このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

水城跡

水城跡
<昭和28年3月31日特別史跡指定>
 7世紀中頃の朝鮮半島では百済(くだら)・新羅(しらぎ)・高句麗(こうくり)の三国が抗争を繰り返していました。663(天智2)年、朝廷は唐・新羅に攻撃された百済を支援するため多くの兵を送りましたが、白村江(はくすきのえ)の海戦で敗れました。

 唐・新羅の日本への来攻を恐れた朝廷は、大野城をはじめ各地に防御施設を造りました。水城もそのひとつです。

 水城は福岡平野からの外敵を防ぐため、664(天智3)年吉松丘陵と国分の丘陵を塞ぐように築かれた土塁です。土塁はほとんどが人工の盛土で造られ、長さ1.2km、土塁の幅77m、高さが9mあります。

 土塁には内濠から外濠(福岡側幅60m)への導水施設である木樋(もくひ)が数ヶ所設置していました。また土塁を通過する官道には東西それぞれに城門がありました。

 大野城市から春日市にかけても丘陵の谷間を塞ぐように、上大利(大野城市旭ヶ丘)、大土居(春日市昇町)、天神山(春日市天神山)などの小水城と呼ばれる土塁があり、水城とともに防衛線を形成していました。

※各写真は、現地説明案内板より転載し、加筆

▼水城跡第二広場から望む土塁の一部
現在は樹木が繁っているが、土塁は土を突き固めた堤で、木などは生えていなかった。右端は九州道で分断されているが、さらに奥に土塁は続く。

【東門礎石】

▲「左図」現在地(水城跡第二広場)から見た東門、水城土塁

水城跡とは
「水城」の名の由来
 『日本書記』には、「大堤を築きて水を貯えしむ。名づけて水城といふ。」と記しています。それを裏付けるように、発掘調査により濠と木樋が発見されました。

 また東門近くの井戸からは墨で「水城」と書かれた土器(左写真)が見つかり、これにより当時の人が実際にこの土塁を水城と呼んでいたことがわかりました。
土塁の構造
 土塁は上下2段に分けて造られており、横からの断面は凸字形です。土塁を築くにあたり、板でわくを作りその中に粘土や砂を交互に敷き、一層づつ杵でつき固めて盛り上げる版築(はんちく)や、盛土の間に樹木の枝葉を敷き詰めて基礎が滑らないようにする敷粗朶(しきそだ)工法が採用されていました。これらの工法は、時代を超えて現代の土木技術の中に生きています。


 木樋(もくひ)は太宰府側から土塁の中を通って福岡側の濠に水を流すための導水管です。取水口には調節のための水門がありました。全長約80mで、板材を組み合わせ、内法で幅1.2m、高さ0.8mの箱形をしています。底板は厚さ20cm以上のヒノキ材を鎹((かすがい)で留めています。木樋は現在までに、3本確認されています。
水城跡東門周辺の遺構
東門礎石
 水城は664年に築造された土塁で、この国分側の丘陵と住宅街になっている吉松丘陵との間1.2kmを塞ぐように造られています。土塁には門が2ヶ所造られ、吉松丘陵裾に西門、国分丘陵裾に東門が造られました。

 この付近には、水城の東門があったと考えられています。和歌には「岩垣の水城の関」(夫木集)とも詠われ、石垣を伴った城門であったことが想像されます。古来から太宰府の入口として交通の要衝であったことから、城門に関する遺構は壊されてしまい、ほとんど残されておらず、東門のものと考えられる礎石が残っているだけです。

 礎石は、240×80cmの長方形で、礎石上面には円形と方形の彫り込みがあり、この形から江戸時代には鬼の硯石(すずりいし)ともいわれていました。 
構造復元図
 礎石上面に彫り込まれた円形の穴には、左図のように門柱を据え、もうひとつは門扉開閉の際の軸受けの役目を果たします。方形の穴は扉と門柱との隙間を塞ぐ方立(ほうだて)を据えます。

 旧街道付近に東門があったと考えられていることや礎石の彫り込み穴の位置関係から、礎石は建築当時の位置ではないことがわかります。発掘調査でも江戸時代末頃の撹乱層の上に礎石がのっていることがわかりました。
江戸時代後期頃の東門礎石(『筑前名所図会』巻四 福岡市博物館所蔵)
 江戸時代から、『筑前国続風土記』などの地誌にこの礎石のことが記され、『筑前名所図会』には挿図とともに「東の方大路の傍らに、門の礎一つ残れり、是を俗に鬼の硯石といふ」と記されています。

【太宰府側から見た樹木に覆われた大堤(土塁)】

【木樋取水口】

▲東門跡から見た第二広場

※水城跡第二広場は、水城跡見学者用の無料駐車場で、トイレも完備。説明板も設置され、土塁がよく望める広場です

▼「上図」現在地(第二広場)拡大図

▲水城跡東門周辺図

※現在、土塁は九州自動車道、国道3号線、西鉄天神大牟田線、JR鹿児島本線などによって分断されている

▲防御施設であった土塁が残る太宰府市の水城(みずき)跡
太宰府市水城、国分、吉松の地域に築かれた土塁は、太宰府前面を1.2kmにわたって遮断する。

国分丘陵側
吉松丘陵側
◆東門木樋跡(木樋取水口)と土塁
■前のページに戻る
■地域別訪問城&訪問城マップに戻る

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください