このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

徳川御三家の一つ
  紀伊徳川家の城郭

和歌山城

1585年(天正13)、豊臣秀長は兄豊臣秀吉の命をうけて和歌山城の築城にとりかかった。しかし秀長は和歌山城の完成を見ずに大和郡山に移り、その後、秀長の家臣である桑山重晴が城代として入城。桑山氏は14年間の在城期間に和歌山城の本丸部分を中心に築城を進めた。

1600年(慶長5)、関ヶ原の戦いで軍功のあった浅野幸長が37万6千石を領して和歌山城の城主となり、桑山氏は大和布施に移封された。浅野氏は19年間の在任中に、二の丸部分を整備させたり、一橋門を大手にするなどその後の基礎となる築城工事を次々に行った。

1619年(元和5)、浅野氏は安芸国広島へ移封され、徳川家康の第十子徳川頼宣が55万5千石を領して入城。以後和歌山城は、御三家紀伊徳川家14代の居城となり、明治まで「南海の鎮」として、幕府の西国支配の拠点という新たな役割を担うことになる。
なお、藩の財政を立て直した紀伊徳川家の第5代藩主・吉宗は、後に藩主から8代将軍となる。

■所在地
和歌山県和歌山市
■地形種類
平山城
■文化財指定区分
国史跡   重要文化財(岡口門とその土塀

▼追廻門〜門外に馬術の稽古場があり、この付近で馬を追い廻したためこのように呼ばれた。創建は1629年(寛永6)と伝えられ、当時から朱がぬられていた。往時を偲ぶ重要な遺構。

▼岡口門〜1621年(元和7)、徳川氏が搦手門(裏門)として建造した門。櫓門形式。

【天 守】

【現在に残る遺構】

【和歌山城と歴代城主】

▼岡口門の北に続く土塀と東堀

▼石垣

徳川頼宣の家紋
「紀州三つ葵」

1871年(明治4)廃藩置県によって和歌山城は廃城となり、1901年(明治34)に和歌山公園として初めて公開された。又1931年(昭和6)には文部省より史跡に指定せられ、更に1935年(昭和10)5月には天守閣隅櫓、楠門等が国宝建造物に指定されたが、1945年(昭和20)7月戦災を蒙り、焼失してしまった。その後、1958年(昭和33)に鉄筋コンクリート造りの天守が復元。

石垣がよく旧状をとどめ、内堀は東側が往時の規模を伝える。建造物では、江戸時代の門である岡口門(重文)とその土塀(重文)および追廻(おいまわし)門が残っている。

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