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 閑谷学校の歴史
 旧閑谷学校は、備前藩主池田光政が、庶民の教育を目的として寛文10年(1670)に設立した郷学である。徳川光圀・保科正之とならんで天下の三名君のひとりにあげられた池田光政は、藩政の目標を儒学の教える仁政の実現におき、寛永18年(1641)には、岡山花畠に儒者をつぎつぎと招き、家臣の教育のため全国にさきがけて、寛文9年には岡山藩校を城下西中山下に開設した。さらに庶民の子弟に及ぼすため、寛文8年、領内123ヵ所に手習所を設置したが、延宝3年(1675)にはその全てを廃止してこの閑谷の地に統合した。

 寛文6年(1666)、光政は領内を巡視してこの地にいたり、「山水閑静にして読書講学」にふさわしい場所であるとし、寛文10年仮学校を開設し、この地の旧名「木谷村延原」を「閑谷」と改め、家臣津田永忠に命じて後世にまで残る学校の建築をはじめさせた。現在目にすることのできる閑谷学校の姿が完成したのは、光政没後の元禄14年(1701)、2代目藩主綱政の治世のことで、江戸時代の学校の規模をもっとも完全に残しているものとして特別史跡に指定されている。建造物は講堂が国宝に指定されているほか、重要文化財に指定されているものが25件を数える。閑谷学校の名声は、古くから天下に聞こえていたようで、高山彦九郎・菅茶山・頼山陽・大塩平八郎・横井小楠などの学者文人も来遊しており、大鳥圭介など藩外からの来学もあった。(中略)
 
 ところで、綱政は、元禄13年、閑谷の田畑山林高279石の地を永代学田学林とし、万一国替などの際にも学校経営にいささかも影響をうけないようにとの保証を与えたのだった。しかし、明治の廃藩置県・学制の改革等による大変革によって、閑谷学校も他の全ての藩校同様、廃校となった。同時にまた、閑谷学校の歴史を閉じてはならないとする旧藩士や民間有志によって、明治6年、山田方谷を迎えて閑谷精舎として再発足し、さらに明治17年(1884)、西薇山らによって閑谷黌として復活を見てからは、明治37年私立閑谷中学校と改称、大正10年には岡山県閑谷中学校となり、多くの俊秀を世に送りだしてきた。

 戦後、岡山県立閑谷高等学校につづいて和気高等学校閑谷校舎となり、昭和39年までその中等教育の場として学校の歴史をつないできた。現在は和気本荘の地に県立和気閑谷高等学校がその伝統を受け継いでおり、孔子の徳を称えまつる釈菜(せきさい)も、その教職員によって、執行されている。現在特別史跡については、岡山県が管理団体として指定され、財団法人特別史跡旧閑谷学校顕彰保存会によって顕彰されている。併せて、岡山県青少年教育センター閑谷学校が青少年の研修の場として教育活動を展開している。(現地説明板より)
閑谷学校図

 学校は四周を延長765メートルに及ぶ石塀(せきへい)で囲み、南側に校門(鶴鳴門)・公門・飲室門・校厨門の4門が開き、なかに聖廟(せいびょう)・閑谷神社(芳烈祠(ほうれっし))・講堂・小斎(しょうさい)習芸斎(しゅうげいさい)飲室(いんしつ)・文庫などが配置されている。備前焼の赤瓦がまわりの緑にはえて美しく、石塀とともに閑谷学校に特有の景観を与えている。かつては火除山(ひよけやま)をへだてて西側に学房(寄宿舎)がおかれていたが、現在は明治38年(1905)建築の旧私立・公立中学校の校舎であった資料館があり、国の登録有形文化財として関係資料の展示を行っている。石塀の南には東西にのびる泮池(はんち)があり、重要文化財指定の石橋がかかっている。さらに1.2キロメートル南方には当時の校門であった石門(せきもん)が4分の3ほど土に埋もれて現存している。(現地説明板より)
 閑谷学校の国宝・重要文化財建造物
      
     <旧閑谷学校講堂(国宝)・小斎(国重要文化財)>
 講堂は閑谷学校の中心的建物で、桁行7間、梁間6間、一重の入母屋造りの堂々とした建物で、屋根は備前焼の本瓦葺、大屋根の上に小屋根が覆いかぶさった(しころ)葺が特徴である。小斎(講堂左側の建物)は藩主が学校を訪れた際使用される建物で、一重入母屋造、柿葺の簡素な造りである。
※文は書名・閑谷学校(発行者・財団法人特別史跡旧閑谷学校顕彰保存会)および現地リーフレットを参照して作文。以下同じ。

講堂の内部
 講堂は10本の欅の円柱にささえられて、母屋(もや)(ひさし)の間に分かれ、花頭窓(かとうまど)を設けて美観をそえている。母屋東側の小壁には池田治政の「克明徳」の額、北側には「朱文公学規」、および「定」の壁書が掲げられている。


講堂 附 壁書1枚(国宝)
 伊豫(綱政)と署名のある3ヵ条からなる「(さだめ)」の壁書(へきしょ)

講堂の四囲をめぐる回縁と花頭窓
 左前方は国重文の小斎。

国重文 習芸斎・飲室
 習芸斎は課業規則に「習芸斎三・八の日、講釈、五経並賢伝類、読書師輪番に相勤、」とあるように教室として使用されたものである。
 飲室は、師匠・生徒の休憩所。炉や流し場がある。

 

習芸斎の内部
 前方奥の部屋は講堂となり、講堂・習芸斎・飲室と連なっている。

習芸斎から見た飲室の内部
 中央には炉が設けられている。


国重文 小斎

国重文 公門
 表側から見た公門(こうもん)


国重文 公門
 内側から見た公門。藩主臨学の際に使用した門で御成門ともいう。本柱の後ろに控柱2本を建てて切妻屋根をのせる薬医門様式の建物で、石塀が築かれた元禄14年(1701)の時点で設置された。両側練塀も公門の附指定、国重文。

国重文 文庫(ぶんこ) 
 閑谷学校の教科書・参考書をおさめた書庫で、中央の階段を上がった左右の床に8千点余が所蔵されていた。漆喰塗で固めた上を瓦葺きにした置屋根式で、前室には三重の土の戸を含む六層の戸が設けられている。
 文庫後方の樹木が茂らない丘は、人工で築かれた火除山。

国重文 石塀
 石塀(せきへい)は校門(鶴鳴門)の左右から出発して、学校の敷地を一周し765mに達する。巾・高さともに約2mの蒲鉾型の石組みで、不整形な石を隙間なく巧妙に組合せている。元禄14年の築造で、未だ草一本も生じていない。


石塀と飲食(いんしつ)
 石組は「切り込みはぎ式」と呼ばれる精巧なもの。このような構造物は他に例がなく、備前焼瓦と並んで、閑谷学校に独特の景観を演出している。

国重文 飲室門
 後方は、火除山。西(写真左)には学舎や学寮があり、平生の勉強や生活はこちらで行われていた。現在は閑谷学校資料館が建つ。


閑谷学校資料館
 旧本館(旧閑谷中学校本館、明治時代の数少ない木造校舎)を改装し、資料館として整備したものである。国登録有形文化財。

国重文 泮池石橋
 閑谷学校には校門(鶴鳴門)の外に泮池(はんち)と呼ばれる、巾7m、長さ100mをこえる池が造られ石橋が架けられている。これは藩校の象徴として設けられたと思われる。

国重文 校門(鶴鳴門)
 聖堂の正面に位置する閑谷学校の正門で校門というが、桟唐戸の門扉が開閉するとき鶴が鳴く声に似た音がするところから鶴鳴門と呼ばれた。屋根は切妻造り、備前焼本瓦葺きで、門の両袖に花頭窓をもつ付属室を備えている。門と付属室の屋根にそれぞれしゃちほこを載せ、門の入口の上端の隅をまるめて花頭口とし、荘厳優美なつくりとなっている。


(かい)の木
 楷は東南アジアや中国に自生するウルシ科の植物。大正4年(1915)林学博士白沢保美氏が中国から楷の実を持ち帰り育苗したのが日本における最初のものである。その内の2本が大正14年に閑谷学校に寄贈され移植された。秋の紅葉が非常に美しい。楷の木の後ろは聖廟。


国重文 聖廟と閑谷神社
 旧閑谷学校聖廟11棟、閑谷神社(旧閑谷学校芳烈祠)8棟の建造物が国の重要文化財に指定。
特別史跡 旧閑谷学校 
附 椿山、石門、津田永忠宅跡及び黄葉亭
 
 
特別史跡 旧閑谷学校
 国宝の講堂、国重文の聖廟、閑谷神社を望む

特別史跡旧閑谷学校 椿山(つばきやま)
 閑谷学校が現在目にする形に完成した翌元禄15年(1702)津田永忠が閑谷学校守護の願いを込めて築いた。四囲に400本近い薮椿が植えられており神々しい雰囲気をかもしだしている。椿谷ともいう。


椿山「御納所(ごなっしょ)
 閑谷学校の創始者である岡山藩主池田光政の髪、髭、爪、歯をおさめた供養塚である。

特別史跡旧閑谷学校 石門(せきもん)
 この石門は、岡山藩主池田光政が庶民教育のために設けた閑谷学校の校門として、元禄10年(1697)に立てられたものである。江戸時代には、ここから北が閑谷学校の校地であり、門の両側には柴垣が設けられていた。門柱の高さは3.80メートル、直径は0.63メートルあり、建立当時は幅員2メートル余りの道をはさんでこの石門がそびえたっていたが、その後の数次にわたる埋立てによって、現在はおよそ3分の2が地中に埋もれている。閑谷学校で学んでいた生徒は、服装を正してこの門を通ったといわれている。


特別史跡旧閑谷学校 津田永忠(つだながただ)宅跡
 池田光政の命を受けて閑谷学校を創立した津田永忠の屋敷跡。光政没後も綱政に郡代として登用され閑谷学校を現存する姿に完成させるとともに各地で多くの土木事業を成功させた。晩年は現在の和気町奴久谷に隠棲した。

特別史跡旧閑谷学校 黄葉亭(こうようてい)
 文化10年(1813)、武元君立・有吉行蔵、両教授によって建てられた休息所で、来訪した頼山陽や菅茶山もここで茶を楽しみ酒を酌み交わしている。頼山陽に「黄葉亭記」がある。


所在地:備前市閑谷
交通:JR山陽本線吉永駅から車で10分

  続 閑谷学校

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