このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

文化財指定区分/遺構・現況

<再訪問日>平成26年6月


【別名】虎臥城(とらふすじょう)
【所在地】兵庫県朝来市和田山町竹田字古城山
【地形種類】山城。標高約354mの古城山の山頂部に曲輪が配置
【歴史】
 嘉吉元年(1441)、嘉吉の乱勃発後、山名氏と赤松氏の間に深刻な対立が生じていました。竹田城はこの時、赤松氏に対する山名氏の最前線基地のひとつとして築城されました。以後、太田垣氏7代にわたり城主となりますが、天正5年(1577)、羽柴(豊臣)秀吉の但馬攻めにより、羽柴秀長が城代となりました。これ以降、竹田城は織豊方の拠点城郭として機能しました。

 天正8年(1580)、羽柴秀長は出石・有子山城に入り、その後、竹田城は秀長の属将・桑山重晴に預けられました。さらに、天正13年(1585)、桑山重晴が紀伊和歌山城代に転じると、赤松広秀が城主となり、数年の歳月をかけて、現在見られるような総石垣の壮大な城に修築した。広秀は、九州征討、朝鮮の役等に出役したほか、領民には産業を奨めて深く敬慕された。関ヶ原の役には西軍に属した。関ヶ原敗北後、徳川方として鳥取城を攻め、戦功をあげたにもかかわらず、城下に火を放ったことで徳川家康の忌避にふれ、鳥取真教寺において自刃し果てた。享年39歳、慶長5年10月28日のことである。城も廃城となった。昭和18年9月8日、国史跡に指定。
【縄張り(平面構成)
 天守台を中心に北千畳、花屋敷、南千畳など放射状に設けられた縄張りの規模は南北400m、東西100mに及び、完存する石垣遺構としては全国屈指。自然石を巧みに配置した穴太積みの石垣は、400年を経た今でも当時の威容を誇っている。
【遺構】
 嘉吉年間、山名持豊(宗全)が播磨・丹波から但馬への侵入路に位置する要衝の地に13か年を費やして築いたものと伝えられてきた。築城当時の城には石垣はなく、曲輪を連ねただけのものであった。それが現存の完成された城郭に整備されたのは、天正〜慶長初期と推定されている。石垣は近江穴太(あのう)衆の手による穴太流石積み技法を用いた“野面(のづら)積み”である。石材は現地のほか山麓付近から集めたものであろう。
 
 遺構は、最高所の天守台をほぼ中央に置き、本丸以下南方に南二の丸、南千畳、北方に二の丸、三の丸、北千畳を築いている。さらに、天守台の北西部には花屋敷と称する一郭があり、主郭のなかでも最も低い位置にあるため、南北には向かい合った塁状石垣列を築いている。

▲竹田城跡東辺〜本丸から南(写真左側方向)へ、南二の丸、南千畳と階段状に曲輪が連なる。天守台は、城下町をのぞむ本丸の正面に置かれている

▼竹田城西辺〜本丸から北方向(写真では左方向)にも二の丸、三の丸、北千畳と曲輪が続く。竹田城の先端を固めている北千畳、花屋敷、南千畳の標高はほぼ同じで、標高331mに作られている
 
▼本丸(手前)から南方向へ、一段下がって南二の丸、さらに一段下がって南千畳(左奥)と曲輪が続く
 
本丸から南二の丸、南千畳を望む
※現在(平成26年6月)、本丸へは入れません(写真はそれ以前に撮影)

 ▼本丸(写真右端)から北方に築かれた二の丸、三の丸、北千畳(左端)

※平成26年3月20日から観覧通路が設定され、黒のゴムシート以外の部分は立入禁止となっています。また、城内は一方通行です
 
▼尾根の最高所に置かれた本丸石垣(東辺)。最も高い部分が天守台
 
左端の一番高い石垣が天守台(A)

 
天守台(B)
 
本丸跡(C)
※写真(A)(B)(C)へは、平成26年6月現在、立ち入り禁止です。写真はそれ以前に撮影したものです。


■竹田城跡へのアクセス

訪城時、竹田駅から南登山道(舗装道)経由で登城。駅からゆっくり歩いて地図の現在地まで約40分、現在地から大手門入口まで15分ぐらいです。なお、徒歩での登城口は、表米神社登山道、駅裏登山道もあります。
 
JR竹田駅(構内にわだやま観光案内所併設)〜登城に関する情報を教えてくれます。また竹田城復元模型も展示。左後方の山頂部に竹田城が築かれている。

 
情報館 天空の城〜竹田城を紹介する竹田城シアター、竹田城跡出土品、竹田城跡鳥瞰模型などを見ることができる。
■竹田城跡出土品(情報館「天空の城」展示品)
 竹田城の特徴として、城跡内に多く散布している瓦が挙げられます。また大規模な建物を支える礎石もみることができ、瓦葺きの建物があったと考えられます。山城とは戦うための施設。竹田城はそれに加え、石垣・瓦葺きの礎石建物の存在といった近世城郭としての特徴を有することから、地域支配を行うための重要な政治拠点としての設備もあわせ持つ城郭でした。

高麗瓦(こうらいかわら)〜竹田城から出土した瓦で特に注目されるものに高麗瓦があります。瓦の表面に、方形の十文字の花弁状や、同心円状の叩きを施しているもので朝鮮半島の造瓦技術です。しかし、土質や焼成の特徴からみると、国内で生産されたと思われます。城主の赤松広秀が朝鮮から帰還したとき、瓦工人を連れて帰ったのでしょうか。


軒丸瓦・軒平瓦〜屋根を飾る瓦については、さまざまな種類があります。しかしほとんどは丸瓦及び平瓦です。軒先を飾る軒瓦(軒丸瓦・軒平瓦)は、軒丸瓦ではおおむね三ツ巴文であり、軒平瓦では均整唐草文です。

竹田城跡にはポピュラーな軒瓦とともに、特殊な形をもつ鯱瓦も存在しています。竹田城から採集されたものは断片中央に鰭(ひれ)を表現したと思われる突起があり、その両側全面にはU字状に描かれた鱗(うろこ)が表現されています(文は情報館「天空の城」説明板より)

竹田城跡から採集された鯱瓦の一部

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{2005年・5月現在、訪問城}

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