このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
山口線に蒸気機関車が走り始めた
のは、1972年6月の事です。
頚城鉄道2号機を借り受け、謙信号
と名付けられました。翌年には
井笠鉄道3号機を借り受け信玄号
の名ではしりました。
1972年10月に行って、何枚か撮影
してありました。例によって、へたな
写真ばかりですが、最後の記録と
合わせて、ご覧ください。
この日は、桜台を出て乗り換えながら狭山湖駅へ到着。山口線ユネスコ村駅まで、徒歩で急いで行きました。
着くなり、西武遊園地行きの蒸気機関車牽引の列車の発車だったようです。落ち着いて写真を撮る間もなく乗りました。
乗れば、車窓からどうしても写真が撮りたくなるのは世の常で、しょうもない、写真が続きます。
左の写真は出て間もなくの場所ですが、ドロップハンドルの自転車が時代を感じます。中の写真は道沿いの駐車場に
集まった人たちです。手前には、やはりドロップハンドルの自転車に乗った若い人、子供を抱えて見せているおばさんなど
沿線には数多くの人たちが集まっていました。停まっている車も、懐かしい車種ばかりです。そして左手後方の大屋根は、
狭山スキー場です。右の写真は、お決まりの山口信号所です。この写真にもドロップハンドルの自転車少年がいます。
列車は進み、中峰信号所です。B11形蓄電池機関車の引く列車とすれ違いです。なんともピンの悪い写真ばかりですが、
バイクの若者や鈴なりの乗客、子供を何人も連れた母親など、少子化の進む現在とは、イメージが違うような気がします。
みぎの写真は西武遊園地近くです。中ほどのデッキのあたりに見えているのは、新聞でしょうか?もしかして競輪場へ
行く人でも乗っていたのでしょうか?
西武遊園地駅に到着すると、入れ違いでの発車がB1形牽引でした。B1形を見たのは、このときが最初です
でも、ホームに下りるとすぐに発車して行ってしまいました。ホーム上では、カメラを構えて記念撮影大会です。
かくいう自分もその中の一人です。井笠鉄道の木造客車に「おとぎ電車」は似合わないけれど、首都圏で気軽に乗れる
蒸気機関車として、人気があったひとこまです。
コッペルは推進運転でホームを離れていきます。柵の外にいるおじさんは何をしているのでしょう?中左は、
蓄電池機関車を待つオープン客車です。後方には山口検車区の建物が写っています。中右の写真は、線路脇の芝生で
のんびりと見学している人たちです。おそろいのシャツの子供も、今では40歳近い年齢になっているはずです。
さきほどの客車が切り離されて佇んでいます。
西武遊園地から歩いて、西武園ゴルフ場脇の山口線唯一のトンネルへ。でも、うまく撮れそうなところではありません。
ほどなく、蓄電池機関車がユネスコ村からやって来ました。そしてバック運転で謙信号が来ます。下り坂でトンネルに
入るためか、煙りもみえません。後ろの客車も写らない...。つまらない写真になりました。
西武遊園地へ戻る際に、山口検車区によりました。冬場の主役、21形客車がいます。手前は、蒸気機関車用の石炭と
給水ホースでしょうか。車庫の三角屋根が特徴です。駅のホームには2種類の機関車が停まっています。
2号機関車謙信号です。コッペル、国鉄長野工場の銘版が貼ってあります。右は焚口です。小さいですが貫禄です。
蒸気機関車を見送って、
次の列車に乗って
ユネスコ村へ帰りました。
夕方になり乗客も
減ってきました。。
70年代初頭、もう30年以上もたちました。まだ国鉄では蒸気機関車が現役で頑張り、
北海道、九州には多くのファンがかよっていました。東京近郊の狭山丘陵を駆けていた
ナローの記録です。
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