このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

<天守をめぐる>
【本壇(ほんだん)
 本壇は、本丸の北側に位置し、天守・小天守など城の中枢となる建物が配置されています。そのため、本丸広場より更に約8m高く石垣が築かれ、出入口は一箇所に限定されるなど防備は厳重です。天守は更に約4mの高さの石垣(切石を隙間なく積み上げる切込ハギによる)上に構築されています。

 本壇石垣の隅々には櫓が配置され、渡塀または多聞櫓などで接続されています。それらには石落・狭間・突揚戸が設けられています。

 出入口から天守に至るまでには、両側を石垣と櫓や塀で囲まれた中、幾つもの門をくぐりながら、何度も屈曲する道を経なければならず、侵入した寄手はあらゆるところから狙い撃ちされるように仕組まれています。

 昭和8年(1933年)に小天守、南や北の隅櫓、玄関などが焼失し、残された天守、天神櫓、塀、門などは同10年(1935年)国宝に指定されました。焼失した建造物の復興は、同41年(1966年)から着手され、同43年に竣工しました。なお、天神櫓は同20年(1945年)の空襲で焼失しましたが、同54年(1979年)に復元されました。天神櫓を除き、国宝に指定されていた建造物は、同25年(1950年)の法改正により重要文化財になりました。
(文と絵図は現地説明板より)

▼屏風折石垣と本壇の建築群


松山城天守(南面) 重文
 築城時は5層であった天守を、松平定行が1639年(寛永16)に3層に改造したが、1784年(天明4)の落雷で焼失。幕末に再建され、1852年(嘉永5)に現存する天守が完成。城郭建築の歴史ではこの天守が最終期となるが、外装は創建時の武備の構えを忠実に踏襲し、慶長期の古格をたたえている。

 地下1階、地上3層3階。南北の外壁は、1層が千鳥破風、2層は唐破風、東西面はいずれも千鳥破風で飾られ、3層には廻縁をめぐらす3層建連立式平山城。

 

◆松山城天守の意匠◆
 
 1・2層に飾られた千鳥破風
  
 最上階(3層)の廻縁

 
 天守の象徴の一つである鯱(しゃち)
  頭が虎で、胴体が魚、この想像上の霊魚を鯱という。

 
 突上戸
  板製の戸を格子の外に上から吊り、外側に跳ね上げて開く形式
 
 梅鉢懸魚(うめばちげぎょ)
  装飾部材のこと。
 
 兎毛通(うのけどおし)
  唐破風に付けられる懸魚。

 
 穀倉入口(外側)
  現在は、天守の入口に使用されている穀倉は、天守の地下1階にあたり、俗に米蔵という。内部に防腐力の強い樟材を使用し、床に素焼きの煉瓦を敷いて湿気を避けている。約2千俵の米を収蔵できる。

 
 穀倉入口(内側)
 ◆天守の内部◆
  
 地下1階の穀倉

 
 2階への階段
 
 1階
 
 最上階(3階)

天守最上階(3階)

 幕末の再建により、内部は天井張りや畳敷き、床の間(中央)の設置など、天守の居室化の跡がある。

狭間
 狭間(さま)とは、天守や櫓、土塀の壁面に設けられた、矢や鉄砲を撃つために開けられた穴のこと。縦長の矢狭間と、円形や三角形、四角形をした鉄砲狭間とがある。


鉄砲狭間の「アガキ」
 外側の口に対し、内側の口を倍ほど大きくしたものを「アガキ」という。
城跡からの眺望〜松山市中心部
 
  


このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください