このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 国指定史跡  津和野城 島根県鹿足郡津和野町
      
      (上)比高200mの山上に築かれた津和野城
       津和野川に架かる津和野大橋たもとから本丸石垣を望む。
      
(下)麓から見た本丸石垣
                
 当城跡は、初め一本松城といい、のち三本松城と改めた。全国でも有数の山城跡。明治6年(1873)の「城郭存廃決定(廃城令)」によって建物は解体されたが、急峻な山頂に築かれた豪壮な石垣・曲輪跡とが往時を偲ばせる。
【津和野城の沿革】
     
      中世山城と近世山城が同居する津和野城(地図は城跡説明板より)

【中世山城 津和野三本松城跡】
 文永11年(1274)、弘安4年(1281)の元(蒙古)軍の北九州・北浦への来襲を受け、鎌倉幕府は西石見(にしいわみ)の海岸防衛を吉見頼行(よしみよりゆき)に命じた。頼行は弘安5年(1282)家来とともに能登から木曽野(津和野町北西部)に地頭として入り、永仁3年(1295)この城山山脈に築城を始めた。以後吉見氏は14代300年間、随時増築補強を行い、城山山脈の諸所に曲輪・堀切・竪堀・横堀などを構築して堅固な中世山城(一本松城あるいは三本松城と呼ばれた)を築いた。

 この山城は天文23年(1554)の「三本松城の役」では大内氏・陶氏・益田氏その他の大軍に山麓を包囲されながらも、4月から8月までの100余日の籠城戦に耐えた。 吉見氏は関ヶ原合戦(1600)で毛利氏とともに西軍として戦い、敗れて萩へ退転した。翌年(1601)、坂崎出羽守が初代津和野藩主として入部し、わずか16年の治領の間に、現在の本城と織部丸の位置に高い石垣の近世山城を築いた。
      
    
    (模式図は城跡説明板より)

【近世山城 津和野城址】
 津和野城は関ヶ原合戦の戦功により入部した坂崎出羽守直盛(1601〜1612年)によって山頂に高い石垣を積んで築かれた近世山城である。石垣の石材は、約3km北方の寺田地区や枡ヶ峠の青野山トンネル付近で採石し運び上げたものである。天守台の石垣のなかには2トンを超えるものもある。坂崎氏は、従来の搦手を大手に改め、北方に出丸織部丸を築くなどして城の構えを整えたが、有名な千姫事件で1616年に断絶となり、あとへは元和3年(1617)、因州鹿野から亀井家二代亀井政矩(まさのり)が津和野藩主として入城した。

 それから約250年間、亀井氏が11代にわたって居城とした。その間、延宝4年(1676)の大地震によって城郭が大被害を受けたため、これをその後4度にわたって修理している。本丸は海抜367m、近世の絵図面などによると本丸を中心に城門6、櫓が14あったことがわかるが、天守は貞享3年(1686)、落雷のため焼失してからついに建つことがなかった。
【城の構成】
        
        (津和野町郷土館にて撮影)
山城部分は、本丸・二の丸・三の丸・腰曲輪からなる本城と、北へ約250m離れた出丸の二つに分かれる。

                
                
▲出丸[織部丸(おりべまる)]

                 
                
▲本城。天守台と後ろは三十間台(さんじっけんだい)石垣 
   ■津和野城本丸と出丸   ■津和野城下町             地域別訪問城に戻る

 
リフト乗り場(片道5分)。訪問時、リフト点検のため休止中でした。なお津和野駅からここまで徒歩約20分。
 
登城口。リフト運転休止中のため、リフト乗り場と太鼓谷稲成神社との間にある登城口から登って行きました。本丸まで休みながら約40分。

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