このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

所在地
■岡山市丸の内

■交通ガイド
 JR山陽新幹線・山陽本線「岡山」駅から岡山電気軌道(路面電車)東山線「城下」下車、徒歩6分。
【地形種類】
■平山城
 旭川の西方の丘陵を城地とする平山城として築かれた。

 写真(右)は、旭川西方の丘陵にそびえる本丸に建つ復元天守。城のある丘は岡山と呼ばれ、岡山の地名の起こりといわれています。

 宇喜多秀家は旭川の川筋を付け替え、掘った土をこの丘に盛り上げて、岡山城本丸の土台をつくった。
【岡山城地図】
▼本丸周辺図

 内堀は城郭の中心である本丸を西(左)と南(下)から画し、その外側の西南の平地に二の丸、三の丸を配した縄張となっている。

 曲輪配置による岡山城の分類は、本丸の二方や三方を二の丸が取り囲む梯郭式(ていかくしき)の縄張。本丸の背後には旭川が控え、本丸を守っている。※上と右の図は、城内説明板より転載・追記。
▼御城内御絵図に示された江戸時代の本丸

 本段の御殿は、藩主の住居であり、中の段に建つ表書院は、岡山藩の政治が行なわれた建物で、数棟からなり、大小60を超える部屋があった。岡山城本丸は、一二三の段(本段・中の段・下の段)で構成されている。
【岡山城の歴史】
▼岡山城復元(外観)天守
 天守台は、北側に大きく突き出た不等辺五角形をした野面積(のづらづみ)石垣で、岡山城の特徴でもある。
■岡山城のあらまし(岡山城発行リーフレットより)
 
「安土城に建築ありし制に擬して天守閣を設く。その制三重造にて五重・・・」と、古い記録(『岡山城誌』)にもあるように、この岡山城(国指定史跡)は、本格的な城づくりのスタートとされる織田信長の築いた安土城にならって作られた日本を代表する城郭建築で、城の研究には避けて通れない貴重な城である。


 いつも豊かな清水をたたえて流れる旭川、日本三名園の一つ「後楽園(国指定特別名勝)」を背景にしたこの城は、天守閣の基壇(天守台という)が北に大きく突き出た不等辺五角形という、全国に全く例のない珍しい形をしており、また塩蔵を併設した複合の天守閣である。
 
 かつての岡山城の場所は、今の天守閣のある位置より西に300mほどいった、現在市民会館や放送局の建っている高台(『石山』という)にあった。

 天正元年(1573)、宇喜多(うきた)直家(なおいえ)が、当時ここの城主であった金光宗高を滅ぼし、その城を修築した後、沼城(岡山市沼)から移ってきた。
※写真(右)は、直家時代の岡山城(石山城)旧本丸跡。なお、右端の建物は月見櫓。
 
 今の岡山城を築いたのは、宇喜多直家の実子、秀家(ひでいえ)で、時の天下人、豊臣秀吉の養子となって「秀」の一字をもらった人物である。秀吉が天下を握ると、秀家は父の遺領である備前・美作のほかに備中の一部ももらい、57万4000石の大大名となった。そして年若くして、参議従三位という異例の出世をとげ、「備前宰相」と呼ばれた。こうなると、今の石山の小さな城では満足できず、秀吉のアドバイスに従い、現在天守閣の立つ場所「岡山」という名の小さな丘の上に、新しく旭川の流れをつけかえて、掘削した土砂を盛り上げ、上中下三段の地形を造成した。

 そして天正18年(1590)から本格的な城づくりを開始した。途中、秀吉の朝鮮半島への侵攻には、総大将として出陣したが、帰ってくるとすぐに工事を継続し、ついに慶長2年(1597)の天守閣の完成で一応城づくりの全工事を完了した。起工以来実に8ヶ年にも及ぶ大事業であった。新しく出来上がった本丸(城の中心部分、内堀に囲まれた範囲)は、現在も殆んど昔のまま残っている部分で、面積が約4万㎡あった。
 
 秀家の築いた天守閣は、石垣からの高さが20.45m、二階建ての建物を大中小の三つに重ねた三層六階の構造である。外壁の下見板には黒漆が塗られていたので、太陽光に照らされるとあたかも鳥(からす)の濡れ羽色によく似ていたため、「鳥城(うじょう)」の別名がある。壁が黒いのは、戦国時代の名残りである。

 また天守閣の内部には、かつて城主が生活をしていた「城主の間」の遺構が再現されていて、全国的にも珍しい設備である。他の城でこの実例があるのは、天文6年(1537)の建築といわれる犬山城だけである。かつての岡山城の範囲は、現在路面電車の通っている柳川筋や番町筋(当時の外堀跡、二十日堀ともいわれる)までで、建物の数としては、櫓が35棟、城門が21棟あり、当時はわが国を代表する名城であった。
 
 しかし明治2年(1869)、岡山城は国の所有となったものの、これら全ての建物を維持していくことができず、明治15年(1882)以後に残されたものは、僅かに天守閣・月見櫓・西丸西手(にしまるにして)櫓および石山(いしやま)門の4棟であった。

 その後、これらは昭和6年と8年(1933)の二度に分けて国宝に指定されたが、昭和20年(1945)6月29日の早暁、第2次世界大戦による市街地空襲で、惜しくも天守閣・石山門を焼失してしまった。現在の天守閣は、昭和41年(1966)11月3日、市民の長年にわたる要望で作られた鉄筋コンクリート造りだが、外観は全く旧来通りに再現された。また同時に、不明(あかずの)門・廊下門・六十一雁木(がんぎ)上門、それに周囲の塀なども、古い絵図面に従い、外観が旧来通りに再現された。
 
 この本丸内で戦火を免れた唯一の建物は、中段=表書院跡=の北西隅に建つ月見櫓(国指定重要文化財)である。
 これは岡山城第5代城主、池田忠雄(ただかつ)によって、元和・寛永年間(1615〜1632)に建てられたものである。この名称のある建物は、全国的にも極めて数が少なく珍しい遺構である。この櫓は、文字通り「月見」という風流を楽しむために用いられたようだが、本来の目的は、この中段=表書院の北西を防衛するためのもので、櫓自体も武器の貯蔵庫になっており、隠し銃眼(鉄砲を撃つための狭間)や中世的な石落としの装置などが設けられている。

 
またこの付近にある塀の土台石には、全国的にも珍しい、当時の最新式装備の銃眼石(石狭間、狭間石ともいう)を並べている。またそのそばには、穴蔵式の火薬貯蔵庫・古井戸・流し台なども残っていて、昔を偲ぶよすがとなっている。

 
さて石垣に目をやると、現在広い範囲に残っている石垣の殆んどは、昔のままの状態で保存されていることで、全国的にもあまり例がない。特に貴重なのは、天守閣を中心にこれを広く取り巻く石積みが、丸い形の自然石を用いた野面積であることである。これは日本全国に近代的な城づくりが始められた頃(安土桃山時代の初め)の古い形式のもので、貴重な文化遺産である。
 
 
一方、月見櫓を支えている付近の石垣は、前の野面積とは異なり、石の周辺を平らに加工した割り石を用いた石積みで、石の周囲の隙間に詰め石(小詰、合石という)を施した打込接(は)ぎという工法である。「扇の勾配」とも言われるように、石垣のカーブの美しさが特徴である。
 岡山城本丸の下段には、南から西にかけて、城を取り囲むように造られている堀は内堀で、ほぼ昔の原形をとどめている。また、ここへ通じる橋(内目安橋、内下馬橋という)の城側の手前には、巨石で築かれて四角な場を形成している。「升形(ますがた)」と呼ばれるところで、本丸の正面入口に当たる城門のあった場所である。これらの石垣も含め、岡山城で使われている石の全ては、花崗岩の宝庫である瀬戸内海の犬島から運ばれたものである。
 
 
石段(写真・右)を上った中段広場(写真・下左)は、「表書院」と呼ばれ、かつては備前(岡山)藩の政治を行なうための建物(写真・下右。今の『県庁』に相当する)が立ち並んでいた所で、65室の部屋と庭園があった。
※鉄門(くろがねもん)跡
 下の段の南側から表書院へ通じる櫓門。木部の全体を鉄板でおおったいかめしい門があった。

※岡山城の史跡整備のみどころ
 写真(上)左側の池は、表書院の中庭にあった泉水(せんすい)を復元したもので、発掘調査で出土した遺構は地下に保存されている。水が漏らないように底に漆喰を貼り、北東の井戸から備前焼の土管で給水する仕組みで、中の島に湧水口を設けていた。また、地表面に明治維新を迎えた時の表書院の建物の間取りを標示している。
 
 「不明門(写真・右。再建)」を通り抜け、石段を上りきった天守閣のある上段は「本段(写真・下左。天守からみた本段)」と呼ばれ、城主自身の生活に必要な建物が立ち並んでいた所で、築山や池のある庭園も作られていた。この広場の南東の一画(写真・下の左側部分)には、多くの石を整然と並べた場所(写真・下右)がある。これらは、昔の天守閣の礎石を移したもので、かつてはこの状態で重く大きな天守閣を支えていたのである。

※天守閣の礎石
 天守閣は昭和20年6月の戦災で焼失し、昭和41年に元の位置に鉄筋コンクリートで再建されたため礎石のみをここに移し、元の通りに配置している。
 なお、戦火を免れたもう一つの建物は西丸西手(にしまるにして)櫓(写真・左。国指定重要文化財)で、この城から西に300m行った内山下(うちさんげ)の場所にある。これは、姫路城の城主、池田輝政の子、利隆(としたか)が藩政の代行でやってきた慶長8年(1603)に建てたものである。
■文化財指定区分
国指定史跡(岡山城本丸)
国指定特別名勝(後楽園)
重要文化財(月見櫓・西丸西手櫓)
■遺構
月見櫓・西丸西手櫓・本丸・後楽園・石垣・内堀・伝旧本丸
【歴代城主】
【岡山城の史跡整備】
<発掘調査で発見された地中に埋もれていた石垣の実物展示>
▼[宇喜多秀家が築いた中の段の西辺石垣]
 もともと、石垣は南辺にも続いていたが、城を改造する時に石を抜かれたため南辺の石垣がなくなっている。抜かれた石垣は新たに築かれた外側で現役の石垣に転用されたと考えられる。

 ▲石垣の本来の高さは10mほどあり、下の段から積まれている。頂部は壊れているが上方の高さ約3m分を露出展示している。石は主に花崗岩で、加工を施さない自然石を横向きに積んでいる。


 ▲石垣を埋め込んだ造成土からは、金箔をおした桐の文様の瓦が、平成8年に出土した。桐は宇喜多秀家が豊臣秀吉が家紋として与えられたもの。この石垣の上、つまり秀家期の中の段には、こうした瓦を葺いた華麗な建物があった。

▼[角が尖った珍しい石垣]
 石垣の辺と辺がなす角度は70度。これほど角が尖った石垣は全国的にみて非常に珍しいものです。

▲平成5年度の発掘調査で発見された埋没石垣。
 江戸時代の初めに城を改造する時に、この石垣を埋め込んで「中の段」を北に大きく広げたために埋没した。

▲赤枠が左写真の展示部分。
 拡張後の中の段には「表書院」の御殿が建てられ、この場所の真上は台所になった。
【再建造物】

▲廊下門
 本丸の搦め手にある城門。城門奥の石段上は「中の段」。門扉の上に敵を迎え撃つための部屋を備えていた。部屋は本段と中の段を結ぶ城主専用の廊下としても使用されており、廊下門と呼ばれていた。現在の門は1966年に再建された。


▲不明門(あかずのもん)
 本段御殿の正門。中の段から本段への上り口にある櫓門。本段御殿と表書院(中の段)の往来には北側の廊下を通ったため、この門は平素は閉じられていた。1966年(昭和41)、鉄筋コンクリートで復元。

▲六十一雁木上門(ろくじゅういちがんぎうえもん)
 本段から川手に通じる石段道の上にある門で、段が61段あったことからこう呼ばれた。本来は高麗門であったが、1966年に簡素な薬医門形式の木造で復元。

▲戦災前の岡山城天守
 復元天守については掲載済みにつき省き、天守古写真を掲載。
【重要文化財建造物】
▼国指定重要文化財 岡山城月見櫓
 月見櫓は、岡山城本丸を構成する一二三(ひふみ)の段の二段目に当たる中の段の北西角を固める隅櫓で、池田忠雄が岡山城主であったときの城郭整備に伴い、元和年間から寛永年間前半の時期(1620年代)の建築と判断されています。構造は、一部地下付きの塗籠造り本瓦葺き2階建てで、城外(北西)側から眺めると2層の望楼型の様相を示し、城内(南東)側から眺めると3層の層塔型の景観を呈しています。
 規模は、地階と1階が桁行(東西)32尺3寸(9.79m)・梁間(南北)26尺2寸(7.94m)・2階が方形で桁行・梁間とも16尺5寸9分(5.03m)、棟高45尺4寸(13.67m)です。

▲月見櫓城内側
 2階の東面と南面には雨戸を立ての手摺付きの縁がめぐり、城内側が日常生活仕様となっていて、平時にも月見を始めとした四季の眺望と小宴を催すのに格好の構造となっている。


▲月見櫓城外側(北面)
 1階には石落し付きの出格子窓、2階には唐破風造りの武者窓を設けて城外側への備えを厳しくしている。その一方で、城内側は回廊造りである。

▼国指定重要文化財 岡山城西丸西手櫓
 
 西丸西手櫓は、岡山城本丸の外周を固める帯曲輪である二の丸内屋敷の西の郭西端を守る隅櫓で、城主の池田忠継が幼少のため兄の池田利隆が統治を代行していた慶長8(1603)年頃に建築されたといわれています。構造は、塗籠造り本瓦葺2階建で、1・2階とも桁行(南北)5間(10.36m)、梁間(東西)3間半(7.27m)、棟高35尺(10.60m)の規模です。
岡山城本丸へ入城

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください