このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

松山城

天守が現存する全国12城の一つ

国指定史跡/重要文化財21件

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二之丸史跡庭園 / 登り石垣

【松山城周辺図】

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【沿革】
■松山城の創設者は、豊臣秀吉に仕え、「賤ヶ岳七本槍」で有名な加藤嘉明(かとうよしあき)で、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦では徳川家康に従軍し、戦功のあった加藤嘉明は、松山平野のほぼ中心に位置する勝山に築城することを徳川家康よりゆるされた。慶長7年(1602年)より工事を始め、標高132mの山頂部分に本丸を置き、5層の天守を持つ松山城の建築に着手、山麓に二の丸、北の郭を設けた。慶長8年(1603年)に嘉明は居を新城下に移し、初めて松山という名称が公にされた。その後も工事は継続され、築城に26年かけたが、寛永4年(1627年)会津へ転封される。
■そのあとへ蒲生忠知が入国したが、在城7年目に参勤交代の途中、京都で病没し、その後寛永12年(1635年)伊勢国(三重県)桑名城主松平定行が松山藩主15万石に封じられて以来、14代世襲して明治維新に至った。
■寛永19年(1642年)、松平定行が天守を3層に改築したが、天明4年(1784年)に落雷にあい、本壇の多くの建物が焼失。天守も焼失したが、その後、しばらく再建されず、ようやく嘉永5年(1852年)に復興し、安政元年(1854年)、盛大に落成式がとりおこなわれた。これが現在の天守閣である。したがって最末期の天守である。
■遺構〜天守・櫓・門・塀・井戸・石垣他

▲松山城本壇<天守(右端)と小天守(中央)>
城郭建築史上、藩政時代に造られた最後の連立式天守。標高132mの城山に建つ平山城。天守や城門櫓、土塀など21の建造物が重要文化財に指定。姫路城に次いで多くの建造物が残されている。
「別名」勝山城・金亀城    「所在地」
愛媛県松山市丸の内

■松山城の天守の構成形式は、典型的な連立式。天守と二基以上の小天守(または隅櫓)を中庭を取り囲むように建て、それらを渡櫓で連結した形式。

 
乾門東続櫓東折曲り塀の石落
 屏風折の石垣上に張り出された袴腰式石落。天守をはじめ、松山城の建造物は、土壁に黑い板を貼り付けた「下見板張り」を基調としている。
 

<交通アクセス>
JR予讃線「松山」駅から伊予鉄道(路面電車)「道後温泉行」で約10分「大街道」下車、徒歩約5分で城山ロープウエイ着。約3分で山頂駅。

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