このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

▲かつては三層の天守があった。貞亨3年(1686)の雷火で焼失し、石垣のみを修築して、天守は再建されなかった。天守台は本丸最高所(三十間台)より一段下に位置している。
(下)別角度から見る天守台

△本丸東門下方の様子。城跡碑や説明板などが建つ。左後方の石段を上がった所が東門跡。

△出丸を囲む土塁と、土塁上に築かれた石垣

▲津和野城出丸跡
 この出丸は、慶長5年(1600)吉見氏に代わり,、翌年津和野へ入城した坂崎出羽守直盛が津和野城改築の時に築いたもので、築城の指揮を直盛の弟で、家老浮田織部がとったことから、別名「織部丸」ともいわれる。出丸が、本城を守るための戦略上、防塁としての役割は必要不可欠であり、特に坂崎氏の時代には鉄砲に頼る実践的な戦術が進み、この場所を強化する必要があった。出丸あたりは東西約18m、南北44.5m.あり、門を入ると右に番所があり、石垣に沿って塀が巡らされていた。

▲津和野城復原模型(津和野町郷土館蔵)
現在、本丸跡と出丸跡には壮大な石垣が累々と残り、曲輪跡も良く確認できる。

▲津和野城本丸図(城跡説明板より)
 東門を入って右手に見る石垣が三段になっており、ここは三段櫓の跡。この三段櫓を右に見て上がった所が西門跡。西門右手を上がって馬立跡、台所跡、海老櫓と続く。また、東門を入って左に廻って行くところが腰曲輪で、これを行くと隠門に出る。天守台には三層の天守が建っていた。天守を右に見て上がった所が太鼓丸、その上が三十間台、その南側は人質櫓。

 《本丸跡》

 《出丸跡》

(上)東門跡
 坂崎氏以後亀井氏の時代には大手門となっていたところ。後方は三段に築かれた石垣。
(左)三段になっている石垣は、三段櫓の跡。
 櫓台が上中下の三段になっており、それぞれに平櫓を建てたもので、見る方向によっては三重櫓に見えるといわれた。

(左・下)馬立・台所・海老櫓
 ここは本丸の西、津和野城の三の丸にあたる。通路を上がって左は馬立と言われ、乗馬をつなぎとめておく所、右は三段櫓の最上部の建物へつながる。馬立の奥には台所があり、石列による排水の機能が見て取れる。さらに奥には海老櫓といわれる建物があり、搦手{喜時雨(きじう)村側}に直面する望楼であった。周囲は塀で囲まれ、その支柱を支えるための控え石がおおむね一間(1.8m)おきに置かれている。

▼天守台

▲西櫓門跡

△出丸から本丸東門までの距離は約244mあり、徒歩10分。

△出丸跡

△出丸を取り囲む石垣

△出丸の門跡

△三十間台石垣と、津和野の町並み

(右)三十間台跡
(下)太鼓丸から見る三十間台石垣

(左)人質郭の高石垣 三十間台、南方一段下に位置する、津和野城内で最も高い石垣。 (下)三の丸(南方)から望む人質櫓の高石垣 人質櫓の後ろには三十間台石垣がそびえる。
(右)人質櫓の高石垣
三十間台から見る太鼓丸跡
天守台北方の細長い帯曲輪 後方は三十間台の石垣群。 柵で通行止めになっているが、これを行くと隠門、太鼓丸跡。
津和野城本城 [本丸]と[出丸]

(左上)南門外側から見た南門櫓

(右上)南門内側から見た南門櫓跡

(左)南門櫓から人質櫓石垣を眺める

三の丸から見た三十間台(左上)と人質櫓石垣(右端)
東門を入って左へ廻って行く所の腰曲輪 右の石垣上が二の丸(下の写真)。 後方が本丸最高所の三十間台石垣。
天守台から望む西門跡
天守台から見た西門と馬立跡・台所跡 西門(左側の石垣)の右通路を上がって行くと馬立跡・台所跡・海老櫓跡になる。 右下へ行く通路の先が東門跡。
天守台と西門 天守台南側の三の丸から見た天守台(右側の石垣)と西門(奥後方)。

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