このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

▲古橋口(大手門側)から見た臼杵城跡(うすきじょうあと)
左より時鐘櫓跡石垣、大門櫓(中央・復元櫓)、畳櫓(右端・現存櫓)

大分県指定史跡
臼杵城
        大友宗麟が臼杵湾に突出た丹生島に築いた平山城
■臼杵城のはじまり
 臼杵城が中世城郭として利用され始めた年代は明瞭ではありません。これまでは記録類などから、大友宗麟(おおともそうりん)によって永禄5・6年(1562・1563年)に築城されたとする説が有力でした。しかし、近年では弘治年間(1555〜1558年)以前にはすでに利用され始めていたのではないかとの説が有力になってきました。

 中世城郭は、漆喰を多用し、塀や櫓、天守などを持つ近世城郭と違い、もっと実戦的な城郭でした。臼杵城は元々は「丹生島(にうじま)」と呼ばれ、現在同様切り立った崖に囲まれた臼杵湾に浮かぶ島(現在は陸続き)でしたが、その防御性の高さから、城郭を築く土地として選択されたのではないでしょうか。

 大友氏改易後は、福原直高を経て太田一吉が臼杵城主となります。太田氏は慶長2年(1597年)の入部以後、「祇園洲」に石垣や櫓を設け、三之丸を作りました(「稲葉家譜)」

 慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦後は、稲葉氏が臼杵藩5万石余の主として、臼杵城に入ります。以後、明治維新まで臼杵藩は稲葉氏によって支配されました。その後、明治新政府の廃城決定により卯寅口門脇櫓(うとのぐちもんわきやぐら)、畳櫓(たたみやぐら)以外の建物はすべて破壊され、公園化されました。
(文は現地説明板より)

卯寅口門脇櫓(現存櫓)


畳櫓(現存櫓)

■臼杵城絵図

本丸、二之丸の周囲は海で、三之曲輪とは今橋と古橋の二つの橋で繋がっていた。本丸は島の突端に造られ、本丸の右下(西北隅)には3層4重の天守櫓があった。


卯寅口門脇櫓から見た崖上の本丸(建物はトイレ)
 崖の右上は亀首(かめのくび)櫓跡、その下は卯寅口。


かつて3層4重の天守が建っていた天守櫓跡

■幕末の臼杵城下絵図
  
 「三之丸」右上には、万治3年(1660年)に州崎馬場がつくられました。臼杵城周辺の海は遠浅で、末広川、臼杵川、海添川などからの土砂が堆積し、そのことが問題ともなっていましたが、そうした土砂を利用して、江戸時代の間を通じ、埋め立て地(「築地(ついじ)」)が拡張されていったのです。「築地」は延宝4年(1676年)に造成許可が幕府から出されました。臼杵藩はこの「築地」区域を藩士の屋敷地にしようともくろんだようですが、実際に利用された面積は少なかったようです。

 臼杵藩は天保2年(1831年)から財政危機を乗り切るため、藩政改革に着手します。その拠点として設けられたのが「惣役所(総役所)」と呼ばれた役所でした(現在の臼杵小学校、地図上では三之丸の右上辺り)。この役所は臼杵藩のすべてのお金の出入りを管理するところとされ、その門も「量入門」「制出門」と名付けられました。

 この改革のリーダーとして「勝手方総元締」に任命されたのが、家老・村瀬庄兵衛でした。

(文は現地説明板より)



■現在の臼杵城周辺図  
  現在は埋め立てが進み、かつての海面には人家や公共施設、学校などが建ちならんでいる


本丸から望む臼杵湾
 かつては、この辺りは海であった。臼杵湾に浮かぶおにぎり形の島は津久見島。


市街地後方は寺院と武家屋敷が続く二王座(におうざ)付近

臼杵城跡みてある記
〜大手口から臼杵城跡をゆく〜
 
  
  (写真は現地説明板より転載)

鐙坂(あぶみざか)
 古橋口から二之丸へと続く折れ曲がった登城道。


鐙坂の途中から望む畳櫓(現存櫓)

畳櫓
 鐙坂を登ったところの中門櫓跡脇に位置する。畳櫓前の石段を上がり左に折れると大門櫓へと続く。


井楼(せいろう)櫓跡から見た畳櫓

平成13年に復元された大門(だいもん)櫓

二之丸跡から見た大門櫓(城内側)
 左方には井楼櫓跡が残る。


大門櫓(左)と畳櫓(右)
 その間にある石垣上(柵に囲まれた部分)は井楼櫓跡。


時鐘(ときかね)櫓跡


会所(かいしょ)櫓跡

宗麟候レリーフと国崩(くにくずし)の大砲(復元品)
 天正4年(1576年)ポルトガル人より宗麟候に佛狼機(フランキ)砲が贈られたが、これが日本初の大砲と云われている。宗麟候は、これを「国崩」と命名し、臼杵城の備砲として備えつけた。

勤皇臼杵隊之碑
 この碑は、明治10年(1877)に起きた西南戦役において、順逆を誤らず大義のために郷土を守り、東上してきた薩軍と戦い、その進撃をはばみ敗走させたものの、この臼杵における戦いにおいて、尊い命を落した臼杵隊隊士43名の功績を永く伝えるために建てられたものです。

本丸跡から鉄門櫓跡(左側の石垣)後方の二之丸跡を望む。

二之丸と本丸は土橋で結ばれており、土橋の両サイドは空濠となっている。

<二之丸>

 『江戸時代、空濠から西側一帯を「二之丸」あるいは西の丸と呼んでいました。

 臼杵城は、大友宗麟によって建設されましたが、その当時の「二之丸」の姿は明らかではありません。しかし、近年の発掘調査では、弘治3年(1557年)、天正16年(1588年)の火災で焼けた土層が確認されましたが、天正の火災層からは瓦が一点も出土していないことから、瓦葺きではなかったこと、壁土に漆喰を用いていたこと等が判明しました。

 また、その層からは景徳鎮(中国)製の青花磁器(せいかじき)や赤絵金襴手碗(あかえきんらんてわん)など、多くの高級陶磁器出土していることから、大友時代の城主居館が存在していたことが伺えます。

 大友氏改易後、豊後国は豊臣政権恩顧の大名である福原直高、太田一吉が相次いで入城します。これ以降臼杵城は「織豊系城郭」と呼ばれる、石垣や天守櫓等の豪壮な造りを重んじるスタイルへと変化していったと考えられます。

 その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦直後、美濃国郡上八幡(現在の岐阜県)から転封してきた稲葉氏によって、さらなる改修が実施されます。大門櫓(復元)、帯曲輪や今橋口などもこの時に整備されました。 その後、延宝4年(1676年)、当時の藩主・稲葉景通(5代目)が本丸から二之丸に御殿を移してからは、こちらが城の中心的機能を担い、明治維新まで使用されました』
(城内説明板より)
二之丸跡(手前側)から土橋と、その後方の本丸を望む
 土橋を渡るとすぐのところに本丸の出入口となる鉄門を設けていた。土橋の両側は、本丸を守るため空濠が整備されている。

臼杵城本丸をゆく
■地域別訪問城&訪問城マップに戻る


このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください