このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
※城を築く場合、石垣の積み方には、野面積み(のづらづみ)・打込接ぎ(うちこみはぎ)・切込接ぎ(きりこみはぎ)という種類があるが、和歌山城では、すべての積み方がみられる。野面積みは、自然石や粗加工の割り石を積んだもの。打込接ぎは、石垣を構成する大きな石材のあいだに、小さい石材をうちこんだようにみえる積み方。切込接ぎは、精加工の石材を使用し、石材と石材のあいだの隙間がほとんどない積み方。
和歌山城 続編
采配〜軍陣で、大将が打ち振って指揮するのに用いた道具。
大天守礎石
「城外側から見る岡口門」
▲標高48.9mの虎伏山の頂上に築かれた連立式天守。写真は、和歌山市役所の14階から撮影
転用石
天守曲輪の石垣は緑泥片岩(りょくでいへんがん)を用いた野面積みで、桑山氏から浅野氏にかけて築かれたと考えられている。乾櫓の北東側石垣には、経典を収める「宝筴印塔(ほうきょういんとう)」を転用した隅石がある。
転用石
転用石→
埋門
天守曲輪の台所下にある間道。ここから曲輪の北側にぬけ、丘陵の西側をまわって南の不明門(あかずのもん)から城外にでるようになっていた。
■本丸は標高48.9mの虎伏山(海上から見た形態が虎の伏した姿に見えることから虎伏山と呼ばれる)の頂に位置し、東部の本丸御殿跡と西部の天守郭(曲輪)で構成されている。
■本丸御殿は、浅野期には二の丸と呼ばれ藩主の日常生活が営まれたが、徳川期以降はその機能を失い空御殿になった。天守郭は、大天守・小天守・御台所・乾櫓・二の御門櫓・楠門を多聞で連結し、楠門を閉じると要塞化する連立式天守の形態をとる。
■江戸初期の天守は、弘化3年(1846)の落雷により焼失した。幕府は通常、城郭再建を許さなかったが、和歌山城は御三家紀伊徳川家の居城であったため特別に許可され、4年後の嘉永3年(1850)に「有形の通」に再建された。
この再建天守は、その後10数年間は天守台のみの姿であったが、和歌山城再建を望む市民の熱意によって、昭和33年(1958)に鉄筋コンクリート造の天守が復元された。
石垣の刻印〜石垣の石に、符号のようなものを刻したものがある。俗に「天下普請」といわれる、各大名たちが手伝いをして築城した江戸城・大阪城・名古屋城・篠山城などに多数みられる。
和歌山城にも、刻印された石垣石がある。刻印石垣の多い場所は、新裏坂周辺で、ほとんどが浅野時代に築かれたものとみられる。
和歌山城の石垣は、天正時代に桑山重晴によって築かれた。このときの石種は緑泥片岩(りょくでいへんがん)、積み方は”野面積み”である。緑泥片岩とは、近世城郭では和歌山城と徳島城にしか使われていないめずらしい石で、色彩的にも美しい石である。
大天守の内部は、歴史資料の展示室になっている。
▽二の丸庭園(二の丸跡)
▽一の橋から見る北堀と石垣
石垣の向う側は二の丸。
▽一の橋と大手門(昭和57年・復元)
池に浮かぶ鳶魚閣
紅葉渓橋と御舟石
▲岡口門と土塀(右側の木の間に見える)
▼大天守模型
▼小天守と大天守
▼御台所
▼小天守〜2層2階。大天守の北西側に連結している。唐破風付きの玄関を付属。
▼天守二の門〜天守曲輪への入口の櫓門で、総楠造りであったため、「楠門」ともよばれる。多聞櫓によって東は大天守と連結し、西は二の門櫓と接している。戦災で焼失した天守曲輪のうち、二の門だけが木造で復元された。
北堀に架かる一の橋を渡り、大手門を通ってまっすぐすすむと(写真・左。城内側)、切込接ぎの美しい、一中門跡の桝形(写真・右側)にいたる。
慶長時代(約1600年〜1614年)、城と石垣は浅野幸長(よしなが)によって修築されている。石種は和泉砂岩。積み方は、”打込接ぎ”だった。
三浦家紋入 革製水汲み。江戸末期。
▽銀明水〜裏坂の途中にある井戸。本丸の日常用水として使用されたと考えられる。
和歌山城の重要文化財建造物
その他の和歌山城の現状
紀州てまりは、幼少で紀州に嫁いだ姫君のためにつくられたのが始まりという。
▼大天守〜戦災(1945年)によって焼失し、現在の天守は1958年(昭和33)に築かれた鉄筋コンクリート造りであるが、外観は寸分違わず復元されている。
▲茅門
▽御橋廊下(おはしろうか)〜平成18年3月完成。藩主とお付きの人だけが二の丸と西の丸を行き来するために架けられていた橋。外から見えないように部屋の廊下のような作りになっている。
—豊臣・桑山時代の野面積み—
—徳川時代の切込接ぎ—
「松の丸櫓台方向から見る岡口門」
「岡口門の北に続く土塀」
「岡口門と背後にそびえる大天守」
二の門櫓と乾櫓(右端)
小天守
大天守と小天守(大天守の手前)
天守曲輪(大天守・小天守・二の門櫓・乾櫓)
▽裏坂
本丸跡への石段
▽石垣内側の雁木(がんぎ)〜東堀沿いの石垣上には、城兵が自由に動きができる石段が造られている。
▲鳶魚閣(えんぎょかく)と御橋廊下。「鳶魚閣」は堀の園池に据えられた4本の花崗岩の柱の上に建つ、檜皮葺花頭付き釣殿風の建物。昭和48年復元。
和歌山城大天守からの眺望〜乾櫓の向こうに、紀ノ川河口を望む。写真・右は岡口門と東堀。
葵紋鬼板
山吹渓〜天守曲輪の北側で、虎伏山(とらふすやま)の北部山麓にあたる、二の丸から西の丸庭園への通路。石垣と内堀とのあいだにあるため、渓谷のような風情がある。
—浅野時代の打込接ぎ—
松の丸櫓台の高石垣
▲城の南東に位置する、江戸時代の遺構。浅野時代の後期に大手門から搦手門として修復された。櫓門だが、左右にあった櫓、御蔵が明治初年にとりこわされている。現存する江戸時代の門は、この岡口門と西側の追廻門のふたつのみ。
▼二の門櫓
▼乾櫓
▼二の門(城外側正面より)
▼二の門(城内側)
▽史跡 和歌山城 城内案内図
▽JR和歌山駅〜和歌山城周辺
南の丸の高石垣
小天守鯱
▽追廻門(おいまわしもん)
門外に馬術の稽古場があり、この付近で馬を追い廻したためこのように呼ばれた。高麗門の様式で、当初から殿様御座所の裏鬼門を封じるため、赤い顔料が塗られていた。
▽南の丸の空堀跡
今はつつじ園になっている。
国名勝 西の丸庭園
▲岡中門跡(手前)
▲右側の石垣は松の丸櫓台石垣
本丸御殿跡
■この地の上段を本丸御殿跡という。本丸御殿は天守閣附随建物として元和年間に創建されたもので中央に「七福の庭」を配していた。本丸御殿跡には大正12年(1923)上水道貯水池が設置され現在に至っている。
◆和歌山城の石垣〜和歌山城の魅力のひとつは、石垣の多彩さである。豊臣・桑山時代の野面積み、浅野時代の打込接ぎ、徳川時代の切込接ぎというように、ひとつの城で石垣の変遷をみてとれる。
※岡口門=和歌山城創建当時の大手門に位置し、岡口門とその北に続く白壁は重要文化財
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |