁でがっちりと組まれている。天井中央にまつられているのは、二十六夜神という松本城を守る神様。

◆二の丸(八千俵蔵跡)から望む乾小天守・渡櫓・天守

◆月見櫓の内部。北・東・南の舞良戸(まいらど)を外すと、三方がふきぬけとなり、天守・渡櫓・乾小天守には見られない開放的な造りになっている。

◆月見櫓。月見をするための櫓で、周りには朱塗りの回縁(まわりえん)がめぐらされている。

(上)天守の南東(辰巳)にある辰巳附櫓2階の花頭窓。
(右)花頭窓の内側。

◆本丸御殿跡から望む天守の連なり
5重6階の大天守を中心に、乾小天守を渡櫓で連結し、辰巳附櫓と月見櫓を複合した「連結複合型天守」。現存する五重の天守としては、最も古いものといわれ、外壁は大壁塗りの白漆喰仕上げで、腰は下見板の黒漆塗り。大天守と渡櫓で結ばれた乾小天守が文禄期(1592〜96)の石川氏の築城といわれている。

西からみた国宝天守群

 ■本格的な近世城づくりが始まったのは1580年代で、城郭と城下町一体の都市計画を推進したのは、豊臣大名としてこの地に入った石川氏である。3重の水堀と塁を巡らして郭の縄張りを行い、本丸と二の丸を内郭とし三の丸を外郭とした。内郭には天守、御殿、蔵など城主と藩の施設を置き外郭は城主の親衛隊である上級家臣の屋敷地とした。厳重な城門を構える虎口(桝形と馬出し)だけが城内への通路である。
 ■現在は、野麦街道の上方がJR松本駅、太鼓門の左前方には松本市役所が建つている(鳥瞰図は城内説明板より転載)

◆二の丸(籾蔵跡)から望む天守・辰巳櫓・月見櫓
石垣は野面積みで、勾配がゆるく直線的で低い。泰平の世になってから増築された「辰巳附櫓」と「月見櫓」は、寛永期(1624〜44年)の松平直政の増築であるといわれている。

◆天守最上階(6階)

◆天守最上階

◆松本城天守の階段は、1階から6階までに7箇所設けられており、どの階段も勾配が急(55度〜61度)である。

◆突上戸(つきあげど)。板製の戸を格子の外に上から吊り、外側に跳ね上げて開く戸。

◆唐破風

◆左の方形のものは鉄砲狭間、右の長方形のものは矢狭間。

◆内側から見た石落。石落は石垣を登ってくる敵を防ぐ工夫で、狭間と同じように鉄砲を使っての攻撃も可能な武備。

◆石落(いしおとし)と狭間(さま)。天守では、戦国時代の主力武器であった鉄砲戦への様々な備えを見ることができる。

◆天守内部から見た千鳥破風。格子窓がつけられ、内側に数人が入れるスぺースを設けて攻撃拠点にしている。

◆天守の象徴である千鳥破風と、装飾部材の六葉(ろくよう)と蕪懸魚(かぶらげぎょ)、縦横の格子とした木連格子(きづれごうし)。

◆野面積石垣。手前は天守台の石垣、奥は辰巳附櫓台の石垣。

◆渡櫓1階は天守への入口(大手口)となっており、渡櫓は、左側の天守と右側の乾小天守をつないでいる

◆御座の間(天守4階)。書院造り風のこの部屋は、いざというときには、城主がいるところ(御座所)になった。

東からみた国宝天守群
南からみた国宝天守群
■本丸御殿跡からみた乾小天守(右端)・渡櫓(真中の一段低い建物)・天守(左端) 乾小天守の形式は三重四階で、建築年代は文禄元年(一五九二)。乾小天守左の一段低い渡櫓の形式は、二重二階で、建築年代は慶長二十年(一六一五)頃。一階は天守への入口である大手口。 渡櫓は、右端の乾小天守と左端手前の天守とをつないでいる櫓。

◆乾小天守の内部
三重四階の乾小天守は、天守の北に位置するのに、乾と呼ばれるのは、北は叛く、敗れるなどの意があり、忌み嫌われたからである。乾小天守は天守と構造が異なり丸太柱が使用されている。用材はツガ・モミ・アスヒで、表面仕上げは手斧はつりである。

<左上>千歳橋
江戸時代は大手橋。橋を渡ると、道は鉤の手に曲がって松本城へ進んでいく。
<右上>大手門桝形跡
松本城正門の大手門(南御門)には、最大規模の櫓門と高麗門が置かれていた。今も鉤の手になっており、直進をはばむ構造をした大手門枡形の名残りである。
<左>女鳥羽(めとば)川
女鳥羽川は武田信玄によって堀の替わりに造られた流路で、この川を境に左側(南)が町人地、右側(北)が武家地と区分され、居住区分は厳格で士と町人の混在は全くなかった。

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