このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

1972年夏の九州

1972年の夏休み、一眼レフを手に入れて、
乗り込んだのは東京駅朝10時発の
急行高千穂・桜島 西鹿児島行きでした。
当時は並ばないと座れません。隣席は宮崎まで
行くというおじさん、向かいは別府まで行く若い
お姉さんでした。これで九州に入るまでの
丸一日間のお付き合いになりました。
乗った客車は軽量客車のナハ10でした。

上の3枚は吉松機関区で、短い時間で撮ったものです。
D51が何台も佇み、1750ミリのスポーク動輪がきれいなC55が
後方を行き来したりしていました。

左は栗野駅で入れ替え作業中のC5691です。
C5691は国内でのトップナンバーで、形式入り
ナンバープレートをつけていた事など、有名な
機関車でした。この年秋にはお召し機にも選ばれ
晴れ姿も見せています。
国鉄廃車後、西之表市で保存されていましたが
残念ながら、95年に解体されてしまいました。

下は吉松機関区での撮影です。
小型ながらもスポーク動輪がきれいなC型です。
栗野から吉松へ移動しました。吉松は肥薩線、吉都線、山野線の機関車たちが集まっていました。この1972年には、
筑豊本線からC55が2両転属してきて、C57、C56、C55、D51と人気の高い機種が集まっていました。大畑ループを
越えた人吉機関区にはいわゆる山線のD51、湯前線の9600、川線のC57がいて、南九州の蒸気機関車撮影のメッカ
のような地域でした。

まる一日かけて降り立ったのは大分駅です。
ここから、豊肥本線で立野駅へと向かいます。
当時すでに大分口の蒸機はなくなっていましたが、
メッカ立野のスイッチバックは健在でした。
立野からの高森線はC12による
混合列車が走り、これも人気でした。

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白川にかかる鉄橋がポイントになっていましたが
一番人気はアーチ橋の白川第二橋梁でした。
この日は立野から熊本まで駆け抜けるスケジュール
のため、立野駅に近い白川第一橋梁で撮りました。

左上に載せた写真を見ると旧型客車の開放された
デッキには、気分良さそうに外を眺めている人達が
見えます。この高い鉄橋を走る列車から真下を
流れる川をのぞいたら、結構恐いと思います。

立野駅と言えばスイッチバックです。
阿蘇の外輪山の切れ目を登って行く急勾配を
スイッチバックを使って9600形が行きます。

麦畑?の向こうから顔を出したのは69665です。
ここから立野駅へ入ると、バックでスイッチバックを
上がってきます。そして今度は前進に戻って
さらに登って行きます。悲しいかな50mmの標準で
手持ち撮影した中に良い写真はありませんでした。

遠い昔、外輪山の中には水がたたえられていた時期があり、ここ立野のあたりが切れて
白川が熊本平野に流れ込むようになったそうです。それにしても、まともな写真が撮れて
いません。門デフの69665です。

阿蘇を駆け下り、熊本平野に入った豊肥本線ですが、この写真は、
水前寺駅東方の国道28号線のオーバークロスです。夕日を浴びて
熊本駅を目指して走る、門デフに79602牽引の客レです。
この後、1988年に新水前寺駅が設置され、下を走る市電との
アクセスが便利になったようです。

当時、兄が博多に仕事で赴任しており、その独身寮が西鉄沿線にありました。この日は熊本からそこへ転がり込んだものです。
翌日は鹿児島本線を下り、水俣から山野線で栗野へ入りました。この山野線にはループ線があり、客扱いはディーゼルカーだった
ものの、今となっては良い思い出になりました。

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