このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

▲太宰府跡(特別史跡)と背後の山は大野城が築かれた四王寺山

 ▼特別史跡 大野城跡 『百間石垣

大野城と水城
大野城
                 ◆特別史跡 大野城跡◆
 斉明天皇6年(西暦660)、朝鮮半島では日本の友好国百済(くだら)が唐(とう)・新羅(しらぎ)連合軍によって滅ぼされました。日本は百済を救うために大軍を派遣しましたが、天智天皇2年(663)、白村江(はくすきのえ)の戦いで大敗し、日本軍は撤退しました。
 
 以後、唐・新羅の侵攻に備えて、国防体制の充実が急がれ、大和朝廷は太宰府を防衛するために、天智天皇3年(664)水城(みずき)を築き、翌年の天智天皇4年(665)には、亡命百済貴族の憶礼福留、四比福夫に命じて大野城を築かせました。
 
 大野城は四王寺山の尾根をめぐって土塁を築き、また、土塁が谷と接する部分は石塁を築き、城内には倉庫などが建てられた。このような構造を持った山城は、百済の山城がモデルとなっているので朝鮮式山城と呼ばれている。
(文は城跡説明案内板より転載。以下同じ)

【所在地】福岡県糟屋郡宇美町、太宰府市、大野城市の2市1町にまたがる
【史跡区分】四王寺山のおおむね標高100m以上の区域が国特別指定史跡(昭和28年3月31日指定)
地形種類 標高410mの四王寺山(しおうじやま)に築かれた朝鮮式山城

 大野山の名を四王寺山ともいうのは、宝亀5年(774)仏教の力で新羅を降伏させようとして、大野城内に四天王を祀る寺を建てたことに由来。

※復原想定図は城跡説明板に一部加筆の上転載。
概略大野城とは
 ここ四王寺山の一帯には、今から約1350年前の西暦665年から造られた朝鮮式山城の跡があります。名を大野城(おおのじょう)といい、頂上域全体を囲むように土や石の城壁を巡らし、その中に建物を建てました。約70棟の建物跡が見つかっており、そのほとんどが高床の倉庫と考えられます。

 城壁は総延長約8kmにおよび、その途中4箇所に出入口の城門を設けました。
 この大野城は同時に築かれた基肄(きいの)城(眼下の平野をはさんで向い側(南)にある基山)、前年の664年に造られた水城(みずき)とともに太宰府を守る役目を果たしました。

大野城が築かれた理由
 7世紀の中頃、朝鮮半島では高句麗・新羅・百済の三国が抗争を繰り返し、唐と手を結んだ新羅から、百済と日本の連合軍は大敗するという事件(白村江の戦い)が起きます。唐と新羅の侵攻を恐れた日本は北部九州を中心に防衛網を作りますが、その一つが大野城、基肄城、水城なのです。
大野城図
 大野城へは、今回が初訪問です。あらかじめ下調べをして行きましたが、城跡はあまりにも広大で、体力と時間の関係で一部しか見ることが出来ませんでした。

大野城の構造<城壁と建物> 
 城壁は尾根の部分は土塁(土をつき固めて積み上げる工法を用いた城壁)、谷の部分は石垣を築いています。高床倉庫は柱が立っていた石だけが残っていますが、その上には上図③のような建物が建っていたと考えられ、倉庫内には米や武器などを収納していたと思われます。

 近くの倉庫群跡(尾花礎石群)周辺からは炭化した米が見つかり、この場所は焼米ヶ原(やきこめがはら)と呼ばれています。
大野城の土塁 大野城は、周囲を延長約6.8km(二重部分を含めると約8km)にわたってつづく城壁でかこまれています。このうち、おもに谷の部分は石垣でつくられていますが、その他の大部分は土をつみあげて築いた土塁となっています。

 しかし、平成15年7月の豪雨災害で、大野城の土塁も被害をうけたため、もとどおりに直す工事が行われた。工事に先立って発掘調査をおこなった結果などから、この土塁は、7世紀後半に中国よりつたわった技術である「版築」工法でつくられたことがわかりました。版築工法で城壁をつくる場合、丸太材と板材をくみあわせて外枠を作り、その中に性質の異なる土(粘性土と砂質土)を広げ、固くつきかためながら一層ずつ盛り上げ、最後に木材を外して土の壁とします(左図)。

<版築土塁の試験施行>
 土塁崩壊部の復旧工事にあたっては、1300年以上前につくられた当時の工法を尊重することが必要であり、発掘調査の成果をもとに古代の工法をうけついで土塁をつみなおすことにしました。しかし、古代の版築工法はすでにうしなわれてしまっていたため、これを現代によみがえらせるため、試験的に小さな土塁をつくりました(左写真・説明板より転載)。

下の写真は版築土塁の試験施行の土塁を展示したもので、突きかため、何重にもつみかさねた土の層が読みとれる。

■復元されたおもな遺構■
百間石垣
 大野城の城壁は土を高く盛り上げた「土塁」で囲んでいるが、起伏の激しい地形のため谷間は土塁でなく石を積み上げたダムのような石塁とし、急傾斜部は石垣を作るなど工夫をこらしている。
 
 この百間石垣の名称は、四王寺川の部分を石塁とし、それに続く山腹部を石垣とした城壁で、長さが180mほどであることから名付けられたものである。

 平均4mくらいの高さが残っており、川底部では石塁幅は9mほどある。外壁面の角度は75度前後である。
尾花礎石群(焼米ヶ原)
 ここには10棟の建物の跡が残っている。

 これらは礎石が各建物の範囲内に碁盤目状に配置されており、床を人の背丈ほどに高くし、それを多数の柱で支える建物であった。

 このようなもので有名なのは奈良・東大寺の正倉院がある。大野城でも倉庫として武器や食糧などの備蓄のために建築されたものであろう。
尾花礎石群10棟の建物跡
 10棟の建物は、ほぼ南北方向に5棟が一列に並び他の5棟もそれぞれ計画的に配置されている。建物の大きさは梁行6.3m桁行10.5mで統一されている。
 (建物跡図は説明板より)



<左>焼米ヶ原側より、土塁後方の右下に位置する太宰府口城門跡方向を望む。
<右>
土塁後方は焼米ヶ原。右側は城外。

太宰府口城門 
         
八ッ並地区
 ここは城内のうち中央部からやや西側の場所にある。当地区には14棟の高床の建物跡があり、倉庫として作られたものであろう。このうち10棟は西方の傾斜面に大規模な土地造成をして配置計画したもので、城内建物群中もっとも整然としている。


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