このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

盛岡城下の旧跡を訪ね歩く

盛岡城周辺地図(盛岡駅前の案内板より)

原 敬(はら たかし)(1856〜1921)
 大正期に活躍した政治家。「平民宰相」として名高い。1918年、内閣総理大臣に就任。1921年、東京駅駅頭にて暗殺される。享年65歳。

■北上川は、かっては盛岡城のすぐ西を南流して中津川と合流、外堀の役割を果たしていた。開運橋たもとからみた花壇。後方の橋は旭橋。

【上の橋の擬宝珠】
 上の橋は、盛岡城の築城とともに架けられた橋。築城時、南部利直は中津川に上・中・下の3橋を架け、上の橋には1609年(慶長14)の紀年銘の擬宝珠(ぎぼし)が取りつけられた。その後、洪水で流された擬宝珠の補充のさいにも、この慶長年銘が刻まれた。

 盛岡市の木 カツラ

新渡戸稲造(にとべいなぞう)(1862〜1933)

▲盛岡城跡・芝生広場

■石川啄木
「ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな」

▲盛岡城跡公園(岩手公園)・中津川畔よりの、芝生広場の「岩手公園」と題した宮沢賢治詩碑。
詩は、布教のかたわら盛岡中学で英語を教えたタピング氏と、その夫人を懐かしんで、賢治の死の1か月前、1933年(昭和8)8月につくられた。

▲東側の腰曲輪から内堀を越えると、その先は芝生広場。

〜盛岡城跡・芝生広場の賢治「岩手公園」詩碑〜

■宮沢賢治

盛岡ゆかりの人々

 盛岡市の鳥 セキレイ

中津川河畔の盛岡城跡と、後方の橋は中の橋。

東側から見る岩手銀行中の橋支店。

▼岩手銀行中ノ橋支店

▼ござ九・森九商店

▼盛岡消防団の番屋(紺屋町番屋)

 盛岡市の花 カキツバタ

中津川

中津川に架かる上の橋

(かみ)の橋の擬宝珠〜国の重要美術品

▼県公会堂前に建つ原敬胸像

▼石割桜〜国の天然記念物

▼御田屋清水〜「盛岡三清水」の一つ

■開運橋

▼北上川と開運橋花壇


■与の字橋の東側にある和洋折衷の番屋。
1913年(大正12)に盛岡消防団第5分団として建築、大正年間の木造洋風事務所建築の典型とされる。現在も、番屋として使用されている。

■1816年(文化13)に創業。
とくに「ござと畳」を売り、当主が代々森九兵衛を名のったことで、「ござ九」と親しまれた。
江戸末期の遺構。


■歴代盛岡藩主が使用した湧水 盛岡城下第一の清泉として公供、大奥御用、茶道に利用された。明治維新後、市民に開放。
■巨大な花崗岩を割って咲きでた、樹齢三五〇余年のエドヒガンザクラ 樹高約十メートル、幹周り五・五メートル。 県庁の西隣り、盛岡地方裁判所の庭前にある。 この場所は、かつて藩の重臣北家の屋敷があったところ。

■1911年(明治44)に建てられた、赤レンガ造りの旧盛岡銀行。
民間の店舗として全国初の国の重要文化財に指定された。

「左上」
下の橋門跡から、下の橋を渡った先にある新渡戸稲造生誕地。

「右上・左」
生誕地跡地にたつ新渡戸稲造像。

下の橋際に建つ「ちゃぐちゃぐうまこ」の歌碑。

歌は4首あり、はじめの1首は、
   夜明げには
   まだ間あるのに
   下のはし
   ちゃんがちゃがうまこ見さ出はたひと
「雨ニモマケズ」の詩や、童話「銀河鉄道の夜」などで知られる宮沢賢治の井戸。
‘賢治の井戸’は、上の歌碑の右奥に行った所に残されている。
石川啄木(1886〜1912)
岩手県南岩手郡日戸村(現在の盛岡市玉山区日戸)にて生まれる。
「三行書き」の短歌という、近代短歌に新たな世界を切り開いた詩人。

(写真左)
盛岡城二の丸に建つ石川啄木の歌碑。
歌碑には、
「不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし十五の心」と刻まれている。
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