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国史跡 小田原城 【神奈川県小田原市】
[歴 史]■小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中頃と考えられています。16世紀初め頃に戦国大名小田原北条氏の居城となり、関東支配の拠点として次第に拡張されました。豊臣秀吉の小田原攻めに備えて築造された、城下町を囲む延長9Kmにおよぶ総構(そうがまえ)(高い土塁と、深い空堀で構築された防御施設)の出現により、城の規模は最大に達しました。
■北条氏滅亡後徳川家康の家臣大久保氏が城主となると、城は近世城郭の姿に改修されます。大久保氏改易後に城は破却されますが、寛永年間に稲葉氏が城主となると再び改修工事が実施され城の姿は一新します。大久保氏が再び城主となりますが、元禄16年(1703)に発生した地震により天守はじめ城内の各施設はほぼ倒壊焼失していますが、本丸御殿等を除き再建され、小田原城は関東地方の防御の要衝として幕末まで存続します。
■明治3年(1870)に小田原城は廃城となり、売却された後、次々と解体されました。城址は御用邸時代を経て地元自治体に払い下げられ現在にいたっています。現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と総構の一部が、国の史跡に指定されています。また、本丸を中心に「城址公園」として整備されています。
[城地種類]平山城
[復元建造物]昭和35年(1960)天守閣復興。昭和46年(1971)常盤木門(ときわぎもん)復興。平成9年(1997)銅門(あかがねもん)復元。平成21年(2009)馬出門(うまだしもん)復元。 <写真は、小田原駅西口に立つ北条早雲公像。文は現地説明板を参照>  HP作成日=平成25年(2013)11月
▲小田原城(地形種類=平山城)天守を望む
 室町時代に大森氏の築いた城を明応4年(1495)、北条早雲が奪い、以後、北条氏5代約100年にわたる居城となり、関八州(関東8カ国)掌握の本城として拡張されていく。総構に守られた城は難攻不落と謳われ、中世城郭史上に例のない巨城の出現をみる。戦乱の世にあって小田原城は、上杉謙信、武田信玄の侵攻をかわし、秀吉も武力で小田原城を落とすことはできなかった。天正18年(1590)、秀吉の策略によって、北条氏は城を明け渡し滅亡した(この北条氏を鎌倉幕府当時の北条氏と区分して「後北条氏」と称することもある)

北条早雲(1432?〜1519)=姓名は伊勢盛時、通称新九郎。生年を疑問とする説もある。今川氏の食客から戦国大名になる。北条早雲は伊豆を制圧後、小田原城を攻略して本拠とする。末裔が豊臣秀吉に滅ぼされるまで、北条氏5代は関東一円に猛威をふるった。北条氏5代=北条早雲〜氏綱(早雲の子。北条氏2代)〜氏康(氏綱長男。北条氏3代)〜氏政(氏康次男。北条氏4代)〜氏直(氏政次男。北条氏5代)関東には、上野国(群馬県)、下野国(栃木県)、常陸国(茨城県)、上総・下総・安房国(千葉県)、武蔵国(東京都・埼玉県)、相模国(神奈川県)の8カ国があり、俗に「関八州」と呼ばれた。
▼小田原城天守
 三重四階の天守櫓に付櫓、渡櫓を取り付けた複合式の構成形式。構造は新式の層塔型である。昭和35年(1960)に地上38.7mの鉄筋コンクリート造で復興された。なお、最上階の高欄付き廻縁は復興に際して新に付けられた。
 天守閣は、城の象徴として本丸に構えられたものです。寛永11年(1634)には、三代将軍徳川家光が小田原城の天守閣に登り、武具を見たり展望を楽しんだという記録が残っています。
 元禄16年の大地震のときには、小田原城のほとんどの建物が倒壊・焼失してしまいましたが、天守閣は宝永3年(1706)に再建され、明治3年(1870)の廃城まで小田原のシンボルとしてそびえていました。
 現在の天守閣は、昭和35年(1960)5月に、市制20周年の記念事業として復興したもので、宝永時代の再建時に作成された引き図(設計図)や模型を参考に、鉄筋コンクリートで外観復元したものです。
 天守閣の内部は、古文書、絵画、武具、刀剣などの歴史資料の展示室となっています。標高約60mの最上階からは相模湾が一望でき、良く晴れた日には房総半島まで見ることができます。

(写真上)天守閣から望む相模湾
(写真左)同じく本丸跡。後方は常盤木門

 小田原合戦攻防図
(現地説明板に追記の上、掲載)

 黄色部分は、後北条氏時代の城郭規模(小田原合戦攻防図を参考)を示す。小田原城の一番外側にある総構は、小田原北条氏が城と
城下町を土塁や堀で囲んだ全長約9Kmの防御施設です。これは、天正18年(1590)の豊臣秀吉との合戦に備えて構築されたもので、
小田原が戦国時代最大の城郭都市であったことを示す歴史的価値の高い文化遺産です。八幡山古郭は当時の主郭があったと推定される。

地図に追記された①②③は、近世城郭(徳川家康家臣・大久保氏以後)の小田原城域で、①は三の丸跡、②は二の丸跡、③は本丸跡となる。

▼八幡山古郭・総構


 八幡山古郭は、八幡山丘陵の尾根上、標高69m付近の平坦部を中心とした戦国期小田原城の遺構が集中している場所で、当時の小田原城の主郭があったと推定されるなど、小田原城を考える上で重要な場所です。県立小田原高校校地内で行われた発掘調査では、城の虎口(出入口)部分を形づくっている障子堀(堀の中に仕切りを伴う堀)や石組を持つ大規模な井戸跡が発見されました。現在でも所々に土塁や堀が残されています。
 平成13年(2001)に発掘調査を行った伝肇寺西第Ⅰ地点では、幅16.5m、深さ10.0mの障子堀が見つかっています。

 後北条氏滅亡後、関東を領有した徳川家康の家臣大久保氏が城主となり、その後を継いだ嫡子忠隣(ただちか)が、慶長19年(1614)に改易されると、幕府の命で、小田原城の規模は「三の丸」の内(①=三の丸、②=二の丸、③=本丸)に縮小され、石垣や城門・外郭が取り壊された。寛永9年(1632)、稲葉正勝が新城主になると、天守・本丸御殿・櫓・石垣などの大改修がおこなわれ、近世城郭としての姿を整えていく。

▲八幡山古郭 東曲輪
 東曲輪は八幡山古郭の東寄りに位置します。平成17年(2005)に行われた発掘調査では、16世紀代の半地下式の倉庫等と考えられる方形竪穴状遺構や掘立柱建築跡が発見されたことから、戦国時代にはこうした施設を伴う曲輪のひとつであったと考えられます。
 東曲輪からは、西方に天正18年(1590)の小田原合戦の時に豊臣秀吉が本陣をすえた石垣山一夜城を望むことができます。さらに東には、天守閣を中心に周囲に広がる小田原城下を望むことができる。


▲小田原城天守から見た八幡山古郭・東曲輪
 小田原城と東曲輪の間には、JR東海道本線が通る。

▲小峰御鐘ノ台大堀切東堀(こみねおかねのだいおおほりきりひがしほり)
 この大堀切は、東堀、中堀、西堀の3本からなる戦国時代に構築された空堀です。北条氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めに対し、総構といわれる周囲約9Kmの堀や土塁を構築し、その中に城のみならず城下町までを取り込んだ戦国期最大級の城郭を築きました。
 この大堀切東堀は、総構以前に構築された三の丸外郭に相当し、本丸へと続く八幡山丘陵の尾根を分断しており、敵の攻撃を防御するために築かれた空堀です。


▲小峰御鐘ノ台から望む石垣山一夜城
 写真中央の鉄塔後方辺りが石垣山一夜城となり、小田原城から約3Kmの距離である。
 
▼江戸時代の小田原城

 三の丸は、二の丸、御用米曲輪(ごようまいぐるわ)、南曲輪を取り囲むように配置されており、三の丸一帯には家老級の屋敷が建ち並んでいた。二の丸は藩主の御殿と藩庁が置かれ、能舞台を設けた壮麗な建物群があった。本丸に建つ本丸御殿は将軍の御成(おなり)御殿として用いられ、格調高い建物が並んでいた。徳川家康・秀忠・家光など、上洛の途の将軍が宿泊した。(写真は小田原城歴史見聞館(二の丸跡)にて撮影。加筆し掲載)

▲幸田口門跡
 江戸時代の小田原城の三の丸の土塁跡。この場所の西側に幸田門(こうだもん)という三の丸の入口があった。戦国時代に上杉謙信や武田信玄が小田原城を攻めた時には、この幸田門から小田原城を攻めたと考えられています。

▲大手門跡
 江戸時代の小田原城の大手門があった所。この門を入ると西側一帯(奥方向・突当りは二の丸)は三の丸となり、道の両側に小田原藩の家老級の屋敷が並んでいた。
 それまで箱根口付近にあった大手門を、稲葉氏が城主であった寛永10年(1633)に、三代将軍徳川家光が京都に上るのに備えて、江戸に向く現在地に移し、大手門前までの道は将軍家が小田原城に入るための、御成道として整備され、東の入口であった江戸口見附も、国道1号線沿いの現在の位置に移された。


▲箱根口周辺
 江戸初期、城主稲葉氏によって大改修が行われ、東海道からまっすぐに城内に入れたものを改め、木戸を通り左に折れてから、さらに鉤の手に折れて桝形門(ますがたもん)に入る厳重な形に直された。

▲箱根口門跡
 箱根口門は、大手門・幸田口門と並ぶ重要な門であった。現在残っている石垣は、桝形の東の櫓台である。
  
《小田原城を歩く》
 
(現地説明板に一部加筆の上、掲載)

▲二の丸東堀
 小田原駅から「お堀端通り」を進むと、まず最初に東堀に至る。朱色の橋は学橋で、その奥(南側)には、二の丸隅櫓、馬出門土橋が連なる。

 
▲二の丸東堀に架かる学橋
 学橋(まなびばし)のたもとには、幕末まで藩校集成館(しゅうせいかん)があった。

▲二の丸隅櫓
 隅櫓は、関東大震災で崩落し、昭和9年(1934)に再建。右は学橋。

 
▲馬出門土橋(めがね橋)
 小田原城の正面入口。ここから本丸までたどります。馬出門土橋(うまだしもんどばし)を渡った所に、平成21年3月に馬出門が完成した。
 この写真は、馬出門が復元される以前の馬出門土橋の様子です。

▲二の丸東堀越しに望む「馬出門(左側)」と「二の丸隅櫓」 

▲馬出門土橋と馬出門
 馬出門は、二の丸正面に位置する門で、江戸時代の初期からこの場所に存在し、寛文12年(1672)に桝形形式の門に改修された。
 馬出門とは、騎馬兵を出す場所の意味で、出撃時、城兵を敵から隠すことができる。

▲城内側から見た馬出門
 馬出門は、馬出門と内冠木門の二つの門を配し、周囲を石垣と土塀で四角に囲んだ構造。左側の門は土橋を渡って最初にくぐる馬出門。右側の門は内冠木門といい、馬屋曲輪へ通じる。


御茶壺曲輪から見た馬屋曲輪
 右側の建物は観光案内所(昭和初期建築の旧市立図書館)2階に歴史資料展示室がある。
 観光案内所の左奥(南東隅)には、当時、二重櫓(右城図の隅櫓)が建っていた。
 
 馬屋曲輪は、L字型を呈する独立した曲輪。周囲に石垣を巡らせ、その上に土塁と塀を備えていた。曲輪内には、馬屋と大腰掛の二棟の建物を中心に番所、井戸があり、南東隅には隅櫓があった。
 この曲輪は、三の丸より東側は「馬出門」、南側は「南門」を経て「御茶壺曲輪」から「銅門」へと至る重要な位置にある。
 馬出門Aは馬出門、Bは内冠木門。内冠木門をくぐると左手には大腰掛(登城者の待機所)の建物があった。

御茶壺曲輪に残る土塁
 右後方は、銅門。土塁手前は南門跡、右側は御茶壺曲輪。

銅門
 馬屋曲輪から見る銅門。住吉橋と内仕切門、その後方は櫓門。

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